しょうちゃんの繰り言


存在感のある人

人が集まる時、自然とその中心的存在になる人がいる。自分からしゃしゃり出る訳ではないが、その人の持つ雰囲気と言ってもいいような存在感を持って中心になる人がいる。3人居ても、10人居ても、1000人居てもいつの間にか皆に一目置かれ、その集団の核となっている。そんな人がリーダーになった集団は概ね旨くいくが、小賢しくしゃしゃり出てきた人間にはなにをやらせてもうまくいかない場合が殆どだ。そんな人間の特徴は自分の経歴を何気なく積極的にひけらかす。自分の属する集団を盾に相手に暗黙の圧力を掛ける。自分の取得した資格をことさら相手に知らせようとする。特にアメリカの有名大学で資格を取った場合その傾向は強い。加えて、自分の稼いだ金でなくとも金の力で出て来る輩も居る。それに本人の上昇志向が強い場合、世に出るための有利な武器は全て利用する。テレビで名前を売った政治家連中に禄なのが居ないのも頷ける。

また、人を評価する時我々はいつの間にか銀行の融資担当者みたいな目になっている。どういう手段で手にしたかは別として本人に資産、つまり金があるかどうかという単純な基準だ。母親の資産のお陰で総理にまでなれた人がいたが、所詮その能力も無く、器でなかったことがその後の言動で広く国民に知れ渡った。能力に合わせて分相応に暮らしていれば育ちのいいボンボンとして出たがりのかみさんと、そんな大恥をかかずに幸せな生活が送れたのにと思ってしまう。長い目で見れば、中心的リーダーになる為の存在感の無い人たちはいずれ消えていくことにはなる。

間抜けな発言や行動を続ける国会議員に、君にそんなこと頼んでいないと力説しても、選挙民が選んだのであれば辞めさせる訳にもいかない。これが民主主義の根幹を成す選挙制度の限界で、見方によっては無駄の多い制度でもある。

「良識の府」とかつて言われていた参議院にも、今では良識と無縁な人が多いような気がするが私の偏見だろうか。国民が選んだという理由で、その人となりをあげつらうのは良くないことだろうか。平たい言葉で言えばお粗末なのはお粗末と断罪した方が国のためになると思うのだが。選挙の時“出たい人より出したい人”というフレーズを昔聞いたことがある。今でもこの精神は生きていて良いと思うが最近はとんと聞かない。もっとも、先日発表された子供がなりたい職業ランキング調査では政治家は141位だった。私たちが子供の頃は将来の憧れの選択肢として“末は博士か大臣か”と言われていたのを考えれば隔世の感がする。子どもにまでも見捨てられたかという思いだ。

かみさんが有名な女優でその地方では名家出身だった為、そこから選挙に出た次官まで務めた元官僚が居た。かみさんの父親が著名な作家だった為押しかけ養子になり名前まで変えた政治家も居た。彼の場合結婚そのものも策略の匂いがすると噂されていた。娘がゴルフで活躍し、それに目を付けた政界の実力者が引き立て参議院に当選した人も居た。彼の場合にも聞こえてくるのは悪評ばかりで、こんな人間を6年間も国会議員として税金で養わなければならない国民は悲劇だ。テレビで顔を売り挙句に選挙に出た例は多数あり、概ね選挙に通ってはいる。最近の党首討論会でやっぱりこの男では駄目だと見放された野党の党首も典型的なこの例だ。自分が出てくるには手段を選ばないのも生き方とは言えるが、あまりあざといと本人の資質にも疑問が湧く。

心ある国民は居るし彼らはちゃんと見ている。パフォーマンスと揚げ足取りで獲得した与党の地位が長く続く筈はない。この党は3年余りで国民から愛想をつかされた。今思えば存在感のある人間は皆無だった。首相まで勤めた人物や閣僚経験者、それに辣腕政治家の側近としてテレビにその品のない顔を出していた連中が選挙で落ち、何人かが辛うじて比例で滑り込んだのは国民の下したまさに正しい判断だったと言っていいだろう。

