「オリンピックを開催する動機は国によって様々であることは推測出来る。記憶に依れば当時の石原都知事が東京での開催を言い出したと理解しているが、その真意は知らない。その上で勝手なことを言わせて貰う。
こういう国家的行事と言える催しものでも、国民や都民一人ひとりの同意を得たうえで決めることはない。我々が参加した選挙で選ばれた代表が地方、国政の議会で我々の代わりに判断して議案ごとにその都度決めている。国民投票で国民が直接決定するのは憲法改正といった国の根幹に関わることのみだ。
我々がニュースで知ったのは前々知事が、“東京は金がある。しかも現金で(in
cash)”と下手な英語と品の悪い内容で誘致演説をし、そして“お・も・て・な・し”で売り込んだ挙句の東京オリンピック開催の決定だった。従ってここでは既に決まった東京オリンピック開催を前提にして私見を述べてみる。開催への判断と決定を論評している訳ではない。
あらゆるスポーツ競技において、贔屓のチームがあれば人は熱心に応援する。甲子園での高校野球大会に母校若しくは地元の代表が出た時、誰しも熱くなった経験があるだろう。オリンピックという四年に一度の世界的なスポーツの祭典となれば、国の代表選手に対する声援はどの国でも見られ、まして母国での開催では国民の熱の入れ方が違ってくるのも当たり前だろう。オリンピックでは過去の大会ごとに各競技に新しいヒーローが生まれ、勝っても負けても多くの感動が生まれた。
過去の例からも見られるが、オリンピックを開催することで競技場が新しく建設されたり既存の施設が改修されたりする。また、選手・役員の宿舎の建設や競技場への道路の整備もなされる。今回の東京大会でもオリンピックを契機に、世界各国からの観光客の増加も見込まれることだろう。つまり現代のオリンピック大会は、直接間接に開催国で巨額の金が動くことになり、波及効果として観光業界の活性化にも繋がっている。
古代オリンピックは約2800年前にギリシャで始っていて、時を経た1896年アテネ大会で復興された。近代オリンピックの提唱者で創立者として知られるフランスのクーベルタン男爵は、国ごとのメダル争いを望んでいたわけではない。“オリンピックは勝つことではなく参加することに意義がある”というフレーズは彼の言葉ではないが、彼の大会に対する基本的姿勢と理念を良く表している。
古代オリンピックでは大会開催期間中は戦争を中止していた史実も残っている。彼の狙いもそこにあったと思われる。五輪のオリンピックのシンボル・マークは彼の考案とされ、世界五大陸の団結を表し(この解釈には異説もある)、また復興されたオリンピック大会はスポーツを通じての世界平和への寄与を目的としていた。従って、参加選手は金銭報酬に無縁なアマチュアに限られていた。ただ、大会が国威発揚に利用されるようになったのは止む得ないことかもしれない。それに大会の規模が大きくなると開催国の経費は当然膨らみ、誰かが負担しなければならない。日本では、かつては旅費さえ選手負担で大会に参加した事実が残っている。今のオリンピックは残念ながらクーベルタンが描いていた理想の姿からは大きく変質しているようだ。この変化は時代の流れとでも言うしかないが、どこかで現状に対する彼の嘆きが聞こえる気がする。
今ではクーベルタンの時代と違って人は国際的に安価で容易に大量移動が出来るようになった。もはや海外旅行は一部金持ちの特権ではなくなっている。それに通信網の発達は世界のどこからでも瞬時に、そして同時に現場の絵が見られる。各種競技が世界のどこでもテレビを通して極めて鮮明な大型画像で楽しむことが出来るようになり、オリンピックの放送権は大金で売れる時代になった。つまり、大会そのものが巨額な経費は掛かるが同時に巨額の収入を生むようになったのも事実だ。入賞した一流アスリートの得る国やスポンサーからの報酬も競技によっては桁違いの額になっている。つまりクーベルタンの基本的な姿勢は理解出来ても、現実これだけの大会を開催するからにはコマーシャリズムの浸透は止むを得ない面がある。オリンピックと雖も大会を活性化し良い選手を集めるには時代に合わせた経済とのバランスを取らざるを得なくなったのだろう。大会が自費参加でメダルと名誉だけが報酬としたら残念ながら各国から優秀な一流選手は集まらないだろう。また、クーベルタンはその名誉さえオリンピックでは否定していたと言われている。
それにオリンピックと同時に開催されるパラリンピックでは、特に障害者に対する競技場へのアクセスや収容施設の完備も求められている。日本の道路や公共施設は先進国と比べてその方面の対応は遅れているようだ。現知事が約束した“山手線の二階建て車両や、美観からの電信柱撤去”はむしろ障害者の観点から本来は真っ先にその対応を考えるべき事柄だ。我が家から最寄りの電車の駅には、とてもではないが電動でも車イスで辿り着くことは介護人なしでは無理だ。例え困難の末駅に辿り着けても、電車に乗って目的地に行くことはさらに困難が待っている。我が国の道路を含めた全ての建造物が、元々障害者の利便性を考えて造られたものではない。公共の乗り物さえ車イス対応にはなっていない。オリンピックを契機にこの点での改革も是非必要だし、国民に問題提起するいい機会でもある。
