しょうちゃんの繰り言


幼き日の想い出
(小学生の頃)

幼き日の記憶はいくつの頃から始まるのだろう。歳を取れば子供の頃がやたらと懐かしく思え、想い出の数々が浮かんでくる。ただそれらは正確ではなく、幾らか美化されているかもしれない。それでも人生の残り時間が少なくなった年代にはひたすら懐かしい。

“老人は想い出に生きる”という言葉があるが、若い頃はあくまで他人事だった。昔を懐かしむのは自分がそれだけ老いた証拠なのだろう。今、古稀を過ぎたという自覚は無くても肉体の衰えは認めざるを得ない。ただ緩慢に忍び寄るものには普段気が付かず、久し振りに旧き友人に会って相手の変化で自分の現実も納得することが多々ある。そして互いに血圧・血糖値を含めた体調の確認が始まる。髪の毛の様子や入れ歯、それに病歴も親しい仲間では話題になる。高齢者は何故か集まると互いに肉体的不具合の確認から話が始まる。私達年代の同窓会ではどこでも見られる同じような風景なのだろう。特に昔を知っている故郷出身の同窓会では、記憶にある互いの子供時代の面影が長い時の経過を教えてくれる。

食べ物を含めて物が無かった時代は今考えればいろいろな思いはあるが、それを当たり前だと思っていたから格別不自由しているという自覚は子供達には無かった。戦後間もなく入学した私達年代には、ランドセルは小学生の必需品では無かった。入学式の写真を見ると、身なりが小奇麗でランドセルを背負っている子供はクラスに数えるほどしか居ない。その一枚の写真には草鞋を履いている子供(同級生)もいる。(当時写真は貴重品で小学一年時の集合写真はこれしか残っていない)

原爆が落ちて僅か2年後の長崎はそういった時代だった。子を思う親の気持ちはいつの時代でも同じだろうが、やれることとやれないことは当時親が決められることではなかった。子供にやってあげたくても物が無かった。家族が生き延びることがその頃の親世代の一番大事な役目だったのだろう。

戦後の急激なインフレで戦前貯めていたお金の価値は下がり、終戦後の食料の買出し資金はもっぱら母親の着物だったと後に聞いた。それさえ原爆で無くしてしまった親も居たに違いない。私が入学した長崎稲佐小学校は爆心地から約1.5キロの地点にあり、校区の地元はかなり悲惨な状態だったことが想定出来る。

それでも子供たちは元気で明るかった。学校給食は入学早々からあったかどうか定かではないが、低学年の頃から食べていた記憶がある。脱脂粉乳を溶かしたミルクは子供心にも決して美味しいものではなかった。給食の肉は必ず鯨だった。それでも食べる物があったことは今思えば幸せと言うしかない。人口の半分以上が亡くなった都市で義務教育が戦後すぐに復活し、学校で食事まで出していたのは考えてみれば驚異だ。他の小学校の事情は知らないが、多分長崎では同じことが行われていたのだろう。コッペパンの原料も脱脂粉乳もアメリカからの援助物資だった。白いパンを食べたのはかなり後だが、それも売り出しの話を聞きつけた近所の人達が大勢並んで買った覚えがある。パンも米も自由に好きなだけ買えるものではなかった。

浦上川が長崎港に流れ込む手前に進駐軍のトラックが定期的に来て、川に残飯を捨てていた。その中に白いパンも混じっていて、待ち構えてそれを拾っていた人も居た。水に濡れたパンを拾う母親世代の近所のおばさんを見て、子供心に何かいたたまれない気がしたのを鮮明に覚えている。我々が白いパンを手にする数年前の話だ。

また、私が通った稲佐小学校は当初の1・2年間は二部授業をやっていた。原爆で被災した城山小学校か他の学校の生徒が、頑丈な鉄筋コンクリート造りのため残った私達の学校を利用していたからだった。

