しょうちゃんの繰り言


読書とは

人は古来、未知なる物をまず体験から学んだことだろう。見る事、聞く事が新しい知識習得の原点で、その発達過程は赤ちゃんを見ていれば良く分かる。彼らは言葉を覚え、やがて文字を習得する。文字も、従って本も無かった時代には、人は親や周辺の人達から新しい知識や知恵を学び、それはまた自分の子孫に伝えられた。

人類はやがて必然的にそれぞれの民族が文字を発明し、それを自由闊達に利用したお陰で急速な文明の進化を遂げることが出来た。「有史」というのは書いた歴史の事で、文字のお陰で古の出来事を今日でも詳しく知ることが出来る。有史以前は伝承が全てで、他は遺跡や遺物から推測するしかない。伝承だけではその正確性や影響を与える範囲は限定的である。

文字の発明は人類の知的活動の原点と言えるが、後に紙と印刷機の出現で生まれた読書の習慣は、あらゆる分野の知識を多数が習得する最善の方法となった。今では各国の言葉が母国語に翻訳され、印刷物も安価に国民一般が手に入れることが出来る。つまり世界中の多岐に亘る分野の情報を我々は現在いとも簡単に手にすることが可能だ。我々があらゆる事柄を自分の選択で学べるのはこういった素地が出来上がっている事による。かつて読書は裕福な一部特権階級にのみ許されたもので、一般庶民は字を読むことも高価な本を買うことも出来なかった。書を読むという現代人の我々にとって当たり前のことが、実は大変な苦労の末、手に入れた文化遺産だということが分かるだろう。文字とその結晶である書籍が趣味や娯楽を含め、知的作業に必要欠くべからざるものであることは自明の理である。

つい最近の調査で、大学生の40%が月に一冊の本も読まない事実が明らかになった。一寸前には分数の計算(足し算・引き算・掛け算・割り算)が出来ないという大学生の話題で賑わったばかりだった。今日、日本での大学進学率は50%に及ぶそうだから大学で何があってもあまり驚かないが、これでは親御さんは子息を「大学」という名の遊園地を兼ねた幼稚園13年生組に入れたようなものだ。我が家の孫娘は5歳の幼稚園児だが、本を読むのは好きな様で、親に教わりながらも毎日読んでいる。今の大学生の方が幼稚園児より酷い状況と言えるだろう。コンピューターやスマートフォンといった他の手段で読むという擁護論もあるが、それでも大学生の「知」の劣化は認めざるを得ない。大学と聞いて「知の殿堂」、「象牙の塔」と連想するのは明治の時代で終わっているのかもしれない。

適性の無い人間が、居てはいけないところに居座る例は世間には沢山ある。人の子の親として居てはいけない男女、国会に居てはいけない国会議員、運転する立場に居てはいけない免許取得者、等々幾らでも不適格な人間は居る。知人の大学教授も適性の無い同業者が居る事を嘆いていた。一寸厳しい目で見れば、大学教授と言えども「その程度」が中には存在するのも事実だろう。大学に適さない学生が居るのも今日では或いは当然なのかもしれない。

又、まともに物を見ることや判断することの出来ない新聞社さえ日本にはある。間違えた記事を発信すれば訂正するのが当たり前だろうが、その基本さえ出来ない大新聞社もある。よくこれで偽造商品や詐欺事件を、胸を張って批判出来るものだと感心する。ちなみに企業やレストランは内容と違ったものを客に売れば、その事実が分かった時必ず責任を取らされている。当たり前のことだが。

戦後の民主的義務教育は各学年に応じたカリキュラムで、出来る子も出来ない子も一律の基準の下、一律の内容を教えている。学ぶということが画一化され、子供の自主性や創意工夫にはあまり配慮されてない様に思える。学年に応じた国レヴェルの規定があり、その範囲で教わった事をどれだけ正確に反復出来るかが教育の成果として評価されている。21世紀の時代において高校の評価が「一流大学に何人入った」、という基準で語られていることに、関係者はもとより国民も納得している現実もある。教育界の現状は、学ぶということの本質を追求する教育現場でなくなり、大学も就職斡旋所の役割をはたすのが主な役目になっているようだ。

こういった教育の形骸化は、その資格(卒業証書)が社会で免許証・通行証としての機能をはたしてくれるからだろう。今の受験は極論すれば本を読まなくても対応出来る。むしろ読書は受験生には有害だという父兄や教師さえいた。私の高校時代、同級生に「少し本でも読んだらどうか」とお節介な助言をしたら、「大学に入るまで親から禁止されている」と応えた奴がいた。勉強時間が勿体無くて読書に割く時間は受験勉強の邪魔になるという論法だ。「今は受験勉強だ、好きなことは大学に入ってからやれ」と公言する教師も居た。

もう20年位前の話だが、司法試験に極めて高い合格率を誇る予備校が話題になった。そこの責任者がその成功の秘訣を得意げにマスコミで披露していた。彼の説明では試験に受かる為に100点取る必要はなく、過去の出題された問題を徹底的に洗い出し、出ない分野の勉強を放棄することがポイントで、それで充分試験には受かるという解説だった。過去の出題傾向から問題に出る可能性の少ない分野を切り捨てたところに、この予備校の特徴と成功の要因があった。究極の「傾向と対策」だと言えよう。つまり、受験期の若者に本を読むなという親や教師と同じ発想だ。無駄なことや効率の悪い分野に時間を使わないという極めて皮相的な手段だった。ここでも学ぶ事の本質は見えず、試験に受かることへの現実的な対応策だけがあった。

