しょうちゃんの繰り言


勘違いした人達
(テレビ大国日本)

考えてみれば私の繰り言は、むしろ自分に言い聞かせている面が多い様に思われる。凡人の常として人は何時も勘違いをし、何か気の効いたことを言ったつもりでも人様に笑われることが多い。

世間で名が売れ、それなりの経済基盤が出来ると本人もひとかどの人物になったような錯覚に陥り易いものだ。青雲の志で世に出て、名声と経済的成功を手にすると「故郷に錦を飾る」ことは出来るだろう。普通、世間が判断の基準にしているのは成功の証である豪邸であり、豪華な生活だ。だが、同じ様にテレビで名の売れた(成功した)人達(キャスター)の判断力はその知名度と収入に正比例しているのだろうか。

例の口の悪い友人が「ヴィジュアル系の若い女子アナと称する連中が、玉の輿を狙うのはまだ可愛いものだが、虚名で得た分不相応の地位と収入で一人前の顔をテレビで連日晒しているニュースやモーニング・ショウの司会者や、そこに連なるコメンテーターには見識を疑うような奴が幾らでも居るぞ」と、かつて言っていたのを思い出した。

「なかには、“私はニュース・ショウの司会者で、ジャーナリストではありません”とちゃんとした見識を持ったアナウンサーあがりの司会者も居たが、テレビ局では殆どはアナウンサーからすぐにニュース・キャスターになり、自称ジャーナリストになる」

確かに彼の指摘通りで、かつて色物番組で活躍した司会者も参議院議員を途中で辞めた後「俺達ジャーナリストは」と発言して失笑を買っていた。

「プロレスやF1の実況中継で実績をあげても、それが政治・経済や社会問題への確かな発言にすぐ連動出来るとは思えないが、テレビ局は安易に人気だけで番組を任せている」

こういった友人の言葉を思い出したのは、お笑い芸人の芥川賞受賞に関するテレビ司会者達の見当外れなコメントを最近聞いたからだ。その発言は、本人達の真意はいざ知らず、上から目線の姿勢が見てとれ、お笑い芸人を見下したような態度に終始していた。

あたり前のことだが文学作品は書いた本人の職業は全く関係ない。件の芥川賞を受賞した作家は、聞けば太宰治に傾倒し文学作品を愛読する極めて有能な青年だという。人間に対する深い洞察と知性が無ければ賞に値する作品を仕上げることは出来ないだろう。世間では「文才がある」と簡単に纏めたがるが、ものの本質を見る確かな目と豊かな表現力が無ければ高名な文学賞を受賞出来る作品を簡単に書ける訳がない。お仕着せの試験に受かっただけの高学歴者には所詮叶わない能力だろう。

番組の司会を任されているからには、あらゆる面で判断力を備えていると世間が思うのは間違いだったことを、馬鹿な発言でこの司会者達は今回自ら証明してくれた。

我々凡人は、出来上がった価値観の中で生活するのが楽で、あまり自分でものを考えなくて済む生活に馴染んでいる。特に結果の見えやすい試験での序列には素直に従っている。偏差値という妙な物差しに誰も疑問に思うことなく従っていて、今ではむしろ受験生の仕分けに便利だと受験産業に携わっている塾や予備校、それに有名大学進学率を誇る高校にも重宝がられているようだ。同じ様に、テレビで活躍している風に映る所謂ニュース・キャスターにも中身以上の評価を世間は与える傾向があるようだ。偏差値と同じような価値を知名度に置いているからそういう評価になるのだろう。どちらも友人に言わせれば「そんな評価には何の整合性もない」ということになる。

ペーパー・テストという試験制度が単に人の一面での能力判定にしか過ぎないにも関わらず、私達日本人は未だに学力の最終裁定基準として大事に守っている。そして、もしそこに本当に価値ある判断が存在したのなら、芥川賞は高偏差値大学卒業生が独占していただろうし、ノーベル賞もそこの卒業生に独占されてなければおかしい。政治や経済でも、中心になって活躍したのは偏差値最上級の彼らでなければ理屈に合わない。松下さんや、本田さんが出て来て成功を収めたのもおかしいことになる。例の友人の言葉に「学問の神様である菅原道真は偏差値最高の大学を出ていない」というのもあった。この表現は私も度々使わせて貰っているが。

我々人類は、必要に応じて様々な職種を生みだして来たのだろう。自給自足の原始生活からスタートした我らが先祖は、農業従事者、漁業従事者、生活用品生産者、商品の販売業者等々と時代の要請で分業が進んだと思われる。社会の発展はさらなる新種の職業を今後生みだす可能性を秘めている。

ラジオやテレビでニュース原稿を読む人や、社会の出来事を解説・論評する人も今では何の抵抗も無く視聴者に受け入れられている。評論家と称する人達も各分野に応じて活躍している。ラジオやテレビが無かった時代には成り立たない職業だ。新聞や雑誌が無かった時代には社会現象を論評しても発表する場所さえない。せいぜい周りの数人が直接聞くだけだったろう。もちろん金にはならない。

