しょうちゃんの繰り言


男の価値

国民的映画スター高倉健が亡くなった時、一つの時代が終わったと感じた人は多数居たものと思われる。寡黙で不器用、それで誠実であるとなれば誰もが彼の虜になったことだろう。彼は役者で、高倉健を演じていたという人もいるが、それにしてもあらゆる局面に於いて立派な佇まいを我々に見せてくれた。良く知らない他人が簡単に評価を下すものではないとしても、名も無き人との義理堅い交友など、後で披露されたエピソードには心打つものが多い。彼の生前の立場なら、有名人の勘違いした行動があっても驚かないが、そういった声は一向に聞こえてこない。彼はあの見事な生き方をどこで学んできたのだろう。

明治生まれの私の父の世代は、寡黙である事が男のたしなみとされていた。父は時折癇癪を起していたが、それでも私ほどではなかった。感心したのは決して弁解しないことだった。自分のせいでなくとも黙っていた。今風の判断で言えば要領が悪いとなるのだろう。私の場合、何も言わない父から逆に多くを学んだような気がする。義理堅く、損得の計算には全くと言っていいほど縁の無い人だった。考えてみれば、これは私に一番欠けている点だが。

野球で三振した選手が思わずバットを膝で折ってしまったが、父はその選手を許さなかった。大事な仕事の道具を折ることは、どんな理由があっても父には受け入れ難かったのだろう。物を大切に扱う習慣は日本の伝統で、父の生きて来た時代には当たり前の価値判断だった。「もったいない」は最近、外国の女性に再教育して貰ったが本当は日本が本家なのだ。

義理堅く人情に厚い風潮は日本人の伝統的美風として確かにあった。だが、高等教育が国民の間に浸透しても、最近この美風を説く人はあまり聞かなくなったような気がする。伝統や精神文化の支柱は、一旦変わってしまうと親子の間でも価値観が違ってくる。

どんな人生を送ろうとも、他人に誠実であれば少なくとも後悔しなくて済むだろう。子供の頃熱心に聞いた浪花節の世界は正に「義理と人情」が主なテーマーだったが、娯楽が多様化した今では子供達は誰も関心を示さないようだ。浪花節はヤクザ(狭客)の世界を賛美しているとして、かつて有識者達から非難されたこともある。そのせいかどうかは分からないが、今ではこの芸能は流行ってない様だ。

戦後の民主主義教育では個人の自由と平等が一番尊重されている。だが、今の世の中を見るとその成果は疑問に思うことが多い。会社のサラリーマンは基本的に上司に従うことが求められ、少々の理不尽な決定にも黙々と従っているようだ。清水の次郎長は馬鹿な子分を親身になって考えてくれていたが、堅気の世界ではその配慮さえ無い様なことが起きる場合もある。私達が習った個人の尊厳とか、自由や平等は現実社会には存在し得ない概念なのだろうか。上司や得意先への盲従、スポンサー筋への気遣い等々、今でも人は色々な配慮を必要に応じて使い分けているが、これは全て仕事上の、別な言葉で表せば、金儲けの為の処世術にしか過ぎない。実態は往々にして社会的儀礼の範囲を超えていることが多い様だ。また、下請けは人間並みに扱われないこともあり、上位の発注会社の困窮に「ザマ見ろ」の罵声さえ彼等から聞こえてくる場合がある。残念ながら互いを認めた上での主張、という当たり前のことが実社会では建前だけになっているから、こういう声が聞こえてくるのだろう。

学校を出て右へ行ったか、左へ行ったかの違いで、同級生でも終生主従関係が決まる現実もある。かつて大蔵省の「モフ坦」(Ministry of Finance「大蔵省」担当)は所属する銀行から無制限の接待費が許され、同級生の大蔵官僚を接待するのが主な仕事だったそうだ。大蔵官僚と大学のゼミで同期などの経歴があれば、すぐにこの役に廻されたと聞いたことがある。やる方もやる方なら、受ける方も受ける方だ。最高学府で知性を磨いてきたとは到底思えない現実があった。

それに比べて、有識者が非難した清水次郎長の浪曲の世界には、よっぽど人間らしいドラマが多く見られた。若い頃、博打と喧嘩で刃傷沙汰を起こした次郎長(山本長五郎)は後に狭客として一家を構え、晩年に始まった山岡鉄舟との交遊でも有名だ。義に厚い男心がジャンルを超えて多くの人達に受け入れられたのだろう。彼は物の道理を無学な子分達に教え、又次郎長のような人望ある親分には暴れ者の子分達も素直に従った。ヤクザの世界も今とは趣が随分違っていたようだ。字を読めない次郎長に、平仮名で書いた鉄舟の手紙が残っている。囚人を率いて明治の初期に確か富士山の山麓で開墾の仕事をしたとも記憶している。こういった人生を送った次郎長だったが、彼自身も無学だった。それでも立派に人の上に立ち、後世に名を残した人物として地元では英雄視されている。

どの世界でも通じる男の生き方が次郎長の逸話には多く見られ、何度も映画化された理由が良く分かる。人心は権威や肩書ではなく人の在り方に、より魅かれる所為だろう。そこには、誰しもが男としての生き様に共感を覚えるものがあるからだ。

