しょうちゃんの繰り言


平和国家

集団的自衛権の行使を閣議決定したという現政権の方針を巡り、平和を訴える人達から反対の声が挙がっている。拙文「集団的自衛権」でも述べたが、ことの本質は現憲法の解釈とその運営での整合性を巡る問題ではなく、日本国民が平和と安全のためにどういった対応を取るのかという基本原則の問題だ。もっと言えば、現憲法で平和と安全は守られるのかという疑問に我々は答えを出さなければならない。集団的自衛権を認めれば戦争に繋がるといった程度の平板的な結論で判断出来る問題ではない。

我々は太平洋戦争という大きな人的犠牲を伴った戦いを経験してきた。人権を含め、すべての価値観が今と同じではない時代だった。当時の施政者や指導者は日本国の将来を見据え、それぞれ専門の立場から選択をし、判断をした結果が「戦争」そして「敗戦」という事実で幕を降ろした。

犠牲になった国民から見れば他の選択肢は無かったのか疑問に思うのは当然だし、特に戦争に負けた場合、判断を下した指導者に批判の目が向けられるのは避けられないだろう。敗戦の結果として戦勝国主導で開かれた裁判ではその正当性は別として、指導者達は「人道に対する罪」・「平和に対する罪」等で起訴され戦争犯罪人として判決が下された。烙印を押された人達は歴史に刻まれたその名を永遠に取り消す事は出来ない。1951年、サンフランシスコでの講和条約では、日本は極東国際裁判所(東京裁判)の判決を受諾してはいるが、裁判そのものの正当性を認めたのではないと解釈している。

「人道に対する罪」・「平和に対する罪」を国際レベルで世界に認めさせるのであれば、前にも主張しているように、原爆被爆者としては一般市民に対する究極の無差別攻撃である原子爆弾を使用した国もそこに付け加えて貰いたい。東京都民なら、1945年3月10日の焼夷爆弾による大量無差別攻撃(東京大空襲)もその中に入れたい事だろう。

歴史上の判断や決定が、勝者の理論で行われた例なら過去幾らでもある。私達が歴史を振り返る時、そこでは全てが真実と事実が述べられているわけではないことを肝に銘じておくべきだろう。そして国の平和と安全について何かを語る時、平和を望むという自分の感性的都合だけで選択してもまともな答えは得られない。

前にも述べたように、過去70年に及ぶ時の流れの中で、我が国は戦争や紛争に巻き込まれる事は無かった。平和を訴える人達は、その背景が所謂平和憲法にあると信じて疑わない。だから平和憲法を死守し、断じて集団的自衛権を認めてはならないという分かり易い主張だ。

この平和憲法の基本は日本国憲法第9条に集約される。そして平和主義者がその筋を通そうとすれば、今の自衛隊は憲法違反の最たるものだろう。国際的に自衛権が認められているのは周知のことだが、我が国の憲法はその権利も捨てて、「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と明確に謳っている。

自主的であれ、お仕着せであれ、この憲法を公布した限り政治家を含め日本国民は誠実にこれを守らなければならない。その立場に立てば、どう解釈しても私の判断では自衛隊の存在は憲法違反になる。

また、戦後約70年近く我々日本国民は戦火とその犠牲に無縁だったことは紛れも無い事実だ。この事実のみが独り歩きして平和主義者はこれを背景に自分達の主張を正当化している。

戦後の平和国家としての日本を巡る流れには、幾つかの論理矛盾があり、幾つもの事実誤認がある事を心ある人達は気が付いている。

軍隊があるから戦争になる
武器を持つから殺し合いになる
平和憲法があるから平和が保たれる

一見もっともな意見だが、残念ながらこの程度の理解では日本の平和や安全を守る事は出来ない。軍隊も武器も日本国憲法では否定しているが、現実には自衛隊(軍隊)は存在し、兵器は最新のものを装備している。1950年に自衛隊の前身である警察予備隊は誕生している。それから60年余の時が過ぎても日本は戦争を起していない。つまり、この事実から分かるように軍隊も武器もそれがあるため戦争に結び付くわけではない。

また、この間結果として戦火に見舞われなかったのは平和憲法のお陰かどうかも、よく検証してみた方がいい。

何処の国も、国民は戦争を望んでいないだろう。それでも第二次大戦後、世界で紛争の途絶えた期間は無い。日本で平和憲法が有効に働いていると世界が認めれば、70年余の間に日本を見習う国が出てきてもおかしくない筈だ。日本の技術を盗みすぐに模倣する国でも平和憲法を真似しようとはせず、むしろ軍備の強化を計っている。歴史的検証は曖昧のまま、日本を理解しようとはせず、反日教育を行っている国ならある。平和憲法に対する我が国民の宣伝が足りないのか、平和憲法だけでは国は守られないと他国が判断したのかどうか定かではないが、私の知る限り日本での不戦の成果を判断して平和憲法を採用した国は今のところ皆無だ。

