しょうちゃんの繰り言


ジジ・ババからの贈り物

例の口の悪い友人が又我が家を訪ねてくれた。暑い時期は外に出る気にもなれなかったが、少し朝夕肌寒くなったこの季節は「何故だか身体が軽く感じられる」、と暑さが嫌いな私と同意見の感想を述べている。我が家のかみさんの手料理を食べたい、といつものように奥さんを伴っての訪問だった。

開口一番、私の“出版断念の知らせ”を心から残念がり、「とにかく書き続けろ」と励ましてくれた。「どんな分野であれ、表現は人の心の叫びになり得る。同調者が多ければ歴史に残ることもある。他人はともかく、俺は君の戯言を評価しているから」と言ってくれたが、その顔に気のせいか皮肉な笑いが見えた気がした。この歳になるとなかなか素直になれないものだ。

会うと世の中の閉塞感を互いに嘆いていて、今日もその結果として目先の辻褄合わせが世界的なスキャンダルになっている例を彼なりに解説してくれ、さらに新たな提案まで出して来た。

「我々が人であれ企業であれ、一流と看做すのはそこに誤魔化しが無いことを信じているからだ。だが、その信頼は時として裏切れられる時があり、“ブルータスお前もか?”となる。ドイツと言えば技術への信頼が厚く、物づくりへの拘りと丁寧さが世界的に評価されていた。時として彼地では“ヨーロッパの田舎者“と揶揄されることがあるドイツ人だが、これは信頼への賛辞とも取れる。愚直に取り組むドイツ魂を表していると俺は解釈している」

彼が指摘しているのはドイツ車の排気ガス問題であることは明らかだ。その規模と影響の大きさはドイツの経済のみならず、EU及び世界経済への影響も憂慮されている。

彼は続けた。

「ルールの現実的な妥当性に問題があっても、表面的な繕いで誤魔化すことは許されることではない。もし経済的効果(金儲け)の為に会社がこういった安易な解決法を取ったのであれば、ドイツの“物づくり”の精神は死んだと看做されても仕方ないだろう。金融や商取引の世界ではこの程度の問題は常に存在していると俺は思っているが」

煙草に火を付けると彼はさらに続けた。

「人の判断の物差しは必ずしも基準が一定ではない。日本で一流と言われていた新聞社も考えてみればこれ以上の誤魔化しをやっていたが、問題を起こした当事者もそれを糾弾する立場にある世間も、一過性の出来事として大きな変化はその後ないようだ。形のある製品として世に出たものに瑕疵や誤魔化しがあった場合、人は容赦しないが、人や国の誇りにまで影響を与える言論や政治の世界では、問題が起きても何故だか有耶無耶になることが多い。基本を間違えている様な政治家も、わが国では何度も国民に選ばれて国会に戻ってきている」

言われてみれば彼の言う通りだ。政治家やジャーナリストとして幼稚であることや、無知であることはあまり問題にならないが、工業製品としてその性能に作為的な過ちがあれば、件の新聞社を含め徹底的に責任を追及する。見え易いものに厳しく、見えづらい物に鈍感なのは人の特性だろう。

「そこで提案だが」と言って、彼は本に載った広告の切り抜きを私に見せてくれた。

書店を守ろう! 子どもたちの未来のために!
「本と雑誌」は「軽減税率」が
世界の常識です

と見出しがあって、世界の国々の書籍に対する税率が細かく解説してあった。それに日本の自治体における「本屋ゼロの町」の実態も細かく具体的数字を並べて説明してあった。他と商品と同じように書籍にも定率の税金を取る日本とは違い、イギリス・ヨーロッパにおける本への税率はゼロ、若しくは極めて少ない数字で、アジアでも出版物に対する消費税ゼロの例を幾つか紹介してあった。広告の内容は当然ながら出版業界の軽減税率を求めるキャンペーンだ。

「つい最近、大学生が過去一カ月に本を読まなかった割合が40%に及ぶ統計が出されていたが、“知”の原動力は読書にあると俺は信じている。無税にすることで本が読まれるようになれば結構なことだ。パソコンやIT機器で読む手段もあるようだが、本は所蔵して読むものだと思っている。子どもの頃貧乏だった我が家だが、本への出費だけは親が惜しまなかった。俺が偏屈なのは或いは読書のせいかも知れんが、後悔はしていない」

前にも述べたが、人は成長に伴い自然に話すことは出来るようになっても、書いたり読んだり、そして計算することは学ばなければ出来ない。読むことで人は多くを自分だけでも学べる。当たり前のことだが真のリーダーには高い知性と教養が求められている。それが希薄になった時、組織は目の前の利益のみを追求するようになり、築いた伝統や信頼を短時間で破壊することになるのだろう。日本でもマンションの偽装杭打ちに見られるような綻びが各界に見えるのも、それが原因ではないだろうか。