一方、芸能界を含めたあらゆる分野の著名人で、とかくの噂が流れてくる人が必ずいる。“俺々オーラ”を全開にして振る舞う人達だ。テレビ画面では良識ある善人を演じていても、スタッフには横柄というパターンもあるらしい。考えてみれば、組織にも必ずこういった人種は居る。凡人の越えられない壁かもしれない。上に立つ人間は意識しなくても、知らず知らずにこのオーラを下に対して出す事があるから注意が必要だ。特に人気稼業の政治家や役者は充分注意した方がいい。品の無い振る舞いはすぐ他人に悟られてしまう。

さらに、世間で「先生」と呼ばれている職業の人にも何か勘違いしている人が時折見受けられる。常に上から目線で物を言い、自分の客に対しても自分が優位に立たないと気が済まない性向を疑問に感じない人達で、彼等の共通点は人に頭を下げないで済む職業に就いている。医者・弁護士に良く見られたパターンだ。未熟な者が若い頃から「先生」と呼ばれていると、勘違いする人間は必ず一定の割合で出てくる。

人間は本来弱いもので、自分より劣っている者に対して優越感を持ち、人格を含めて自分が上だと決めつける傾向がある。特に難しいと言われる試験を受かってくるとどうしても人を見下すようになる。同窓会で一番嫌がられるタイプだ。この程度で終わっている連中で大成したのを見たことが無い。

我が国ではともすれば若者達は一流の大学を出て、一流の会社に勤めることだけを目的としている様に見える。試験を受けた会社が商社、新聞社、メーカー、銀行と複数に亘って何ら関連が無くても、本人を含め誰も疑問にも思わないようだ。つまり彼等の多数は就職ではなく、就社しているに過ぎない。不思議なことに、勤め上げたサラリーマンからも問題提起された例は聞いたことが無い。学校を出る時点でまだ自分の方向が定まらない学生も居ることだから、或いはこれは又合理的なことかもしれない。

但し、こういった就職の方法を取っている欧米の企業は無い様だし、学生も日本式の就職の仕方には戸惑いを覚えるだろう。欧米では有能な社員には競合相手から常に引き抜きの話がくるし、終生一社だけに留まるのは無能か、よっぽど優秀で待遇が良かったと彼等は理解する。数社を渡り歩いたという経歴は彼等にとっては普通では勲章なのだ。だが、日本ではつい最近まで会社を変わることには負のイメージが付いていた。働くという現実的な選択の裏側に彼我とはこれだけの違いがある。

他に受け皿が無い限り、就職した日本のサラリーマンにはその後あまり選択肢は無く、彼等は会社に全面的に依存せざるを得ない場合の方が多かった。平等や自由が、実質極めて制限されていた事実も残っている。良い悪い、の議論以前に日本では自分を主張する文化が無かったと捉えるべきだろう。また、途中入社であっても有能であればすぐに待遇の面でも応える欧米型とは仕組みが違っていた。つまり大学の受験と同じで、官庁でも民間企業でも基本は試験に受かってその組織に入ることに重点が置かれていた。そして能力の如何に関わらず、一旦入社さえすれば定年まで面倒を見てくれていた。今、その採用のメカニズムに問題が出てきたために民間企業では対応策を取っている。個人が物を言わない背景はちゃんと用意してあると言えるだろう。

我々の生きる目的がより良い企業でより良い待遇を得ることであれば、現在の仕組みも悪くないし、若者の選択に疑問を呈する必要も無い。但し、その結果は今見ている社会だと考えれば、改良の余地は幾らでもあるだろう。我々は気が付かないうちに形骸化・陳腐化への道を歩む事がある。前にも触れたが、ドイツのインテリがナチス全盛期に「我々は無関心の代償を、今払わされている」と発言している。日本でも、気が付いた時には若者の学ぶ目的が極めて限定された方向を向き、出来上がった仕組みは閉鎖的で硬直化したものになっていた。資本主義社会の唯一の目的は利益を上げることではないだろう。少なくとも人が生きる最大の目的は利益の追求ではない筈だ。

人によって、会社によって、その目的は様々だろうが行き過ぎた利益の追求は多くの場合軋轢を生み、決して美しいものではない。日本でも、成功したとされる会社に品の無い慣習は未だに残っているとこがあるようだ。人の犠牲で自分が儲かる方法なら教育が無くても誰でも思い付く。それでトップの年収が10億円だとしても、誰も尊敬の目は向けないだろう。

人の佇まいに共感を覚えるのは、隅々まで凛とした本人の意志が窺えるからだ。損得だけの人生では決して醸し出せない雰囲気がそこにはある。
どこに居ても人は自分の生き方を選択出来るが、多くの場合周りに影響され今あることに疑問を感じなくなる。これも教育と呼べるのだろうが、よっぽど強い意志で心掛けない限り大勢に流されることになる。

女性には悪いが、男の価値は精神性の高さにあるのではないだろうか。金儲けや豪邸が全てだとすれば、テレビで名の売れた中身の無い有名人に候補者は幾らでも居る。分不相応に稼いだ人間は往々にして金の使い方を知らず、中身より外を飾る共通点がある。彼等はそれでいい。どの世界でもこの程度が限界なのだろう。

高倉健は、我々にそういった世俗の感覚を一切感じさせない生き方をしていた。実像は分からないが、多分報じられた通りだったのだろう。一度共演した役者が例外無く生前に称えていたのは本物だったからではないだろうか。

学歴や成績に拘る前に、男の生き方に少し拘れば男の価値も少しは上がるかもしれない。

平成27年2月26日

草野章二