しょうちゃんの繰り言


説得力

猿真似という言葉があるが、それは表面だけを真似し、中身が備わってない時の表現で元々揶揄する時のみに使用する。猿が人間の真似をする習性から来た言葉であろう。しかしながら、学ぶことの本質はすべからく真似る事にある。真似ることは猿のみならず人間の世界でも同じであろう。子供は親や、兄・姉を真似る対象とし、学校に行きだすとその対象が仲間や教師になる。自分より優れている者や秀でていると考えられる者を真似して欲しいが、必ずしもそうはいかない。それは、まだ子供には判断力が備わってないからだ。

実は世間にも、良く見ればこのレベルの評論家や政治家が多く居る。それらしい事を言ってはいるが、本質を見ないで物真似の域から出てないため、言うことがことごとく猿真似になってしまっている。何よりの特徴はその発言が自分の信念から出た言葉でないため、状況に拠って言う事がころころ変わる。例として挙げられるのが、リーダーや政治家としての資質は皆無なのに親の金や、テレビで顔を売った知名度で恥ずかしげも無く首相を務めたり、党の代表を務めたりしている人達だ。また、高名な市民運動家にぴったり寄り添って名を売り、厚生大臣までは何とかやれたが、それ以上の能力は無かったことがつい最近国民の前に晒された人もいた。彼らの特徴は言い訳だけは多いが、その言葉に全く説得力が無いことだ。芯になるものが無ければ説得力がある筈がない。選挙中に「退職金は要らない」と公言した知事候補が当選後は「私は頂きます。要らないと言った覚えはありません。」と前言を翻し、それでもそこで二期目の知事を務めた(拙文「政治の役割」参照)挙句、今回も参議院議員選挙に出ている人も居る。その彼は松下さんの教え子らしいが、あそこの出身で存在感のある人物は未だに出ていない。彼らに問題があるのは当然としても、世間がその程度で通用するようになったのが一番の問題ではないだろうか。

表面を真似するのが猿の特徴で、問題のある彼らを見ていると宇宙人でなくつい猿を連想してしまう。この程度の人間を国政の場に送り出したのは、結局その程度の判断力しかない選挙民ということにもなる。

何度も書いているように、今の日本では資格さえ取ってしまえば次に進むことが出来、その資格の選抜方法は多くの場合物真似芸で何とか凌げる。言われた事を覚え、それを決められた時間内に早く正確に再現すれば事は足りる。必要なのは考える力ではなく教えられた事を素直に覚える能力や忍耐力で、殆どの場合自分の考えや判断力を問われることはない。だから適性の無い人間でも試験に受かったという事実のみで大手を振ってそれぞれのポジションを得られる。こういった形骸化した制度を何十年と繰り返した愚かさを指摘した政治家や評論家・ジャーナリストは皆無ではないだろうが、未だにその基本的な方向性さえ変わってないのは彼らが無作為の理由で糾弾されても致し方ない。既得権を得た人達は自分に不利になる事を自ら変えようとはしない。高等教育を受けようが受けまいが、今の教育では彼らにはその程度の判断しか出てこないだろう。肝心な事をおろそかにした教育の成果と言うしかない。

かつて参議院は良識の府と言われていた。政党政治の影響で行き過ぎがちな衆議院を看視し、大所高所から判断を下すためそう言われていたのだ。従って所属する政党には関係なく人物本位で選ばれていた。そこに選ばれた人達は見識と判断力が求められ、間違っても人気投票の結果ではなかった。NHKの人気クイズ番組に出ていた女性が立候補し、テレビの普及から100万票以上獲得してトップ当選したのが所謂タレント議員のはしりだろう。1962年のことだった。それでも波乱万丈な生き方をした彼女は生い立ちや歴史的背景を含め、それなりの存在感のある人だったと言える。昨今のタレント議員とはやはり人としての格が全然違った。少なくとも国会内でグラビア誌の撮影をやるような程度のタレントではなかった。貴族院の歴史を持つ参議院は既成政党のサポーターでなく、議員一人一人の良識に判断が委ねられていた。二院制を続けるなら、それなりの役目に国民の金を使う理由が必要であろう。したり顔で、各政党のボスと呼ばれる男が仕切る参議院では存在自体が胡散臭くなる。こういった状態がもう何十年も続き、その存在に疑問を呈する人も増えている。参議院議員は大所高所から意見を言うだけの見識が無ければ本来立候補するべきではない。現状では出る方にも選ぶ方にも問題がある。選んだ国民はこの事に関しては被害者面をしておれない。