彼らには議員になるための小細工には長けていたとしても、彼らからどういう政治をしたいのかを知る事が出来ない。まともな目で判断すれば決して出したい人たちではない。もっと言えば与党・野党を問わず似たような人は沢山居る。特に業界代表・組合代表にまともな判断力の無い人が多い。と言うより彼らは自分の支援団体に対して不利なことは絶対に手を付けようとはしない。これでは改革なんて無理な話で、長年の澱を除こうとする時、問題のあるところを遠慮なく指摘して改めるのが改革の本道だ。彼らにはそれはやりたくても次の選挙を考えれば出来る事ではない。

政治は職業であってはならないと思っている。議員に歳費を出すのを否定しているのではなく、それを職業と位置付けている議員が居ることに違和感を覚えるからだ。見識・理念・政治哲学・判断力(バランス感覚)等々議員を務めるからにはこういった基礎能力が必要とされている。少なくとも国民を代表するからにはそれなりのものを備えていなくては本来議員は務まらない筈だ。能力さえあれば二世・三世議員を否定するものではないが、家業として議員を世襲するのは迷惑千万だ。投票する側も良く考えて一票を行使するべきだろう。

地位が人を作ると言うが、世間では時としてそういった例が見られることもある。但し基本的能力の無い人間には何をやらせても駄目なことが多い。学歴や経歴まで詐称して出てくるような輩では元々何をやらせても無理だろう。また、党のその時点での勢いだけで間違って選挙に通ったような連中でその後残れるのは皆無に等しい。人口が1億2千万人も居ればそれなりの見識と能力を持った人間は必ずある程度の割合で居るはずだが、適材が適所に納まらないシステムに問題がある。21世紀の時代に早朝ただ通り過ぎる勤め人を前に駅前で辻立ちする神経が分からない。政治活動は名前を覚えて貰うのが目的ではない。誰も話を聴く様な状況でない場所での演説(?)は顔と名前を売り込みと、その熱心さで選挙民を説得しようとするあざとい手段に過ぎない。選挙がこのレベルで左右されるのであれば出てきた議員はまたそのレベル以上のものでもない。こういった手法が未だに評価されることに心ある人間は選挙に出ようとしないのだろう。

どの程度の判断力かは別として100人居れば100の判断があると思っていいだろう。全部の人が納得する解決法は本来有り得ない。特に存在し得るリスクとのバランスで下す判断は難しいものがある。原子力発電の存続はその最たる例だろう。基地問題も誰もが納得する解決法は無い。もっと言えば空港の建設・拡張問題や、道路の建設でも負の影響を受ける住民からは猛烈な反対が出る。出来るまでに長い時間と多額の立退き料が要求される。東京の根本的再開発など今のままでは出来る筈がない。100年の計に立っての理想的な都市創りは住民の意見と言うエゴに阻まれその歩みは遅々として進んでいない。既得権との折り合いで出来た都市が東京の現状と言えよう。それで良しとするならこの都市はいつまでも雑然とした景観を含め、醜悪なまま残るのも我々都民・国民のレベルを示すモーニュメントとして残す意義はあるのかもしれない。

東京はかつて二度、都市大改革のチャンスがあったと言われている。関東大震災と第二次大戦後だ。壊滅的破壊の後は建設しかない。その絶好の再開発の好機を生かしたのが東京市長を務めた後藤新平だ。彼の偉業を今さら挙げる必要が無い程国民に浸透しているが、彼は医者の出身だけあって極めて合理的な発想から全てが始まっている。先を読んで50年・100年の国家の計が基本にあり、今の「昭和通り」などは正にそのいい例だろう。本来は100メーター道路として計画されていたと読んだ覚えがある。首都の人口と現在の車社会を考えれば、防災という意味があったにせよ大した先見性だと感心せざるを得ない。たった一人のリーダーの英知が後の世に貢献したいい例を彼は残してくれている。“一人でも反対すれば私は橋を造らない”と民衆に迎合した知事とは雲泥の差だ。彼がなんのため知事をやったのか私には理解不能で、そんな男を都民は三度まで知事に選んだ。彼の功績のプラスの面が皆無とは言わないが、所詮、後藤新平と比べる器ではない。選挙民の人気取りで己の地位を守る政治家に禄なのは居ない。“大風呂敷”と揶揄され、議会で反対されても自分の信念を通した後藤新平こそ我々が求める真のリーダー像だ。それでも誰を選ぶかの最終的判断はやはり国民が下すのである。おかしな奴が出て来る隙がここにある。

