しょうちゃんの繰り言


揺れる政権

今回、参議院議員選挙の結果を見ていて、近年見慣れた同じ様な光景を思い出した。ここ数年来の経緯でも国政選挙の度にその主役は変わっているが、似たような場面がテレビで報道されていた。大勝と大敗のコントラストが浮き彫りにされ、主役の交代が繰り返された。数年単位で政権が変わる様は政治的に安定した国では滅多に見られる現象ではないだろう。国民の潜在的不満が政権の交代に結び付き、小泉政権時も含め一時的にどちらかが大勝しても一向に安定せず、首相及び閣僚の頻繁な交代は他国には驚きの目で見られている。人種問題・宗教上の争い・国内テロ・他国との武力紛争といった大きな問題は国内に存在せず、経済が一時の勢いがなくなったとはいえ、飢え死にする人もいない。選り好みさえしなければ、人手の足りない零細・中小企業はまだあるし、農業にいたっては就業者平均年齢が65歳を越しているそうで、後継者難の問題を抱えている。若者の働き口は探さなくてもある。こういった国で何故数年単位でオセロ・ゲームの如く政権の座と国会議員の劇的入れ替えが起きるのだろうか。

国民は何を国や政治に求めているのだろう。約3年前当時国民が選んだ選択肢は次のような政策を発表した野党の民主党だった。外国人学校を含めた高校までの学費の無料化・高速道路の無料化・農家への個別保証金支給・保育所の増設・年金・福祉の充実・日本で働く外国人にも本国の子供への児童手当支給・等々。財政難にも関わらず、こういったばら撒きの政策を発表し、それでも財源(隠し財産)はあると豪語した素人集団は見事自爆した。国民の投票によって政権は取ったものの、パーフォーマンスばかり目立ち、掲げた公約は元より地震にも、津波にも、福島第一原発の爆発にも適切な手が打てなかった。挙句、訳の分からない理由で党は分裂し、出て行った方も残った方も今回の選挙で壊滅的打撃を受け、立ち直るのはまず無理だろう。寄せ合い世帯のこういった危うさは良く考えれば(良く考えなくても)最初から分かっていた筈で、一番の原因はこういう政党を選んだ選挙民の判断力の甘さにあったとしか言いようがない。

例の口の悪い友人が言っていた。“「政治家に徳を求めるのは八百屋で魚を求めるが如し」と正直な感想を述べた警察官僚出身の法相が居たが、同じ口調で決め付ければ「政治家に適性を求めるのは豚に空を飛べというが如し」とでもなるのだろう。連中に無理な注文をするから期待外れに終わる。当選した顔ぶれを見れば政治家のレベルとその国の民度は見当つくよ。”

確かに毒を含んだ彼の発言にも一理ある。彼は続けた。“表舞台に立つ役者は毎回国民が決めている。長期公演が出来ないのは国民が碌な役者を選ばないからだ。”辛らつだが核心は突いている。いつも言う「民主主義のコスト」がこれにあたり、「民主主義は効率が悪い」というのも同じだろう。

政治家に責任を押しつけても、彼が言うように選んだのが国民であれば、文句のつけようがない。こうやって同じ顔ぶれの役者で野党、与党を繰り返していても、その周期が短いほど実りは少ない。パフォーマンスと民意がキー・ワードになり、マスコミも含めて皮相的なことばかり取り上げ、改革の対象と目的、そのために何が必要かの本質的考察はあまりやられてない。出された公約が実現性はさておき、選挙民が自分達に都合がよければ無条件に飛びつく愚は決していい政治家を選ぶことにはならない。

政治には優先順位を決めて現実的対応することが必要で、改革を標榜するなら対象となった当事者の抵抗や犠牲が伴うのは致し方ない。限られた予算、しかも巨額な累積赤字を抱えた国の舵取りをやるからには綿密な計画が必要だろう。赤字を何年で解消するのか、元々国の財政赤字はどの程度まで許されるのか、といった基本的問題を考察し、徹底してその解決方策をまず検討することだ。税のあり方もこの際根本的に洗い直すことが必要だろう。額に汗して得た対価に税金を課すより、不労所得や既得権益で生み出される利益に新たな税の財源を求める時が来ていると思う。1億円以上、中には10億円単位の年収を取る企業のトップも出る時代になったが、こういった高給取りを対象にかつての累進課税を復活させる必要があるのではないだろうか。それと税の使い道には徹底した再検証が必要だ。パーフォーマンスだけの事業仕分けでは何の役にも立たない。

貧しかった頃や、一億総中流社会と言われた時代には今みたいなモラルが破壊されたような経済犯罪は少なかったような気がする。今は詐欺にしろ、ひったくりにしろ狙われるのは高齢者や肉体的弱者である女性や老人がターゲットになっている。こういう弱みに付け込む行為を「卑劣」と呼んで、元来日本人が一番嫌っていたことだ。その卑劣な犯罪が続発し、稼ぐ為なら何でもやるという若者が増えている。それでも我々はそういった人間を生み出した責任がある。こういう卑劣な犯罪は教育や社会環境の改善で少なくすることが出来るのか是非専門家の分析をお願いしたい。

“人様に後ろ指を指されるような事はやるな”と言い続けた学歴の無い明治生まれの父親の言葉が今となっては何か崇高なものに思えてくる。今と比べて決して豊かでなかった時代に生きた父達の世代が、こういった価値観を生涯保てたのはどういう教育が基本に有ったのだろう。高等小学校しか出てなかった父は愚直な生き方でも、幸い腕のいい技術者になり晩年は現場の指導的立場にまでなれた。こういった生き方は父に限ったことではなく、友人を含めた父の同じ世代の人たちに共通していた。

