しょうちゃんの繰り言


知れたお里

“お里が知れる”という言い方を最近はあまり耳にしなくなった。もしかしたら差別用語の類に指定されているのかもしれない。嫁さんの実家を“お里”と言い、嫁の立ち振る舞いで実家がどの程度のものか分るという昔からの言い伝えだった。決して良いことの例えには出てこない言葉であり、非難や軽蔑の意味を込めた表現だ。

世間を騒がせる事柄の多くの場合に“お里”が知れることになるが、それは必ずしも嫁さんの実家を詮索して批判している訳ではない。この場合嫁さんも、その実家も全く関係がなくなっている。“お里”とはその人物の依って立つ背景を、あくまで比喩として使っているに過ぎない。

ノンフィクションの物書きとして世間に登場し、名のある賞を手にすれば、普通ひとかどの見識を持った人物と看做されるだろう。ましてテレビに顔を出し、舌鋒鋭く上から目線で相手を糾弾すれば、その意見に同調出来なくともそれなりの判断力を持っていると考える方が普通だ。立場が学者であれ評論家であれ、世間に向かって発言する知的作業に携わる人たちに対して、俗物の浅知恵とは縁の無い人種だと我々は勝手に決め込む傾向がある。大学教授・弁護士・医師・作家といった肩書を持ってテレビに現れると、条件反射的に知性を備えた判断力のある人物だと思いがちだ。だが、その期待と実像に大きなギャップが出てくるとたちまちバッシングの嵐となる。

尊大な態度や上から目線は、本人の自信の表れとして時には頼もしく映る事もあるが、多くの場合不必要な敵を作ることにもなりかねない。まして東京の政治権力トップの座についている人物が日頃の高飛車な物言いにも関わらず、自分の金がらみの問題に明確な説明が出来なければ、流行(はやり)の「倍返し」が方々から来ることは避けられないだろう。

今回の5000万円の推移を冷静に判断すれば正に“お里”が知れ、その程度の人物だったと世間に見限られても仕様がない。その金がどういう主旨だったかまだ司法判断は下されてないが、明確な説明が出来ないまま権力の座にしがみつこうとしている様は、彼の今までの功績も無駄にする醜態に過ぎない。そこには権力や腐敗を追及した時の矜持は見られない。

皮肉屋の山本夏彦氏は“賄賂を非難する人間は自分が貰う立場にないからだ。賄賂を断る人はいない”と辛らつな言葉を生前吐いていた。今回の都知事へ渡った金を賄賂とは断定出来ないまでも、不明朗な点を考えると山本氏の発言を笑ってはおれない。また金を渡した方も、かつては患者の為の病院を建てるという理念の基、日曜・祭日休み無しの診療を謳い文句にしていた。さらに、その創始者は“子孫には美田を残さない”と公言していたが、どこかで変質したのだろう。これも“お里”が知れた典型的な例ではなかろうか。医療に従事していてこれだけの金を裏で簡単に融通出来るのはどう考えても納得いかない。この場合の真の被害者はこの病院で金を払った患者ということにもなるだろう。念の入ったことにその金には返済期限も金利も何も必要では無かった。“足か付かないように本人に取りに来させろ”という貸した方のボスから息子である代議士に指示した事実が居合わせた複数の人たちによって証言されている。これをまともな金の貸し借りと言うのだろうか。

5000万円からの金額を初対面の人に正式な借用書が無くても貸す、若しくは与えるということは誰が考えても不自然だ。出した方も、受け取った方もこれだけの金額になれば互いに暗黙の了解事項があったと看做するのが世間では当たり前ではないだろうか。

こういった不明朗さを批判する手垢にまみれてない政治家が出てきて、それを都民や国民は選択し、彼にもそれを期待したのだと理解している。しかしながら結果を見ると山本夏彦氏の方が我々より人間を良く知っていたと言う他ない。日本人の劣化を嘆いていた石原慎太郎氏の基でそういった人物が出てきたのが皮肉だ。

過去に“お里”が知れた政治家や企業・組織のトップは枚挙に遑が無い。自分に権力が与えられ、不明朗な金が来た時、果たして山本氏が言うように誰もが毅然として断れないのだろうか。トップに居る人が、もしこのジレンマを持ち続けるなら何も解決しないだろう。人がもし我欲から超越出来ないのなら、この誘惑は規模の違いさえあれ日常的に我々に迫ってくる。会社のため、家庭経済のため、少しばかりの小遣いのため、等々と幾らでも言い訳は出来るだろう。しかし私の狭いビジネスの交際範囲でも、やらない人は決してやらないように思えた。私は山本夏彦氏と違って、そのお立場にあってもやらない人を多く見てきたと実感している。それでも少数の例外はあったが。

学歴や知識はあっても行儀の悪い人は居るものだ。これはその人の品格の問題としか言いようがなく、背景にある卒業大学や企業・組織・作品・等々とは関係ない。また、人によっては、自分なりの矜持も或いは金額次第で変わるものかもしれない。もし自分がその立場に立つ時、絶対的な自信を持てないのが情けないが、山本夏彦氏はこの人の危うさを指摘しているのかもしれない。例の口の悪い友人が言った“俺の生き方が子供に残す財産だ”という名(迷)言は理解出来ても、その心境にはすぐに到達出来ないでいる。感謝したいのは幸いにして正体の判らない大金を貰う機会が我が人生では無かったことだろう。