見識や理念を持った人物は確実に存在する。選挙運動に掛かる莫大な経費と無駄な労力を軽減すればこういった能力ある人材が出て来る可能性がある。インターネットという金の掛からない情報伝達手段が現在は普及しており、それに公共テレビという媒体もある。これこそ安く選挙を済ます方法だ。政党助成金は政党が人材発掘と選挙に廻すのも一つの考え方ではないだろうか。能力の無い人間に税金を使うより、よっぽど国に貢献出来るだろう。

制度を変えれば改良出来る事はある。既存の公官庁のあり方もその制度を変えることによって変る可能性がある。官僚出身でありながら現状に納得出来ない人たちが経験した立場から色々と提言している。志ある優秀な彼らを利用しない手はない。我々は個人の経歴でしかその人を判断する術を持たないが、ここにも大きな落とし穴がある。最近では珍しく自民党の長期政権を達成した国民的人気の首相は、その跡取りに自分の息子を指名して当時国民の失望を買った。一流新聞と言われているマスコミ各社も、その息子の出た大学の偏差値を取り上げ、あたかも無能な若者といった扱いだった。その彼は今や自民党の若手ホープとして存在感を示し、立派に役目をこなしている。また、現首相も出身大学をとやかく言われ、同じ様にあたかも出来の悪い有名政治家の息子という書き方だった。その彼が経済を復興させ、彼の指導力で我が国は活力を取り戻しつつある。彼らは父親の秘書として現場を経験し、そこから学んだに違いない。

ついでに言及すると、最高偏差値を誇る大学出身で、しかも在学中に司法試験に受かったと取り上げられた当時の与党実力者と言われた人は現在落選中だ。また、世間を騒がせたオカルト教団の顧問弁護士は西の偏差値最高大学出身で、同じ様に在学中に司法試験に受かったと紹介されていた。高偏差値大学・司法試験合格と並ぶと世間は無条件に優秀と決め付けるが、必ずしもそうではない。支持率1%にも満たない野党の党首も高偏差値大学と司法試験合格という切り札を手にしているが、言っていることは幼稚な中学の学級委員会レベルだ。これでは党も衰退するだけで、心ある選挙民のサポートは無理だろう。

西であろうが東であろうが偏差値最高大学にも優秀な人は居る。司法試験に受かった人にも優秀な人はいる。同じ様に別の道を辿っている人たちの中にも優秀な人はいる。国際的に有名な建築家の安藤忠雄さんは高校卒業で、独学で世界的に名の知れた建築家にまで上り詰めている。松下幸之助は小学校卒業で、本多宗一郎も確か高等小学校卒業と記憶している。なんと言っても学問の神様菅原道真も高偏差値大学を出ていない。

人間は幾つになっても、何処でも学ぶ姿勢さえあれば学べる。取得した資格や肩書(学歴)は単に一過性のもので、新たなものに対処する能力を担保するものではない。その能力を見極めるのは難しいことだが、少なくとも本人の経歴だけで決め付けないことだ。住民・国民の代表たる各種議員も安易な気持ちで出て欲しくない。当選すればそれだけの責任が重くのしかかる事を十分に自覚して欲しい。自分が当選することだけを目標にしている候補には碌な人間は居ないと断定出来る。その気になれば新たな視点が見つかると思うが、如何だろう。還暦過ぎても、古稀を過ぎても判断力には磨きを掛けたいものだ。少なくともボケ防止にはなりそうだ。存在感のある人間はまだ居ると思うのだが。

平成25年4月22日
草野章二