私たちの世代(1940年生まれ)の大学進学率はせいぜい10%程度だったが、今や大学進学率は50%になったという記事を見たことがある。父親の時代の進学率は不明にして知らないが、時代と共に高くなっていることは間違いない。だとすれば社会は父親世代より良くなっていなければ教育の意味がない。社会の完成度は教育時間の長さから計れないものがあることは容易に判断がつく。それでも今の日本を見ていると、自分を含めて大学まで出て我々は何を学んできたのだろうという反省は常に付き纏う。自分の利益が最優先され、何がなんでも既成安定路線に乗ることが人生の全てとすれば、それ以外の選択を強いられた人達は分の悪い分け前に終生甘んじなければいけないのだろうか。このあたりの閉塞感から卑劣な芽が出てくるのかもしれない。

明治・大正時代の生活は記録で知るしかないが、昭和の時代は生きた者としての実感は残っている。物心ついた頃(1945年前後)から30歳頃までの時代と今とでは全く次元の違う国に生きているように思える。

私が故郷長崎から最初に上京した時(1950年)、片道急行列車で25時間掛かった。まだ飛行機は故郷まで就航してなかったし、あったとしても庶民の手に届く値段ではなかった筈だ。今では一部の鉄道フアンでもない限り、東京への往復は飛行機を利用するのが当たり前になっている。娘が居住しているロンドンへは12時間あれば行けるし、エコノミーだと大卒初任給の半分程度で往復出来る。

経済の発展と科学技術の進歩が可能にした生活での利便性は等比級数的に高まり、かつては夢としか思えないような生活を現在我々は送っている。そしてその実感が無い。

冷蔵庫・テレビ・洗濯機・掃除機・クーラー・水洗トイレ・車・パソコン・携帯電話等々、思い付くままに並べたものは現在では当たり前の生活用品になっている。逆に無ければ困る家庭での必需品になっている家も多いだろう。特に携帯電話やパソコンは情報・知識の伝達・収集手段として、なくてはならない個人的必需品になっている人も居るだろう。

科学技術の進歩で得られた利便性は生活を豊かにし、家事労働の軽減に貢献したが、同時に失くしたものも多い。手間・暇かけてやる調理作業が疎まれ、食事は冷凍半製品に少し手を加えるだけで完成し簡単に食卓に出るようになった。怠け者や独り者には調理された完成品がデパートの地下等で幾らでも売られている。これを全否定するものではないが、主婦のかけた労力の少なさは子供や夫からの感謝の気持ちも少なくしている。まして完成品を買って並べるだけなら、独身者や高齢者が必要に迫られて利用する場合を除き、家族からの感謝の念は全く湧いてこないだろう。

また、手紙でのやり取りは小数派になり、電話やパソコンのメールが主流になっている。そういう時代に我々は生きていると割り切るしかない。高齢者もかつては家族と一緒に住むのがあたり前だったが、今ではその日本的慣習は少数派になっている。自分達でやる事を他人に任せれば食事でも余分なコストが掛かるのは当然の理で、特に高齢者の介護に要するコストは個人の支払能力を超える事が多く、その場合国で負担するしかない。素人の手に負えないケースもあり、高齢者の医療・介護に国の金を使うのが当然視されている現在、増加した負担分は税金で賄うしかない。足りなければ税率を上げる以外方法は無い。国民がそういった選択をする以上、年取った親の面倒を他人の手に任せる以上これは避けて通れない。政治家たる者、政策を実行するにあたり、はっきり国民に言わねばならない。負担を国に求めるならそれ相応の税金を払うべきだと。これからますます増えるであろう高齢者の介護は税収を増やして対応するしか方法はないだろう。

戦後の70年近く我々は国際紛争に巻き込まれることはなかった。憲法は軍隊を否定し、戦争も憲法の規定で出来なくしてある。こういった背景から「平和憲法」という俗称が生まれているが、平和憲法があったから平和が守られたのではない。日米安全保障条約が日本の平和を守り、実態としては「自衛隊」という名称の軍隊も持っている。

複雑に絡み合った構造は表からは判断しづらく、大多数の国民は個人の利益追求に安心して邁進出来た。その結果が商人国日本の経済的成功だった。豊かになって手に入れた多くの利便性は実は失くしたものも多い事を知るべきだろう。一番の問題は稼ぐ為には何でもやるという浅ましい根性が国民の間に蔓延したことだ。これが社会の秩序や伝統的価値を破壊した最大の元凶だろう。

価値観が時代によって変わるとはいえ、国の形や国民の立ち振る舞いには何時の時代にも通用する品格が必要となる。皮相的な損得や打算では決して品格は造れないものだ。選ぶ方も選ばれる方もこの基本を忘れなければ今からでも子孫にいい国を残すことが出来るだろう。

政権が揺れるのは政治家だけの責任ではない。選ぶ方も国造りの基本を自分なりに考え、それを遂行するに相応しい人を選べばいい。適性の無い政治家を幾ら非難罵倒しても何にも変わらない。そういった連中には国政を任せないことだ。この判断が出来、彼らを議事堂から追い出すのは国民に与えられた自由であり、それは如何なる権力も止めることは出来ない。

結局、現在の揺れる政権を生み出しているのは私達国民の選択の結果だ。最終的には品も格も国民が造り出す以外方法は無い。


平成25年7月28日

草野章二