しょうちゃんの繰り言


ものが違う

このところ例の友人と立て続けに会う機会に恵まれた。3ヶ月に一回の検診で我が家の近くにある総合病院にかみさんと一緒に来たと言って立ち寄り、開口一番「あり合わせでいいから、何か食べさせて」と家内に頼んでいた。彼等夫婦なら我が家はいつでも大歓迎だ。典型的日本調の、大人しいがしっかり者の奥さんとも久し振りで、女同志それぞれの夫の悪口で話も弾むことだろう。

簡単な昼食の後、女性陣は近くのスーパーに買い物に出掛けた。今晩は我が家で鍋にする事に急遽決まったようだ。検診の結果は何の問題も無かったそうで、彼の話す表情も穏やかだった。

「人は成長過程で色々学ぶが、本人の持って生まれた気質(性格)で、その反応は違ってくる筈だ。低学年でも素直に先生の言う通り宿題をやってくる子供も居れば、注意力散漫でちゃんと聞いてない子供もいる。概ね聞きわけが良く、手の掛らない子供が教師のお眼鏡に叶い、優等生の道を歩むことが多いと思うよ。これは普通に見られる教育の成果で、素直で従順な子供は比較的日の当たる道を歩む者が多く出てくるようだね。親が裕福であれば、さしずめ有名大学の幼稚園からスタートするには一番適しているパターンではなかろうか」

今日も煙草を医者に煩く注意されたらしいが、お構いなく火を付けて教育問題と思える事を話し始めた。

「俺は持論として、義務教育は我が家から一番近い学校と決めていて、高校も安い公立の一番近い学校だと子供達には常日頃言い続けていた。結果はそうもいかなかったが、小学・中学までは方針通りだったよ。同じ地域で自然発生的に生まれ育った子供達はその地域で学べばいいし、そうすれば仲間も近くに増える。それに、学校が近いのは低学年では子供は元より親にとっても便利だからだ。何といっても親に取り敢えず余計な経済的負担が掛らないのがいい」

彼が言いたいのは、人は子供も含めてどこでも学べるということなのだ。学校のレベルや教師の資質が高ければそれに越した事はないが、彼自身の経験からも興味が湧けば子供は自然と自分で学ぶようになる、といつも語っている。似たような話は前にも聞いている。

「学校教育に向く子供も向かない子供も居る。素直に従う子供は今の儘でもいいが、ただ出されたから宿題をやるだけ、といった受け身の姿勢では正直言って大したことは期待出来ないだろう。せいぜい、いい大学に入れる位だ」

それこそ正に親達が望んでいる事で、日本中で学習塾通いが小学校低学年から流行っているのもそのせいだ。だが、彼は別の事を考えていて、自分の子供にも塾には当初通わせなかった。高校受験を前に中学の後半からやっと妥協して同意した、と前に彼の奥さんから聞いた事がある。義務教育の後は、進学は“自分で判断しろ”というのが彼の方針で、進学や学校選びは全て子供に任せたと聞いている。

「不思議と自分が興味や問題意識を持って調べたり学んだりした事は、いつまでも頭に残っている。理数系の大学に進んだ長男が受験勉強していた頃、解らない数学の問題を持ってきても、40歳過ぎていたが対応出来た。単に覚えるだけの暗記科目は俺では役に立たなかったが、基本を理解していれば数学の問題は学んでから何十年と経っていても解けたよ。自分の経験からも、学ぶことは試験に対応するための勉強と受け止めないで、きちんと自分が理解する事が大事だと思っている。最近問題になった、受験生を選別するための枝葉末節に拘った入試の設問では何の意味も無い」

この意見は彼と全く一致していて、私も何度となく同じ様な事を繰り返し主張している。

「努力した者、頑張った者を評価する社会はまともだし、そういた風潮に反論は無い。ただ、世間でリーダーの役を務めている人達が、無難に予定調和の中だけで判断していたら困る事が出てくる。現代は常に競争に晒されているが、その結果、人間の感情にしっくりいかないものは既に沢山出てきている。個人所得の格差も今では社会問題になってきた。公務員の報酬も現状は国民の平均より1.5倍に達するという統計数字さえある。さらに最新の調査では職種によっては2倍にもなっているそうだ。これは、公務員は年齢によって昇給が自動的に決まっているからだろう。彼らには採算とか仕事の効率という発想はない。俺が子供の頃言われていた公務員の“薄給”というのは、もう昔の話なのだとつくづく思うね。
もし学歴が勝ち組への通行証としての機能しか果たさないのなら、誰もが全体の事より自分の利益を優先させるだろう。現実は勝ち組に入っていないと住宅ローンさえままならない社会ではあるが」

少し話に飛躍があるが、彼の真意は長年の付き合いで良く分かる。彼は続けた。

「農業を大学で学んでも、農協に勤める学生が多数居るのには現実的な背景があるからだろう。若者が就職出来ないとつい最近まで騒いでいたが、農家は平均年齢が65才を超えていて、跡取りや人手が無くて困っている。誰もが安定した高収入の方が良いに決まっていて、若者の選択を誰も非難出来ない。経済的にも安定し、ちゃんと自分の子供を学校に行かせる余裕が無ければ誰も自分の一生の仕事として望む筈がない」

