しょうちゃんの繰り言


自分の言葉で

最初に、「コピペ」という言葉を聞いた時、この変な響きのする言葉が何を意味するのか見当つかなかった。これはパソコンを日常的に利用している若者の間では既に定着していて、「コピー(copy)して、ペィスト(paste)」する日英の造語だという事だった。日本語で表わせば「写して糊付けする」という意味で、パソコンで調べた部分的な説明文を巧みに組み合わせて貼り付け、自分が書いた作品・論文として完成させる、ということらしい。

私も年代や正確な名前の綴りなど、記憶が曖昧な時はパソコンを利用して再確認する事もある。ところが、本物のコピペは自分が検索して都合の良い部分の記述をそのまま切り取り、その寄せ合わせをパソコン上で貼り合わせて自分の作品とするらしい。かつて送って貰ったどこかの市長の著作が、単なる行政が携わる細かい各種資料の羅列で、うんざりした事を思い出した。これも、もしかしたらコピペの走りかもしれない。

大学の卒論にはこの簡便なコピペは大いに利用され、今やそれを見破るソフトも開発されているらしい。学ぶ事の形骸化と、資格を取ることが目的の学歴社会を象徴していて面白いとつい笑ってしまった。人間はどこでも傾向と対策を練るものらしい。大学教育なんてこの程度だと学生が見限っているのなら、この方法も現代学生の抵抗の表れと言えなくもない。多分買い被りだと思うが。

発表当時「ノーベル賞ものだ」と一時騒がれた研究に、主役として関わっていたうら若き女性の博士論文にも、このコピペの疑いがあると指摘された。私がコピペを知ったきっかけだった。

赤ちゃんの成長は模倣から始まっている。何でも大人の真似をしたがるが、このプロセスは大事な成長の基本だという。言葉も正に模倣から始まる。猿さえも人間の真似をしたがり、「猿真似」という日本語の表現もある。模倣は動物の成長期には絶対必要な生きる知恵の習得なのだろう。

学ぶことはすべからくコピー(記憶)する事から始まっていて、今の日本の教育は学生に正確なコピーとその貼り付け(再現)を要求している様に思える。だとすれば学生が卒論で取っているコピペという方法は、皮肉な言い方をすれば、あながち間違っていると大学も否定出来ないのではなかろうか。自分で記憶した事をコピペすれば優秀で、パソコンから取り出した記述をコピペするのは間違いという事なのだろうが、パソコンの記述の方が遥かに正確だ。

専門的な論文では、引用した記述には必ず出典が記されている。週刊誌等の評論でも著者によっては律義に出典や引用した記事の出所を細かく書いていることがある。一人の人間が例え専門分野と雖も全て頭に入ったもので表現している訳ではないし、自分独自の観点で表している訳でもない。ただ、論文・著作・評論は引用があっても、全て自分の考えを自分の言葉で表現するのが原則であり、最低のルールだろう。従って引用部分には正確に注釈を入れている。

今年の大学入試の検証が新聞に出ていたが、世界史であまりにもマニヤックな問題を出した大学が幾つか紹介してあった。名前を聞けば誰もが知っている一流と言われている大学ばかりだったが、その対象となった難問の一例題は、70年以上生きてきた普通の人には全く縁の無い初めて耳にする史実だった。例え知っていたとしても、孫に自慢する程度で、難問クイズでは評価されても、この一片の知識が歴史を学ぶ上での大事な要素だとは到底思えなかった。枝葉に拘って、それを知ることが優秀だとする悪弊はどこかで断ち切らないと学生は憶える事に専念し、本質を見ようとしなくなる。学を目指す者がやってはいけないのは卑近な目的の為の辻褄合わせだ。

入学試験が終わると、毎年どこかで必ず出題のミスが話題になる。出題の間違いは普通に考えれば、出題した当人若しくは当事者がその問題を正しく認識していなかったという意味だろう。教育が形骸化すれば必ずこういった問題は出てくる。本人達が曖昧な事で受験生を試すからこういた無様な事が毎年どこかで起こる。出題する側が、試すことの妥当性を考えないと学生は何時までも無駄な労力を強いられることになる。

アメリカの「レインマン」という映画でサバン症候群という一種の疾病が有名になった。主人公の彼は一度聞いたら忘れない頭脳を持ち、読んだ本は全て記憶してしまう。電話帳も片端から頭に入る。過去の出来事も全て憶えていて、日時を特定するとその時の天候も出てくる。また、何10年後でも日を特定すれば、「何曜日」と正確に瞬時に答えることが出来る。この能力は過去の曜日にも遡れる。

これは人間の持つ脳の可能性を示してくれていて、非常に興味深いエピソードの数々だった。だが、映画のモデルとなった驚異の頭脳を持つ本人は、父親の手を借りないと日常の生活すら送る事が出来ない。このサバン症候群の彼は、我々が普通に行っている簡単な計算が出来ない。100ドルで25ドルの商品を買った時の釣銭の計算が出来ない。