科学技術の進歩は先駆者の残したものを基礎として積み上げることから成り立っている。科学技術が限りなく発展出来る理由はそこにある。一方、人間の場合その基本的な教育は子供が生まれるたびにゼロから始めなければならない。子供は先人の知恵や徳を備えて生まれてはこない。何色にも染まらないで子供が生まれるのは実は大きな意味がある。教育によって、また後天的に学ぶ事によって人は既成の物を変えることが出来る。新しい価値観の創造は人の判断によっていつの時代にも可能だ。科学技術の進歩と人間の教育を考える時、両者のこの特性の違いを我々は良く認識すべきだ。だから教育が単なる築き上げた既得権益の保護や、今存在する権威を守る為になされるのなら教育の意味を成さない。良いものは残り、陳腐なものは淘汰されるべきだ。そこには判断力が求められ、それは単に二者択一のマルや、バツの解答で潜在能力が分かり、かつそういった教育方法で学べるものではない。また、単純なマニュアルでマル・バツが決められるような政治的課題は本来有り得ない。科学の進歩とは基本的に違う手法が必要になる。

ダムの建設中止を、新しく政権を取った政党の新米大臣が就任早々声高く宣言し、それがいつの間にか建設続行に変わっていた。同じ政党での出来事だ。彼らの党としての基本方針は何だったのだろう。この党にはこういう例が多過ぎた。結果として全く説得力の無い方針と言い訳が羅列され、ついに国民に見放された。政治の基本を理解しない素人集団で、気の利いた中学生なら学級委員会でも出さないような結論を平気でトップが口にし、失笑を買っていた。官僚を馬鹿扱いするのは個人の自由だが、政治家がそれを公言した場合彼らの協力は得られないだろう。批判するならどこがいけないのか指摘し、その改革から始めるべきだ。本来官僚は政治の決定した事案を実行する下部組織にあたり、法令に基づいた政治家の適切な指示があればそれに従う義務がある。また、当たり前のことだが官僚の協力がなければ政治は円滑に機能しない。「官僚は馬鹿です」と言った市民運動家上がりの配慮に乏しい、野心だけ旺盛な男には期待する方が所詮無理な話だった。彼を含め、その後の言動を見ればこの党には笑ってしまうほどの幹部が多過ぎた。残念ながらこういった類の話は何もこの党だけが独占している訳ではない。公民権を停止されている男と同姓同名の他人を選挙に担ぎ出している党もあった。出るのは自由でその行為自体は何ら法に触れている訳ではないが、少し知性や理性のある人間や政党ならこういったことはやらない。「恥も外聞も無い」という日本語があるが、こういう時にぴったりの表現だろう。

政治は人間の総合的な判断が求められる「まつりごと」で、どんな結論を出しても必ず反対する人は出てくる。反対するだけのために存在するような組織や団体もあるが、国民の中には自分の利害に一番敏感で、全体でのバランスを考えようとはしない人間が多数存在する事も忘れてはいけない。その主張に整合性が無ければ無視する気概も政治家には必要だ。反対が居ると「橋を造らない」という知事と、無害の災害地の瓦礫受け入れに反対した住民に「馬鹿者」といった知事と、どちらを我々は選ぶべきだろうか。