東京の知事たらん人物なら、あざとい政争を繰り広げている場合ではないだろう。国民の意識がオリンピック・パラリンピックに向いている時、将来への布石として少なくとも公共の乗り物・建物を改善するいいチャンスだと都民・国民に問いかけるべきだ。その為の出費なら大義名分は立つし、真の意味でのパラリンピック応援となるだろう。“自分ファースト”ではなく、“弱者のための永続性ある取り組みファースト”とすれば歴史に残る知事になる可能性がある。あざとい方法で選挙民の一時的サポートは得られても、関係者全員の協力が必要な国家的プロジェクトには、今のパフォーマンス的対立の手法は有害でさえある。つまり、国家的行事を成功させるには、対立ではなく同じ方向を向いた関係者一同の協力が肝心なのは言うまでもない。もし今までの過程で不明朗な話があれば、それは別途解明すればいいだけの話だ。協力すべき相手を最初から“頭の黒いネズミ”と根拠も無く決めつけるのは失礼千万で、品のいい話ではない。しかも彼女が自民党に鞍替えした時は“頭の黒いネズミ”と示唆している彼の派閥に属していた筈だ。
現在の状況は良く知らないが、10年程前にはスポーツ関連の国家予算は先進国では極めて低いという評価が日本にはなされていた。各国のGDP比率での予算額は当時、英・仏は日本の3倍以上で韓国は3倍弱だったと記憶している。2008年の北京オリンピック以降、日本でもスポーツ関連予算が増えたとマスコミで報告されていた。しかし、世界的なランクではまだ低いのではないかと推測している。こういった現状であれば、各スポーツ界が東京オリンピックを契機に施設を含めた充実を図ろうとするのは当然だろう。国民の注目度が高ければ、そしてそれがオリンピック成功の大事な要因であれば、予算に対する国民の理解は得やすくなる筈だ。
スポーツへの投資は目先の成果で計れるものではない。青少年のみならずこれからの高齢化社会の国民の健康に直接関わる課題なので、長期的な理念と計画が必用だ。一過性の政治闘争の具にするべき問題ではない。
オリンピックの経費に関してはIOCの方針が示されているが、それを遵守しながらも我々国民としては出来るだけの協力をする用意はある筈だ。ただし、建造された施設はレガシー(遺産)として長期に生かされるものであって欲しい。
ロンドン大会ではロンドン市の支出割合は全体の20%弱だった。総経費は2兆円だと報告されている。東京都と財政規模の違うロンドン市を単純に数字だけで比べるわけにはいかない。しかし、経費の分担は関係者で調整すれば済む問題だ。ロンドン大会が2兆円なら経済規模から判断して、東京大会は3兆円でもおかしくないとも言える。
“東京オリンピック”と謳ってあるからといって、全ての経費を東京都が負担する訳ではない。もし都知事の意向通りに東京オリンピックを開催したければ、“都民ファースト”の精神で都民の賛同を得た後、都税の可能な範囲で場所の選定を含め全て知事が決めればいい。それが出来なければ、国を含めた関係者との連携でプロジェクトを円滑に進めるしか方法はない。何度も言うが、あざとい手法で“自分ファースト”を都民に訴える必要はもうない。馬鹿の一つ覚えみたいな手で、対立を際立たせる劇場型演出は飽きた人が多いのではなかろうか。“政治は結果責任”であることを考えれば、都知事にはこれからは地に足の着いた大人の主張と実現可能な政策を心掛けて欲しい。
派手なパフォーマンスはテレビや活字媒体の都合良き取材対象となり、マスコミはことさら取り上げて煽る傾向がある。そこに分かり易い“ブラック・ボックス”や“頭の黒いネズミ”といった、確たる根拠や証拠が無くても、都民・国民がありそうだと疑いたがる疑惑を看板にすれば、単独でも正義の味方を演じることが出来る。もし、そういった不正の事実がオリンピック施設関連及び豊洲新市場に出てくれば、それは司直の手に任せればいい。
カネの動くとこ全てに疑惑の目を向けるのなら、自分の過去の政治資金の経緯も完全“見える化”を計り、間違っても“闇金の社長が愛人に与えた着物でオリンピックの旗をリオで受け取った”と言われないようにして欲しい。
前にも言ったが改革には確たる理念と、共に歩む賛同者が必要だ。そして何より政治は現実的でなければならない。壊すことや批判だけの野党に選挙民が政権を与えないのには理由がある。種々の対立する主張の中からリーダーは将来を見据えた判断をしなければならない。選挙には受かっても適性の無い批判だけする政治家は幾らでも居る。これが、いつも言っている“民主主義のコスト”だが国や首都圏のトップなら、当然だが普遍性のある意味ある判断をして欲しい。
矮小化した劇場型パフォーマンス論争は愚民と判断力のないマスコミを喜ばせても、評価に値する討論にはなり得ない。“東京オリンピック”という国を挙げての国際的イヴェントを成功裡に成し遂げるためには、“自分ファースト劇場”の主役の座を捨てて知事は冷静なプロデューサに徹しなければならないだろう。
出来ることなら、近代オリンピック生みの親クーベルタン男爵の理念を少しは考慮して、平和への祭典を実現して欲しい。政治的功名争いのためオリンピック大会準備段階で内ゲバを仕掛けるようでは世界平和目的のイヴェントは成功覚束ない。あざとい企みは見苦しいだけでなくなく協調の精神さえ破壊してしまう。政治家なら、何よりそういう判断が出来るべきだ」