しょうちゃんの繰り言


約束事の背景
(学ぶことの意味)

私が約50年前に学校を出て船の仕事に関わった時、極めて興味深い事実を知ることになった。船主と荷主が貨物の運航を契約する際、荷主は船積み後直ちに運賃の支払い義務が発生し、船主に出航後少なくとも一週間以内に清算する事を同意する。一方船主は悪天候等に依る沈没事故などで万が一貨物を定められた港に届けられなくとも、失われた貨物の責任は取らなくていいし、支払われた運賃を荷主に返済する義務もない。貨物の保全は荷主の責任で、通常積荷の価値に応じて荷主が保険を掛ける。国際的な船の運航に関してはこのルールが基本的に適用されていて、私が知る限り例外は無かった。荷主は船に貨物を積み終わった時点で運賃の支払い義務が発生し、その貨物が無事自分の手元に届くかどうかに関わりなく船主に運賃を前納しなければならない。(Whole freight to be deemed as earned upon completion of loading without deduction and non-returnable ship and/or cargo lost or not lost.)

こういった国際間の船の運航に関する約束事の取り決めは、ロンドンにある海運取引所・ボルティク・エクスチェンジ(Baltic Exchange‐1744年には集会所としての原型が出来、この年を設立の起源と定めている)が中心的役割を担い、それに付随して海運保険業務も発達した。民族・宗教・習慣の違う国々との交易で、船主の責任と荷主の責任の範囲を規定し、揉め事を少なくする知恵があらゆる契約に見ることが出来る。船での交易が発展するに伴い海上保険も活性化し、当初保険業務を独占していたロイズ保険では保険の引受人は原則的に無限責任を負い、最悪の場合全財産の没収も覚悟しなければならなかった。まさにハイリスク・ハイリターンの見本のような投資だった。その後一部有限責任での引き受けや、再保険でリスクの分散を計り、保険の仕組みそのものも時代に合ったものに変遷しているが、ロイズの基本的な考えは未だに変わっていない。そのロイズの保険業務は17世紀末には既に始まっている。ちなみにロイズは数百人の保険引受人から成り立つ組織で、一般の保険会社とは異なる。

アングロ・サクソンはギャンブルが好きな民族で、あらゆる事を賭けの対象として売り出している。ブック・メーカーと言われる賭け屋が掛け率を提示し、市民は王室の生まれ来る世継ぎの名前さえ賭けの対象にする。勿論合法的な商売としてイギリスでは認められている。

ロイズの無限責任保険引受も、或いは究極の賭けとも言える。船の運航で何事も無ければ保険引受人は莫大な利益を上げることが出来る。彼らは保険支払いの財政的根拠を持つ資産家でなければ保険引受人として選ばれることはない。海運界のリスクを分散する為考え出された保険制度は、不労所得の最たるもので、事故さえなければ彼らは巨万の富を得る事が出来、優雅な生活を楽しめた。ただ、万が一船の事故が一時的に多発した場合や規模が大きい事故の場合、全財産を投げ出す覚悟が必要だった。これは決して堅実な人達の選ぶ道ではない。いかにもイギリス人が考えた商売という気がする。基本的には保険引受人はリスクを取って引き受けているのだから、利益を上げるのは当然だという考えだ。ただ、彼らの存在が海運取引を円滑にしているのは間違いない事実でもある。

船が一度に運ぶ量は、地上の貨物運搬車に比べて比較にならない位多い。従って船が悪天候等で沈没した場合の荷物の損害はその都度船主が面倒を見られる金額ではない。こういった背景と300年余に及ぶ歴史的教訓から保険が発達し、現在の取り決めに至ったものと想定出来る。

個々には不思議に思える約束事も、背景と役割を考えるとそれなりに合理的な取り決めに達していることの方が多く、知れば知るほど納得することが多い。

私の友人がドイツに駐在していた頃、たまたま旅行中訪れた日曜日の昼前、子供達と遊ぶ為ピアノを弾こうとしたら友人に止められた。安息日の午前中にピアノを弾くとたちまち近所からクレームが殺到するとのことだった。