世界には色々な分野で特異な才能を発揮しているサバン症候群の人達が居て、彼等の共通点は我々凡人の頭では計り切れない能力(脳力)を持っていることだ。専門家にとっては脳の働きや、その能力の限界を知る上で極めて興味深い研究対象になるだろう。

人間の持つ能力を活かすことはどの分野であれ必要な事で、我々が学ぶのは正にその能力を高めるためだ。肝心なのは、学校ではどういう能力を高めるために学んでいるのか、その方向性をはっきりさせることだろう。

コンピューターと同じ位のメモリー能力を人間の脳が持っている事をサバンの人達は証明してくれた。しかし、凡人の我々にはその能力は通常備わっていない。だが、観点を変えると、人の脳はもしかしたら必要に迫られて記憶に残さないものを選択して捨てているのかもしれない。サバンの人達は何かしら脳に障害を持っている。脳が片方しかない人もいた。彼等は特異な能力を発揮する一方で、人間生活に必要とされる実践的な能力は一般の我々より遥かに劣っていて、保護者の援護が無いと多くの場合自活さえも出来ないでいる。専門家の説明では片方の脳に障害が起きて、それを補完するため残った脳が異常に発達したのだろうという事だった。決してバランスの取れた発達ではなかったように憶えている。

こういった事実から、人が人として暮らす場合、普通脳にはリミッターが働いていて、不必要と思われるものを排除している可能性がある。だとすれば、隠された能力を開発する余地はまだ幾らでもあるという推論も成り立つ。

専門家から見れば暴論であろう事は充分承知の上で考察してみると、見たこと聞いたことを忘れるのは人間にとって必要だからではなかろうか。悲しみや、悲惨な経験は必要以上に残って欲しくないものだ。もし時間での風化(忘れること)が無ければ経験した時の衝撃がいつまでも当時のまま残る事になる。一般の人には耐えられないだろう。

また、もし脳に限界があるなら、記憶する事のみに全てが使われた場合、判断する事や書かれたものから何かを汲み取る能力に欠陥が生じるかもしれない。脳全体としてその能力に限界があれば、一つの事に全てが占領される仕組みになっていないのだろう。そう考えればサバン症候群での異常な能力は幾らか納得がいく。

私達が子供の頃、近所の開業医は殆ど全ての診療科目を掲げていた記憶がある。せいぜい親子で開業していて、複数の医師の出入りは無かった。ところが最近では専門化が進み、細かく分かれている。必要に迫られてのことだろうから、別に異議を唱える気はない。むしろ専門化する事でより正確で緻密な診断・対応・手術の可能性が高まり、患者には有難いことだろう。しかし、この方法にも弱点があって、その専門分野だけからの診断の結果、患者にとって最良の処置がなされたのか疑問に残る場合もあるそうだ。

中庸という言葉を高校時代漢文で習った。また、英語でファジーという言葉も習った。細かいニューアンスでは互いに違いがあるが、これは人間の日常生活の上では必要なものだ。人間のやる事は何事も割り切れるものではなく、単純に右とか左で収まるものではない。知識は必要だが、最終的には知恵が必要になる。あらゆる分野で、我々は完ぺきな答えを出せる域には達してないと思うし、達する事も出来ないだろう。各分野で有能な人材が日々戦っているのは、到達点の可能性を模索していると表現した方が正しいのかもしれない、

権威を簡単に認めていけないのは絶対的正解が存在しないからだ。司法・政治・言論等々無謬性などある筈がない。その時出来る公正な判断に従うしかない。重大な判断であればある程、人は謙虚に成らざるを得ないだろう。下手な仕切りで人間に序列を付けるから勘違いした人間は幾らでも出てくる。

人が学んだ結果、自分の言葉で表現する事を原則としたら少しは変わった世界が生まれるかもしれない。白洲次郎は友人達が盛んに引用する内外の著名人の言葉に対し、「それで君の意見はどうなんだ」と迫ったそうだ。

部品(パーツ)と化した人間は、その役目でしか物を判断しないし、その役目に忠実である事が自分の本分だと思い込んでいる節がある。形骸化した組織に多く見られる現象で、サラリーマン世界でも不思議な現象ではなくなっている。

教育の成果を言うのなら、全く逆の世界が生まれなければ意味が無いだろう。今からでも遅くないから、自分の言葉で発表する学生を育てて欲しい。個々の判例や、細かな枝葉はコンピューターのメモリー(記憶)に入れとけば済む話で、諳んじている事が必ずしも優秀性の証明にはならない。

教育において、皮相的な事で辻褄を合わせた成果は表れているが、自分の言葉で話す伝統は薄れているようだ。そうでなければ優秀とされている大学を出て、一流とされている新聞社や官庁で働いているエリートが三流大学を出ている友人にからかわれる訳がない。

若者の可能性を陳腐な物差しで選別するのを止めれば、優秀な人材が出てくる可能性は今よりあるだろう。ただ、それが出来る教授はどれだけ居るだろうか。

平成27年2月7日

草野章二