我々は多かれ少なかれ互いに思い込みで判断する事はある。微妙な国際間のパワーバランスの中で幸いに日本は戦争に巻き込まれる事は無かった。これは平和を守る日本の主張と主体性が世界で認められた結果ではない。拉致被害は未だ解決してないし、専有の島さえ他国に実効支配され、新たに狙われている島もある。平和を唱えていても国際問題は何ら解決出来ないでいる。

紛争に巻き込まれなかったのは、日本の背後には安全保障条約を結んだ軍事超大国アメリカがいる事を世界は知っていたからだ。

捏造された拉致慰安婦問題も、一流と言われ平和を説く新聞社が誤報を訂正するのに30年もかかっている。この間にも、いわれ無き汚名を国際的に受け続けている事実を、原因を作ったこの新聞社はどう責任を取れるのだろう。捏造のため、いかに国益を損ねたか、かつ日本と日本人の尊厳を傷つけたか良く考えてみればいい。一流と言うからにはその程度の頭は遅ればせながら働くだろう。下手な弁解を未練がましくやっている場合ではない。

平和国家日本で起きている現実の背景が、時の政治家やジャーナリズムを含め、いかに脆弱なものか考えてみる時ではないだろうか。独り善がりの思い込みほど迷惑なものはない。毎度言っている事だが、一流大学出身で組織された一流新聞社に、一流の人間が集まるというのは幻想にしか過ぎない。判断力の欠如はジャーナリストとしては致命的で、たったこれだけの間違いを正すのにも彼等は30年の歳月を必要とした。普通、こういう集団を一流と呼ぶ事はない。それでも彼等は平和を唱え、無知な我々に彼等流の平和を伝授している。全くの見当違いだが。

政治家の判断には常にその後ろに影響を受ける国民が居る。従って、その判断が歴史の試練に耐えられるかを常に彼等は意識してなければならない。一過性の辻褄合わせで妥協するのは政治家として最悪の選択だということを肝に銘じておくべきだろう。また、新聞やマスコミは発した情報の受け手に数千万の国民が居る事を忘れてはならない。こういった基本姿勢が歪められた時、政治もジャーナリズムもその権威を失くしてしまう。子供達相手に安物の歌や芸でお茶を濁しているのとは違うという矜持を持って貰いたい。

平和国家の模索も、その基盤を正しく認識していないと将来への方向性も失くしてしまう。国の安全と平和を熟慮した上での結論でなければ、歴史の負担に耐えられる方法は出て来ないだろう。

幸いに人類は広島・長崎以来原子爆弾を使用していない。この最終兵器がもたらす結果を紛争国同士良く理解しているからだ。それゆえ、「核の抑止力」という安全保障上の新しい概念も生まれた。危険なバランスの上での人類の知恵とでも言うしかない。但し、核兵器は抑止効果が絶大であることには間違いはない。

今年の広島・長崎での原爆記念祭でも核廃絶の訴えがそれぞれの被爆者からなされていた。当事者の祈りを我が事のように受止める人が世界に多くなれば、その願いも叶えられる日が来るかもしれない。しかしこの平和運動は戦後すぐから始まっていて、既に60年以上の時は流れているが目に見える効果は多くない。被災者の声でさえ、残念ながらこの程度の説得力しかないのが現実だ。平和への訴えと祈りは人類の理念として崇高ではあっても、その実現にはまだ道は遠い。

現実社会では平和という理念だけでは、なかなか平和が実現出来ない事も知っておくべきだろう。

考えや判断に各人それぞれの思いがある事はよく理解出来る。但し現実の国際政治の中では理念と供に実効性が無ければ役に立たない。つまり現実的な対応でなければ意味が無い。

立場の違いとはいえ、自虐史観での平和論は何の説得力も持たない。現実は直視すべきで、過去に過ちがあったのなら真摯に受止めるべきだ。その上での謝罪や反省なら国民は誰も異を唱えないだろう。少なくとも捏造や、ためにする論説で読者を誘導するのはジャーナリストとして取るべき手段ではない。同時に、政治家や法に携わる人達も基本を誤らないで欲しい。捏造された国際問題の、被害者と称する女性達の弁護を引き受けたのは日本人弁護士達で、その一人は現在国会議員を務めている。

施政者に批判の目を向ける事は大事だが、野党もジャーナリズムも反対の為の反対では何ら建設的な事は生まれない。まして近隣諸国を焚き付けて我が国を貶めるのは、どんな理由があれ知性ある人間のやる事ではない。

平和国家の建設は誰でも口にするが、どれだけの理念と配慮が背景にあるのかは分からない。多くの平和運動にその道のプロが関わり、それが嫌で抜け出した人達も多数居ると聞いている。平和と安全のスローガンは誰の耳にも心地よく、分かり易いほど人は飛びつく傾向がある。平和と安全にどれだけの準備とコストが掛かるか考える時ではないだろうか。

70年近く紛争に無縁な日本の平和憲法を、世界で取り入れた国が無い事実を皆でもう一度考えてみよう。

平成26年8月12日

草野章二