またおなじドイツに駐在していた別の知人家族は夜10時を過ぎると入浴や洗濯・台所の洗い物も遠慮していた。階下に住む大家に気を遣ってのことだった。ただ、誕生日や何かのパーティがある時は別で、その旨近隣に挨拶しておけば遅くまで騒いでも何の文句も出ないとのことだった。お互い様ということらしいが、彼らはメリハリをつけて生活をしているに過ぎない。

むきになって自己主張していた家主の老婆が、友人の引越しの際には涙を流して別れを惜しんだ話も新鮮だった。彼らは出来上がった日常の生活パターンを異端者によって邪魔されたくないだけのことなのだ。慣れて彼らのルールが分かってしまえば楽だよと友人達は笑っていた。

また、イギリスに駐在していた同級生を同じく旅行中訪問した際、落ち葉の処理に焚き火を進言したところ、彼も最初同じ事をやって近所からこっぴどく文句を言われた経緯を話してくれた。“この太陽の光を遮る権利は誰にもない”という論法で説教されたと言う。

また、表通りに面する庭や窓には決して洗濯物を干してはならないと近隣のイギリス人にきつく注意されたそうだ。

アメリカに駐在した商社勤めの友人は車の衝突事故の場合、決して謝ってはいけないことを学んだと笑っていた。アメリカは謝った方が悪いと判断される社会なのだ。明らかに自分に非があっても彼らは決して謝ろうとしない。係争になった際、法的に不利になることから出来た習慣らしい。

自己主張の苦手な日本人から見れば全て違和感のある話だが、曖昧にしてやり過ごす文化より彼らの方が分かり易いとも言える。ただ、移民政策で増えた異邦人に最近の欧米の国々は例外なく、悩まされているらしい。彼らの伝統も文化もある意味、移民として海外から来た異邦人に侵食されていると言えるだろう。これは明日の日本の姿かもしれない。

伝統や文化は必ずしも異邦人によってのみ侵食されるものではない。多様な価値観という言葉で表される価値判断基準の拡がりは、多くの場合底の浅い言い訳しか用意されてなくて、単に安易な選択をしている方が多いように私には見える。しかし時代の流れとはいえ、こういう風潮が蔓延してしまえば元に戻すことは最早不可能に思える。これも築き上げた伝統や文化の破壊と言えなくもない。特に戦後、民主主義教育の名の下になされた多くの改革は、時として日本古来の伝統・文化さえ否定したことは否めないだろう。

唯物論に支えられた共産主義は宗教を否定し、禁止した。しかしどの国でも結果としてこれを貫くことは出来なかった。人の持つ信仰心だけはどんな主義でも根本から変える事は出来ず、単なる科学的分析とその実践だけでは人心を纏めることは出来なかった。“宗教はアヘンだ”とカール・マルクスは述べているが、宗教を批判したものではなく、貧者が生きるために宗教に縋るような社会を創ってはいけないとの真意があったと解釈されている。しかし社会主義国を主導したリーダー達は例外なく宗教を禁止した歴史が残っている。

人間社会(国)が長い時間を掛けて築き上げた伝統や習慣、つまり価値観はそれまで残った必然があり、それが迷信や一部支配者の恣意的なものでない限り簡単に変えるものではないはずだ。低きに流れた水の方向を変えるのは容易ではなく、朱に染まった人心を元に戻すのは至難の技だ。幸いにして日本の伝統的な技や心はまだ残された分野があり、遅ればせながら高齢者の我々がその良さを次の世代に伝えなければならない。

人は利便性や損得で判断する傾向が強く、あらゆる取組みが自分の有利になる事を目的としていると断じても間違いではないだろう。この人間の性向を無視して観念論だけで決め付ける訳にはいかないが、選択した先にあるものを考えるだけでも少しは変わる可能性はある。君が選んだ医学の先にあるものは何か、君が選んだ弁護士の先にあるもの何かを問うだけでも意味がある。君が大学で学ぶのは何故か、そこで優の数を増やすのは何故かの問いに若者が真摯に答える時、まだ日本の将来に希望が持てる。