杓子定規な事を敢えて言えば、公人で、かつ権力ある立場に居る人達はこのけじめが厳格に求められている。それが出来ない性格であれば少なくとも自分には適性が無いと思うべきで、それぞれの専門分野で好きにやっていれば良いだけだ。評論家であれ、物書きであれ名は売れていても胡散臭い人間は幾らでもいる。

ゴルフで自分のスコアを誤魔化す人が必ずいる。周りの誰もが知っていても本人は気付かれていないと思っているらしい。一流と言われる企業に勤めていた人達の中にもそういう人が必ず何人かいた。同じ様に金はあっても万引きの癖や、人にたかる癖が治らない人もいる。何が彼らをそうさせるのか心理学の専門家の意見を是非聞きたいものだが、私見ではある種の病気だと結論づけている。その点さえ除けば概ねまともな人達だが、何故だか実際に経験するとその人の全人格を否定したくなる。私の許容範囲がまともなのか狭いのかは分らないが。

人はもともと不完全なものだろう。互いに弱点を認めた上で考えても、首都のトップで采配を振るには、それなりの人であって欲しいと皆な思っているだろう。彼のみならず国政を担い、国を担う人が次元の低い弱点を引きずっていては、国民は迷惑なのだ。

金儲けであれば法律に従っている限り薄汚くても受け入れざるを得ない面がある。法律は人間の品性を規定しているものではないからだ。我々が法律という狭い視点でしかものを考えない場合、世の荒廃はもっと進むだろう。法律は人間生活の最低の基準と思えば分かり易い。法律を犯してないからといって褒められないことは幾らでもある。

ちゃんとした躾を受けた嫁であれば、“お里”を詮索される必要は無い。外見をどんなに飾っても必ず“お里”が知れる事になる。どれだけ“お里”で、人としてのあり方を学んできたかが問題にされる。今、日本で問われているのは“里での教育”ではないだろうか。

専門教育はその専門の道を究めるためにあり、学ぶ人の人格は普通問われない。大学で専門教育を受ける学生は、ある程度全人格的な基盤が出来ているという前提で我々は認識している。世の中の判断は偏差値が高いほど優秀とされ、知性も教養も備わっていると思っている。まして、どこを出たにせよノンフィクション部門での作品が権威ある賞を得られたとすれば、作者はそれなりの見識を持つと思うのは当たり前だ。それが極めて稚拙なことで躓く姿を見ると、全人格としての基礎体力の不足をつくづく感じてしまう。

今回の当事者である三人の主役は、遅かれ早かれ表舞台から降りることになるだろう。スーパー・チェーンならぬ病院チェーンの創始者と代議士であるその息子、それに首都の現役知事の面々だ。彼らは間違いなく昨日までは現代の成功者だった。彼らの背景にあるものが暴かれると、笑ってしまう位お定まりの筋書きが見える。

“男は金と女に注意しろ”と昔の人は言ったが、ここにも分かり易い典型的な落とし穴があった。患者の為の病院、国民のための国会議員、都民の為の知事という目的と使命のはっきりした役割を彼らは残念ながら果せなかったと言える。

我々は常に本物であるかどうかの判断を迫られている。それは他人に対してだけでなく、自分にも求めるべきものだろう。

安易な物差しが社会の崩壊に繋がりかねない。金と権力が力を持つのはいつの時代でも同じだ。その力に反社会的なことがあれば私達は遠慮なく糾弾するべきだろう。長い時を掛けて先人が築き上げた伝統や歴史が、短い時間で破壊された事に早く気が付くべきだろう。私達が“学ぶという事は何か”をまず問わなければならない。

あらゆる分野で基本的な体力不足を感じる。大学は出たけれど、“さて君は何が出来る”と問われた時、“間違ったことはしません”と何人の学生が正面向いて答えられるだろう。その社会に出ている先輩達は何人が“間違ったことはやらなかった”と答えるのだろうか。

しっかりした“お里”を築くには物差しから変える必要がありそうだ。断じてグローバル・スタンダードと言われるアメリカの基準を真似する必要は無い。“人が生きるのは何か”を考えれば底の浅い経済の法則を社会の基本に置く必要はない。

富と栄光はなかなか並立出来ないものだ。人生の生き甲斐を単純に決められる強さは、栄光とは縁の無い人たちに備わった特性に思える。何人もがアメリカ経済紙の長者番付に載る栄誉を得て、短期間に何人もが転落している。こんなものに価値があると思うから世の中おかしくなると思えばいい。人間はもっと奥の深い生き物だという自負を持てば、小銭に煩わされる事無く人生を送れる。

“お里”も誇れず、金も無い老人の戯言はなかなか通用しないだろうが、何かがおかしいという判断にはいささか自信がある。

年寄りは“いつの時代でもそうやって小唄を寂しく唄っている”と言われそうだ。

平成25年12月17日

草野章二