政治が単にお勉強を真面目にやってきただけの人に勤まらないのは、いつ如何なる時でも将来を見通した判断が必要とされるからだ。あらゆる政治的事案に正解は用意されていない。用意された正解を再現する訓練には、一番肝心な自分で考え、判断するという日常的な心構えが必要とされていないことが問題だ。それでも自分で判断し、個人的利害の枠外で活躍する人も出てくることはある。少数ではあってもそういう人達を前面に立て改革を進めるしかない。本来であれば、こういう志の高い共通認識の基で教育が行われれば、少しはましな人間をあらゆる分野に送り込むことが出来るのだろうが、現実はお寒い限りだ。松下さんは既成の教育に飽き足りず、幅広い人材育成のため私財を投げ打って塾を創設したのだろう。しかしその哲学を踏襲している教え子はあまり居ないようだ。見かけるところ、単なる出世の近道と理解している輩が多いように思える。何より政治の中枢をやらせるには彼らはあらゆる面で未熟だ。彼らの言動に説得力が無いことが致命的である。

政治とは本来人生経験豊かな人(必ずしも年配者を意味しない)が携わるべきで、それは決して既得権益の保護を意味しない。判断力は個人や属する団体の利益を優先させることではなく、国のため、国民のため何を今なすべきかという視点が無ければならない。私欲さえ捨てられれば何も恐れる必要はない。その時国民に理解されなくとも、普遍性のある価値観が基本にあればいずれ理解される時が来る。サッチャー女史は未だに一部の国民に恨まれているが、彼女の存在抜きでは英国の再建はあり得なかっただろう。国としてどうあるべきかという命題に彼女は一切妥協しなかった。フォークランドを巡る紛争時の決断も必ずや後世で評価されるだろう。日本に欲しいのはこういう判断が出来る政治家だ。文化の違いがあったとしても、彼女の姿勢には学ぶことが多いと思うが言うだけ無駄だろうか。

最近ヨットで遭難したテレビの司会者は「この国の国民で良かった」と救助された時、正直な感想を述べていたが、この顛末は私にはどこかおかしく見える。盲目のヨットマンと太平洋を横断するという目論見はあくまで個人的なことで、それに付き纏う危険も当然承知しておくべきだろう。日ごろテレビで舌鋒鋭く与野党を問わず切り捨てていた人の言葉としては辻褄が合わない。個人が、危険を承知で挑戦する道楽を税金で援けるという図式は本来あってはならない。危険を冒すのは個人の自由で、救助が必要ならそれも個人で負担すれば良いだけの話だ。雪山に登って遭難した連中にその都度国民の税金を使う必要もない。実際遭難した場合多額の個人負担が必要になるらしい。美談仕立ての今回の挑戦が、もし成功していれば金と名誉が約束されていたと報道されていた。ヨットの随所に設置された撮影機を考えれば、成功の暁には多分嫌と言うほどテレビで映像が流されていただろう。彼の真意がどこにあったか分からないが、事情通の解説にはうなずかざるを得ない。彼の政治への発言や、政界進出が取りざたされてなければ論評しなくていい話だが、一皮むけばこの程度のパーフォーマンスの男でも立候補すれば選挙には通るだろうから取り上げてみた。人のことは批判しても自分はその対象に入れない典型的な例だ。説得力の無いことおびただしい。

発言しない個人に少々の偏りがあっても許されるだろう。判断力の欠如も致し方がない。ただ、公共の場で発言する場合その影響力を考えれば是非責任も取って欲しい。政治家を始め世間に向かって発言する評論家・ジャーナリストは常に厳しい国民の評価に晒されている。ただ、国民の目があまり厳しくないため、未だに分不相応な席に居座る輩も多くいるのは事実だが、いずれは淘汰されるだろう。

説得力のない空しい主張や発言はいずれ化けの皮が剥げてくる。時間は掛かっても歴史が証明してくれるだろう。意味ある言葉には広がった裾野があり、その裾野で培った理念や生き方が自ずと説得力となって出てくる。お仕着せのテストを受かってきただけではその力を養うのも発揮するのも無理だろう。

平成25年7月21日
草野章二