しょうちゃんの繰り言


英国人の疑問

ジェームズが日本語の新聞を何部か持って又我が家へ来た。私とあまり変わらない年齢だが、未だに何処へでも愛用の古い車を自分で運転して出掛けるそうだ。新聞を持参して来るのは、今までの例では私に聞きたいことがあるからだが、必ず問題の箇所には赤線が引いてある。今日も、何か質問があるからに違いない。彼の持参した新聞には「憲法違反」という赤線を引いた見出しが見えた。

家内が、ロンドンに居る娘が送ってくれた“フォートナム・アンド・メイソン”の紅茶を、ポットのお湯ではなく沸かしたお湯で入れると、ジェームズは「ここでは、いつも本物の英国流紅茶が飲める」と家内を喜ばせ、早速本題に入った。

「ショ―ジ、教えてくれ。日本の憲法学者は現在の日本国憲法を絶対的存在として認め、その解釈の範囲を合憲か違憲と決めるのが彼等の学者としての使命なのか?」

質問の真意を探ろうとする私の表情を察してジェームズは付け加えた。

「憲法学者の国会での質疑への対応や、他の憲法学者へのアンケートの結果から、日本の憲法学者の殆どは集団的自衛権を合憲か違憲かという判断を示していただけのようだ。その多くが違憲と判断していたようだが。70年近く前の人間が立案した、まして実質GHQ主導の現憲法に関して21世紀の今、あるべき国の憲法の本来の姿を論じた学者が一人も居なかったのは私にとって驚きだった。それとも、彼等は単に現憲法解釈の法的妥当性への見解を求められただけで、国の憲法としての不備や問題点を指摘するのは野党から禁じられていたのかね?」

なるほど、そういうことか。それなら私にも意見がある。

「ジェームズ、君の疑問は心ある日本人なら誰しも思っていることだろう。与党もそこの本質論に踏み込めば憲法改正への高い壁があるため、集団的自衛権に関連する法案では、敢えて今のところ解釈で済まそうとしたに違いない。憲法学者であれば、現憲法の解釈に終始することなく、独立国の憲法としての在り方を論じて欲しかった。私が知る限り新聞を含めジャーナリストからも、この本質に関する指摘は民間シンクタンク“独立総合研究所”の代表である青山繁晴氏を除き無かったようだ。政治家であれば、与党・野党に係わらず現在公布されている憲法で我が国と国民の安全が守れるのかどうかが、最大の争点になるべきだが、現実は君の見ている通りだよ」

ニヤリと笑うとジェームズは話し始めた。

「我が国だったら、憲法学者と雖も政府から質問されてイエス・ノーと単純に解釈の法的正当性を表明する前に、もし憲法として不備なり、時代に合わなくなっている条文が関連の質問に含まれている場合、その問題をまず指摘するだろう。憲法学者というのは考古学者と違い、与えられたものの中から何かを見付け出す学問ではなく、本来国の憲法としての在り方にまず取り組むべきではないのかね。自然科学の分野では世界に伍して充分活躍している君たち日本人が、何故だか人文科学の分野では突出した人が出ていない。君たちの教育は近代化を目指した明治以来、先進国から学ぼうとする極めて真面目な文献学者が支配し、その伝統が未だに続いている様に私には思える」

ジェームズが言っている「文献学者」という意味は、自分の考えを発信することなく過去の学者の業績を忠実、かつ正確になぞらえることが出来る学者のことを意味している。日本の大学の成り立ちから、先進国の欧米に学ぶという基本姿勢があったことは否めない。つまり、明治期には外国の学者の文献に精通し、もの知りで博学であることが優秀とされた。今の日本のペーパー・テスト重視はその伝統から来ているのだろう。しかし、現在では憲法学者の使命を、単に法律という約束事の中での条文の解釈に彼等は留めておくべきではない筈だ。もしかしたら、彼らもそういった原則は分かった上で今回“現憲法の下”での解釈を述べたに過ぎなかったのかもしれない。

ジェームズが続けた。

「一人の国民として考えた場合、いずこの国でも国の安全は国民最大の関心事と思われる。わが国でも“国民は変化を望まない”という表現が人の持つ習性としてよく使われる。新しいことに対応することを嫌がる人間の本質を表した言葉だが、この本質には国境が無いようだ。一方で、イギリスや欧州各国は常に外敵との戦いだった歴史が残っている。国境線がたった30年の間でさえ同一でなかった、かつてのヨーロッパの歴史と地図を思い出して欲しい。豊かな耕作地や天然資源は常に隣国の侵略に晒されていた。スイスが永世中立を謳いながら国民自ら立ち上がって武装し、自国を守ろうとしているのは、彼等が豊かなアルプスの牧草地を国境沿いに持っているからとも言われている。国民は変化を好まないが、生きるためには我々は外敵と戦わざるを得なかったのも事実だ」