彼の指摘する通り子供の勉強がランクの付いた関門をくぐり、その成果で子供を仕分けするのなら、学ぶことの本質は現実への対応が優先されるだろう。今まさに我々が日本でやっている事だ。

「塾で楽器を教え音楽の楽しさを教えてくれるのなら意味もあるだろう。学校ではやれないような理科の実験で子供の好奇心に応えるのも又意味がある。絵も、工作も子供が参加してその興味を追求するのにも意味があるだろう。ところが塾の実態は学校で教えている教科を重複して教え、入学試験というペーパー・テストに受かる事を目的としているビジネスだ。従って出題されそうな定型化した問題を解くことに特化され、その結果として塾が効率の良い“傾向と対策”に沿って主導するのは当たり前だ。こういった訓練が全く役に立たないとは言わないが、教えた事の再現能力に重点を置けば子供は物を考えなくなるのではないか」

新しい煙草に火を付けると続けた。

「人が学ぶというのはペーパー・テストで正解する事が全ての目的ではない。そうやって判断出来る、生徒の学業到達度や能力もあるだろう。しかし、極論すればこういった手法では単に“復習をやってきたかどうか”を再確認しているに過ぎない。初等の基礎教育に於いて取られる手段ならまだしも、高校・大学でも同じパターンの踏襲では、学ぶことの本質から外れる事にならないか。いつも言う事だが、世の中には正解がある事例はそんなに多くない。仕事ではむしろ多くの選択肢から自分で選ぶか、若しくは自分で進む道そのものを決めなければいけない事もある。学校で本来学ぶべきなのは多様な取り組みがあるのを知る事ではないか。知る事によって色々な疑問が派生して出てくるのは当たり前で、そこでの考察や判断が一番大事だと思っている。そういう知的訓練を受けないで成績優秀として満遍なく点を取った若者が、その成績のためエリートとして社会に出ても、問題になった新聞社でちゃんとした後始末も出来ないでいる。こういった例はどこでも見られるのではなかろうか」

知人の哲学科教授も言っていたが、「学ぶという事を学ぶ」のが学ぶ者の基本だということだろう。“知性豊かな”という修飾語は、日本式の試験を優秀な成績で突破した人達に自動的に与えるには何か違和感が残る。知性豊かな人達は決まり切った尺度で簡単に計れるものではない。

「陳腐化した既存の制度や、長年の慣習として行われているものに疑問を感じないのが俺には理解出来ない。だが実業の社会は残念ながら、経済の法則を外れる訳にはいかない。従ってルールさえ犯さなければ品の悪いことなど幾らでもある。大企業の横暴として時々問題になるのはそのせいだ。勝てば官軍で、桁外れの報酬も本場のアメリカではアメリカン・ドリームとして持て囃されているが、そこにも疑問の声が最近出るようになった。経済が支配する実業の世界を誰が仕切るのか難しい問題はあるが、そもそも社会や国の仕組みを考えると、営利を求める企業の都合で決めた物差しで終わらせてはいけない。そういった曲がり角で全体を考えての判断を誰もが持てるようになるのは新しい「民度」かもしれない。新しい「民度」の構築は難しい事だが、その為には教育しかない。宗教も、民族も、国も越えて新たな秩序を作らないと、今のままでは単に国のエゴや個人のエゴが突出するだけで争いの種はますます増えるだろう。国内の秩序も保てないで、世界の秩序に手を出しても上手くいく筈はない」

富の偏りは資本主義の宿命みたいに捉えられているが、分配制度の改正ならやろうと思えば出来る。教育で何が大事かを子供の頃から教え込めば、“一人勝ち”や、“自分だけ良ければ”という発想は幾らか治まるのではなかろうか。

過去に活躍した先人は、成績優秀だった人ばかりではない。小学校中退のエジソン、高校時代の成績は芳しく無かったジョン F ケネディー、ウィンストン・チャーチル等々挙げれば幾らでも出てくる。彼等は既存の物差しでは測れなかった人達だ。簡単な表現をすれば“ものが違う”と言うしかない。

「時代を超えて評価出来る物があると信じて教育すれば、付いてくる子供達は居るに違いない。利に敏い子供に育てる事だけは止めるべきだろう。その為には子供にもっと時間を与えて子供同士思い切り遊ばせることだ。子供は何が大事か自分で学ぶことだろう。我々の世代まではそうしてきたし、その当時“引き籠り”も、“いじめでの自殺”も皆無だった。お互い塾も出てないし、大学も超一流ではないが、馬鹿な大人になったとは一度も思ったこことはない。ただ、金貸しだけは絶対俺を認めなかったがね」

いつもの皮肉な笑いで彼は持論に終止符を打った。互いに金に縁の無い人生だったが、誰にも卑屈な頭を下げずに済んだのは何より精神衛生上良かった。
友よ、拙宅で良ければ何時でも来てくれ。

平成27年2月10日

草野章二