一ヶ月間本を読まなかった大学生が40%に達するという数字は彼らの責任ではなく、そういう教育しかしてこなかった教育関係者全ての責任だと言える。全ての学生が40%に括られたような大学生活を送っているとは思えず、どんな環境であれ真摯に立ち向かう若者は少なからず必ず居ると信じたい。高等教育で学ぶのは、辻褄合せではなく自分の求める知的好奇心の充足が無ければ意味が無い。学生時代とは、価値観を含め多様な選択の中から個人としての全人格を形成する時間でもある。教わった事を正確に再現する能力を競うことに終始するから、学ぶことに存在する本来の興味ある本質に気が付かないまま学生時代を終えることになる。

言うまでもなく、学ぶという知的作業では読書は基本中の基本で、これを忌避するような学生には既に学ぶ姿勢は何処にも無いと言えるだろう。底の浅い金太郎飴が大量生産される土壌は、教育の形骸化と同時に既に始まっていて、今やそれが確立されたと言ってもいい現象が起きている。学生にも現行のシステムはどうあれ、知的好奇心の追求を続けて欲しい。若者にとって新しい発見は常に心が躍るものだという事を実感して欲しい。「知」への挑戦は時に苦しくてもそこに「面白み」と「楽しさ」を見つけることも出来る。そして希には達成した時の「充実感」も待っている。学ぶ人間にはそれが何よりだろう。

人は何か目的を達成する時、効率の良い方法を常に編み出し、それが効果的であれば誰でも従う。学ぶ事が形骸化し、試験に受かることに意味があれば、その本質に拘り続ける人はあまり居ない。試験そのものが皮相的なものしか問わず、与えたものの正確な再現に終始すれば、当然受験生はそれに適応した勉強しかしなくなる。

私の出た大学の教授がドイツで博士号を取ったときの自分の体験を話してくれたが、そこでは口頭試問が最終試験だったという。5人か6人のドイツ人教授に矢継ぎ早に質問を受け、彼の答えに4人以上の教授の合格点が付けばその大学では博士号が授与されたらしい。(人数に関する記憶には今では確たる自信が無い)
教授の話では日本でこの方式を採用するのは難しいだろうということだった。日本式発想ではこの方法だと「情実が入り込む余地がある」、として反対される事が考えられるからだ。真の実力は異なった複数の教授から出される多岐に亘る質問を処理することで証明出来ると思うのだが、何故だか日本では採用されてないと当時教授から聞いた。

前に何度も書いた事だが、英語が使い物にならない「英語の成績が良かった」社会人、ちゃんとした文章も書けない「国語の成績が良かった」社会人、等々と教育の成果が見られないサンプルは社会には幾らでもある。同時に学生時代に頑張ったお陰でスキルが身に付いた例も沢山あるに違いない。むしろそういう方が多い事だろう。要は学生時代、辻褄あわせに終始したかどうかの違いだ。学ぶことは苦労もあるが、本当は面白いという事に本を読まない学生も気が付いて欲しい。

自分で考える事を放棄したような現状追随型の勉強では、新しい「知」の発見や、自分の内から湧き上がる新しい出会いへの知的興奮を味わえなくて、折角の学びの時を無為に過ごしてしまう事にもなる。

何故学ぶのかを考えるだけでも自分の方向性は見つかるかもしれない。「教養とは何だろう?」そして「人としてのあり方は?」等々自問することで自分が存在する理由や役目を感じることが出来るかもしれない。

「少しでも条件のよい会社へ」という程度の目標であれば、現状に甘んじて生きるのも選択肢の一つだろう。多分その方が圧倒的に多いと思うのだが、それでは何も変わらない。世の中の閉塞感を取り除くのは新たに社会人として加わってくる若者に期待するしかない。「何故?」と問う習慣を身に付けていれば、改革は可能だと思う。出来上がったものや権威を疑うことで新たな道が拓けて来るだろう。不合理なものや整合性の無いものを許すことから閉塞感は高まり、あらゆる分野が停滞している事実に気が付くだろう。

一方、当然の事だが大学だけが勉強の場ではない。経済的理由で高等教育を受けられなかった小学・中学・高校時代の仲間は私達の世代には沢山居た。彼らは今会っても、むしろ大学卒業生より現実的かつ判断力のある人達が多く、何かの知識や権威を背景にものを言う人達ではない。受け売りはしないが、自分の判断力を大事にする人達だ。日本の基盤を支えているのはこういう人達である事を忘れてはいけない。彼らの向学心は経済事情が上級学校進学を阻んだだけで、知的活動は彼らの方法で続け、今でも読書家が数多く居る。人は何処でもどんな環境でも学べるし、彼らから教えられる事は多い。

古稀を過ぎるまで生きた老人の贖罪として聞いて貰いたい。「何かがおかしい」と漠然とした疑問は持っていても、若い時には的確にそれを指摘し糾弾するだけの確たる判断力は養われてないものだ。弁解する訳ではないが、私達も同じ道を歩いて来た。そして出来上がったのが今の世の中だ。若い学生時代に「何を学んで来たのだろうか?」、という疑問が常に付き纏っている。書の勧めは、その失敗した老人の助言と聞いて欲しい。

人は独りでは生きられない。あらゆる業種が人の営みに必要なものだと考えれば、当然そこには社会的役割が存在する。その社会的役割を考えた時、胸を張って生きられればそれで充分だろう。
書はその判断の助けになると思っている。

平成26年3月30日
草野章二