アメリカでの離婚訴訟は弁護士の稼ぎ場だとその道の専門家から聞いた事がある。彼らは離婚したカップルの将来には何ら興味が無く、如何に慰謝料を多く払わせるかが一番の関心事だという。成功報酬の歩合で料金を取る弁護士にとって、赤の他人の幸せには何ら興味が無く自分の実入りだけにしか関心の無い弁護士を彼は軽蔑したような口ぶりで私に解説してくれた。プロというものはあるいはそういう存在なのかもしれない。訴訟社会で確実に儲かるのは確かに弁護士だ。ただ、血の通わない訴訟技術に長けてなければ勤まらないだろう。映画の題材になるような熱血弁護士はアメリカでもそんなに居ないそうだ。

資格社会が出来上がり、その資格で一生飯を食えるとなれば誰でもまず通ることに専念するだろう。そこから既に形骸化は始まっている。

かつてスエーデンでは医学生を採用する場合、初年度の一年間は患者の面倒を見させるだけという話を聞いたことがある。勿論その間医学の勉強は一切無い。教授は生徒の患者との接触を見て医者としての適性を判断し、その結果医学を学べる学生を選択するということだ。勿論、向かないと判断された学生には他への道を勧め医者にはなれない。これも判断の方法だろうが、少なくとも一過性のペーパー・テストだけに頼るより、遥かに優れているように思える。はたして日本ではスエーデン方式が採用になる事があるだろうか。

日本では司法試験に受かるのに大学卒業後、平均8年近く掛かるという話を聞いたことがある。現在はどうか知らないが、受かるまでに8年近くも掛かる試験そのものの存在に誰も疑問を持たないのが私には不思議だ。大学在学中に司法試験に受かるのが彼らの勲章で、かつて世間を騒がせたオウム真理教の若い顧問弁護士もその一人だった。影の総理と言われ、現在落選している元与党の幹部もその栄誉組だ。ただ彼らの弁護士としての輝かしい実績は残念ながら聞こえてこない。ちなみにアメリカでは大学の法学部を出た学生なら殆んど弁護士の資格は取れるそうだ。

前にも拙文に“仏作って魂入れず”という言葉を引用したことがあるが、幾ら見栄えが良くても魂の入ってない仏では意味が無い。

約束事の背景にそれなりの意味があれば時代を超えて存在することが出来る。今、我々に必要なのは時を越えても存在し得るものを選ぶことだ。皮相的な一過性の判断だけで選んだ結果が今の社会だという事を肝に銘じる必要があるだろう。テレビ的な大衆迎合でいい政治家を選べる筈がない。与えられたものを再現する能力だけで解けるペーパー・テストが優秀な人材を確保するとは思えない。その先にあるものを考えないと日本の社会は判断力の無い脆弱なリーダーしか出てこなくなるだろう。ウィンストン・チャーチルが学生時代決して成績が良くない生徒だった事を教育者は真剣に考えてみて欲しい。付け加えればチャーチルはノーベル文学賞を受賞している。彼は辻褄合せの人生を若い時から選ばなかっただけだ。豊かな才能は劣等性の陰に隠されていた。

お勉強が出来た優秀な学生なら霞が関や日銀に行けば幾らでも居る。だが彼らにチャーチルの姿を見ることはない。それは約束事の背景が違うからだ。フランスでは教養人はちゃんとした文章を書けることが必須だとする伝統がある。はたして日本には如何程の教養人が居ることだろう。

何度も繰り返しているが、学ぶことの意味を考える時期は既に過ぎているように思う。それでも今からでも遅くないと若者に期待したい。

先の無い老人のいつもの戯言になってしまった。

平成26年2月12日

草野章二