「財産の無い俺が言っても説得力が無いが、孫に対する教育費の援助を無税にしたらどうかね。かつての国立大学も学費の値上げを目論んでいるようだ。特に医学部は教育時間の長さや高い書籍代を含め文科系学生より金が掛るから、これは是非実行して貰いたいものだ。そして、もっと簡単な方法としては孫の書籍代を年寄りが生きている内に無税の扱いで信託として残しておく手もある。用途限定の孫への遺産だが、金額の上限や管理の方法は専門家が決めればいい。それを有効に利用するかどうかは孫次第だろうが、出来の悪い遺伝子だったら彼らは本を売り飛ばして他の目的に遣うかもしれんがね」

彼はにやりと笑うと、さらに新しい煙草に火を付けた。

確かに彼の提案に従えば、孫たちは成長して本を買うごとに、今は亡き優しかった祖父母を思い出すことが出来る。残された金額にもよるが、欲しい本を何時でも経済的負担無く孫達は手に入れることが出来る。これなら孫の為に自分も参加してみようという年寄りは確かに出てくるだろう。

「私も自分の本を出したことで出版界の裏事情を幾らか知ることになった。現在は、編集者が如何にその内容を評価しようと、作者が素人の場合、出版は例外なく書いた本人の負担になる。現実は本が売れないため、無名の作品はジャンルやその出来を問わず自費出版でなければ世に出ることはない。“無名の作家を見付け出し世に知らせるのも、文化を担う編集者の大事な役目ではないか”との私の問いに“おっしゃる通りだが、自費出版は本が売れない為の生き残り戦術です”と出版社の役員は寂しく笑っていた。従って現実は自費出版の宣伝で客を集め、作品の良し悪しに係わらずこの方式で出版し、各社生き延びているのが実態だと知った」

私の出版事情の裏側を聞くと、彼は鋭く指摘した。

「これは正に日本文化の衰退と言えるだろう。若者が本を読まなくなったのはそういう風土しか残せなかった我々の責任だとも言える。あらゆる分野で皮相的な辻褄合わせや一過性の利益を求めるだけで終わるのなら今の日本でも充分だ。教養や知性というものは経済の単位で直接的に表せるものではないし計れるものでもない。教養や知性の欠如でも大学くらい入れるし、官であれ民であれ、一流と言われるとこに所属して飯は喰っていける。人が劣化するのは表面的な辻褄合わせで生きることに何の疑問を思わなくなった時だろう」

さらに続けた。

「テレビで名前を売ると分不相応の収入が入ることを知り、大衆に迎合するジャーナリストや評論家は幾らでも出てくる。本が売れるのも知名度のせいで、必ずしも内容が評価されている訳ではない。政治の世界にもマスコミを利用して出てくる輩は幾らでもいるし、彼らは総じて能力に限界や疑問がある場合が多い。民主主義の国家で議決された案件を“数の暴力”とさえ言いだす国会議員もいる。はたして彼らは自分の言った意味を理解しているのだろうか。残念ながら彼らの知性はこの程度なのだ。醒めた言い方をすれば、それでも彼らは国民から選挙で選ばれて国会に国民の代表として来ている訳だから、最終的責任は我々国民にある。ただ、国民の中にはいつの時代でも幾らかの割合で物を考える人間は必ず存在する。本当は彼らに国会で活躍して貰いたいし、そういった人達にそれぞれの分野でリーダーの役目を担って貰いたいものだ。時代を越えた価値を持つものは存在するし、それを究めようとするのは学んだ人間の義務でもあるだろう。その為にはちゃんとした本を読んで学ぶのが一番の近道なのだ」

世の中の出来上がった仕組みを現在すぐに変えるのは至難の業だが、孫の世代に夢を託し、彼らの為に書籍代の負担をするのは今の年寄りにとっても遣り甲斐のある事だろう。なまじっか預金や不動産で財産を残すから相続争いの原因になる。しっかりした教養と知性を磨けば、目先の利益のため信用を失くすようなバカな事をやる人間や組織は少なくなるかもしれない。今現在の処方箋として手遅れなら、孫の時代に期待するしかない。
孫たちが期待どおりの人間に成長するか、本を換金するかは老人には最後まで見極められない場合もあるが、孫に期待して本代を残すことには夢がある。

友人が纏めた。

「人生最後の仕上げに試みるには大いに意義のある事だが、これが実現するかどうかは我が国の民度と文化度の問題だろう」

そして二人に共通する結論は、「それ以前に孫に残す余力があるかどうかが一番の課題だが」という事になり、互いに笑うしかなかった。


平成27年10月27日

草野章二