1938年、ヨーロッパで台頭してきたヒットラーと会見した、時の英国首相チェンバレンが「ヒットラーは平和を望んでいる」と国民に報告した話は有名だ。その時、「国民は変化を望まない」というイギリス国民の認識がヒットラー侵攻の実現性に対する否定的な声として反映されたが、それに異を唱えたのがチャーチルだった。そして結果としては彼の判断が正しかった。民主主義の世界でも判断力は多数決に求めても正解は得られない例だ。

私は持論を述べた。

「70年の長き平安の夢は何時までも続いて欲しいと国民が願い、平和を望む姿勢には何の問題もないが、所謂、平和憲法を守るだけで日本の平和が今後も守られる保証はない。防衛とはあらゆる現実的脅威の可能性に対する備えが必要で、国際情勢の変化を考えれば、それに応じた対策が必要となる。従って、友好国と同盟を結ぶのは抑止力として効果や効率が上がるのは誰にでも分かることだ。もし、同盟条約を他国と結ぶことによる戦争抑止力を選択せず、一国防衛の方針を貫くのなら、今の何倍もの防衛費、及び兵員と軍事力の強化が日本にすぐ必要なのは言うまでもない。少々の軋轢や不満があったとしても、自由を旗印に民主主義を貫く強国と日本が同盟を結ぶのは、世界情勢の現状から判断するに我が国にとって最上の選択だと思われる」

私の意見に頷くとジェームズは続けた。

「第二次大戦後、ヨーロッパではNATO(北大西洋条約機構)を1949年に創設し、アメリカも中心的役割を担いこの軍事同盟に後に参加している。NATOは当初ソ連の軍事的脅威に対抗するのが主な目的だったが、ソ連邦崩壊後は別の目的を持つ集団的安全保障の組織として未だにその役目を果たしている。一方、今ではヨーロッパでは通貨の統合まで進み1999年には「ユーロ」を共通の通貨として各国でスタートを切り、後に続いた国も出て来た。我がイギリスはご存じのように自国の通貨ポンドを国民は譲らなかった。現実的機能性からみたユーロ制度の良し悪しは別として、根本には垣根をなくすことによる国家間の争いを避けるのが一番の目的だ。戦火の続いた英国とヨーロッパの人達の知恵と言えるだろう」

ジェームズが述べたのは、戦火を避ける現実的な対応策として取った西洋の普遍性のある新しい制度だった。こういった共同作戦はある程度の文化レベルと共通する基本認識が無ければ出来ることではない。互いに通じ合う共通の価値観を持つことにより、国家は同盟を結ぶことが可能になる。そういった観点で今の日本とそれを取り巻く地勢的環境を考えた時、自ずと我が国の方向性と取るべき効果的な手段が示される筈だ。

ジェームズはさらに続けた。

「現憲法の解釈を憲法学者が法律の専門的立場からどのように下しても結構だが、彼等のさらなる使命は、憲法そのものが現実に適した妥当性と目指す理念の普遍性を満たしているかどうかの判断だろう。日本だけが現憲法を絶対視して、それを基調に解釈論を述べる憲法学者に違和感を覚え、またジャーナリストや有識者から疑問の声が少ないのも気に掛る。余計なことだが、もしかしたら君たち日本人は学ぶという基本的なことで何か大きな先入観を持っているのではないか。そうでなければ今回の専門家を交えた合憲・違憲論議がイギリスで教育を受けた私にはどうしても腑に落ちない」

イギリス人ジェームズの指摘は、外国人の見当外れな見方と言い切れないとこに問題がある。彼が言及した「文献学者」とその流れをくむ日本の教育制度は、一見うまく機能している様に見えるが、多くの問題を孕んでいるのも事実だ。西洋で学問発祥の地とされているギリシャでは紀元前400年以上前に、ソクラテスが議論における欠陥を見つけてさらなる思考を重ねる弁証法が生まれている。弁証法に関してはそれぞれの解釈がなされるだろうが、私は議論における間違いを見つけ、さらに議論を発展させる手法だと簡単に纏めている。古代ギリシャでは相手を論破し自分の説の優位さを示すことで、それが社会に取り上げられる制度になっていたという。従って西洋流の議論は反対意見を論破することが基本になっていて、その議論に負ければ自分の説を引っ込めるしかない。民主主義の原点はこの議論にあり、様々な意見があってもそのテーマごとに出来るだけ欠陥の少ない解決法を選択するにはこれ以外の方法は無い。従ってそういう教育を受けた英国人にとって自分の意見は何より大事で、それが欠陥の無いものに組み立てるのが教育を受けた人間の基本であり、その上に立って意見や持論を述べるのが学者や政治家の役目だろう。

ジェームズの問題指摘は我が国の教育制度のあり方を問うていることになる。日本でも「理詰め」という表現があるが、理に叶わないことはやるべきではないだろう。

人文科学の世界では、日本人にまだやることが沢山の残っている様に思えて来た。
浅学な古稀の戯言だろうか。

ジェームズはそんな感慨にふける私を横目に、紅茶のお代わりを家内に頼んでいた。

平成27年9月29日

草野章二