一方、現代では年端もいかない若いアナウンサーが、独立して億単位の年収になるのも珍しくはないそうだ。まして局を代表するような番組でメイン・キャスターとなれば、一般サラリーマンの生涯賃金くらい、軽く単年度で稼ぐことが出来るという。

また、ヴィジュアル系の若い女性弁護士・医師といった連中も我々視聴者に専門的立場からのみならず、有意義な(?)意見を聞かせてくれている。ただ、発言を支えるいか程の人生経験が彼女らにあるというのだろう。

テレビという媒体は視覚に訴えることから国民の関心を一手に引きつけ、放送開始後テレビ受像機の大量生産のお陰で求め易い価格になると瞬く間に普及した。家庭に百科事典や美術全集は無くても人々はテレビを求めた。生きるには文学書は読まなくても人々はテレビを選んだ。こういった選択は良し悪しの問題ではなく、人の好みによる選択だ。目から入る動画の刺激は活字より何倍もインパクトがあり、何より手軽で楽しめた。余談になるが、テレビジョンというのはテレ(Tele遠い)とビジョン(Vision映像)が合成された言葉で、「遠くの映像」が見られることから出来た名前だ。同系の合成語にテレフォン(Tele+Phone)、テレスコープ(Tele+Scope)等がある。

当初、教育を主題に放送を始めたのはNHKの教育テレビ以外にもあった。今ではそんな野暮なことを掲げる民放は一社も無い。また、電波の割り当ての問題もあり、この業界は自由競争に晒されることはない。ちなみに銀行も新規に設立することは日本ではほぼ不可能だ。

そんな守られた業界に対し友人は「テレビと銀行は仕切っている奴は馬鹿だが影響力は大きい」と笑っていた。この悪態に同感する人は意外に多いのではなかろうか。

キャスターやコメンテーターの発言・論評に、それだけの価値があれば高収入を認めるにはやぶさかではないが、友人が指摘するようにお粗末なのは幾らでもいるようだ。実際、現政権を皮相的に批判するだけで月光仮面になったような気分でいるキャスターやコメンテーターなら毎日幾らでも見ることが出来る。

彼等がオピニオン・リーダとして国民に与えている影響を考えると末恐ろしいが、例の友人は「それを判断するのも国民だ」と突き放している。「品の無い番組が続くのも民度としか言いようがない」と冷めたい言い方をしている。

「銀行もテレビも、そして新聞も儲かることを最優先すれば今の日本の現状に行き着くだろう。そこに本来の使命感や社会的責任という当たり前のことを加味すれば、変わるだろうがはたして連中にそれを期待出来るだろうか。国民が変わらなければ連中は絶対変わらないよ」

彼の指摘は一面では当たっている。社会にはいつの間にか流れが出来ていてそれに逆らうと肝心な利益が上がらなくなる。少々のことに目をつぶる習性はどの分野にも生まれて来た。人々が利益を求めて目先の辻褄合わせに終始するのはそれなりの理由があるが、先人はそれを「水は低きに流れる」という言葉で戒めていた。

視聴率が広告収入の尺度になり、どんな品の無い番組でも売れさえすればスポンサーは付くことになる。本来ならここでスポンサーの見識が問われるのだろうが、必ずしもチェック機能としては働いていないようだ。同様に大スポンサー筋の不祥事に対しては正面切って物が言えない仕組みにもなっている。宗教団体の新聞を印刷している新聞社がその母体に批判的なことを書かない理由もそこにある。

つまり、口の悪い友人が看破している様に「浮世も地獄の沙汰も、金次第」ということになり、今の日本のマスコミ界で正面切って「ジャーナリズム」を唱えるのが場違いな気になる。

正面切っての論争は時として「青臭い」と大人からたしなめられることがある。人が人である理由は抜けきらない胡散臭さにあり、それまで変えようとすれば暗黙の抵抗は増すだろう。「清濁併せて呑み込む」のが大人の判断であり、大人としての器量とされている。

確かに曖昧さの中に人の本質が見え、杓子定規の建前論では人間社会は上手くいかないことも多いだろう。だが、儲かるという底の浅い目的の為に肝心な物まで捨てていては取り返しのつかないことになるだろう。金儲けではなかったにせよ、自分達の主張を嘘で固めた著述に頼った新聞社もあった。

知性の劣化は進学率の上昇に比例している様に思える。口の悪い友人にからかわれないためには、物を見る目を養うしかない。その為には目先の辻褄合わせで人生を送らないことだ。芥川賞を受賞したお笑い芸人は、その経歴にも関わらず偉業を成したことで世間の注目を浴びている。こういった例は世間の先入観を変える可能性があり、学ぶことの本当の意味を我々に教えてくれる。

高学歴や、世間の出来上がったレールの上で一人前の顔をしている連中にはいい刺激になった事だろう。
羽振りが良くても馬鹿にされている人間ならどの分野にも居る。

平成27年7月23日
草野章二