タバコの売り出しの日には家族総出で並んだ覚えがある。喫煙していた父親のためだったが、一人一箱の制限があり、次にいつ入荷になるか分からなかった故の自営手段だった。子供にも売ってくれた。貴重なタバコは闇でも売っていたが、吸殻を集めそれを巻き直して大人は吸っていた。そのための簡単な道具も売っていた。食べ物や嗜好品は闇で調達するしかない時代が短い期間とはいえ数年間はあった。思案橋の電車通りに闇市があった事を記憶しているが、場所は多分間違いないだろう。その通りの屋台で父親に串に刺した焼き鳥風なものを買ってもらって食べ、とても美味しかった覚えがある。何の肉だか定かではなかったものの、闇市で売っている串焼きは犬の肉だという噂も本当か嘘か後に聞いたことがある。ただ鳥や卵は大変貴重な時代だったから、そういう噂が出る根拠になったのだろう。牛肉など身近に全く無かった時代だ。

我々は時代に応じ、環境に応じて生きるしかない。戦後の悲惨な時代が巡ってきた因果関係は子供には理解出来なかったし関心もなかった。と言うより子供は判断する前に適応する。子供に無限の未来が待っているのは先入観なく現実に対応する能力があるからだろう。正確には判断力が備わってなかったのだが、そのため子供は新しいことにわだかまり無く挑戦することが出来る。この特性は何ものにも代え難いと同時に、教育によって幾らでも方向付けすることが出来る。そこに教育の大事さと意味があると言えるだろう。

小学校時代は勉強した憶えはほとんど無い。だが、仲間と徒党を組み遊びまわったことは幾らでも憶えている。まだ学習塾が無かった頃で、後になって習字とか算盤の塾に通っていた子が何人か居ただけだ。遊ぶ為の空き地は近所に幾らでもあり、釘一本や空き缶一つがあればすぐに遊べた。女の子なら紐が一本あれば遊べた。子供は遊びの天才で、その遊びの中から社会性も身に付けた。子供に付き物の争いや諍いは仲間が治め、次の日には何のわだかまりも無く一緒になって又駆け回っていた。いじめがあってもすぐに誰かが口を挟み、最後は仲間のボスが上手く治めてくれた。当時のガキ大将の存在は際立っていた。偏った判断ではガキ大将の役目は果たせなかったし、単に身体が大きくて力があるだけではガキ大将として子供は認めなかった。勿論勉強が出来る事も必要だった。

今の陰湿ないじめは私達の子供時代にはとても考えられないことだ。子供同士の遊びの中から培う社会性は大人が想像する以上の役目があるのではないだろうか。よしんば殴り合いの喧嘩があっても、子供は根に持たない。何度も経験し何度も目撃したが、時が経てばまた仲間として仲良くなれた。この繰り返しが子供を成長させ、自分本位では仲間と上手くやっていけない事を自然と学ぶことが出来る。子供が子供同士で遊ぶのは必要なことで、この経験が無ければ他人との付き合いを上手く続ける事が出来ないかもしれない。子供の社会性は自然な集団生活の中から育まれ、それが全ての基本になったのだろう。“思いやり”や今流行の“絆”は教えられなくても子供は仲間との遊びの中から自ずと学ぶことが出来たと思っている。

この歳になってつくづく実感するのは、当時の仲間とその想い出が貴重な宝物になっていることだ。これは普通に一緒に遊びながら育った子供たちなら誰にでも味わうことが出来るだろう。学校の成績での差は誰も気にしていなかった。勉強の出来る子も出来ない子も何のわだかまりも無く一緒に遊んだ。大人が変な序列さえ付けなければ子供は何の偏見も持たない。朝鮮半島出身の同級生にも誰も特別な意識を持つ子供は居なかった。子供の世界は今考えれば大らかで豊かだった。

この天真爛漫な子供達を見ていたのが威厳に溢れる父親であり教師だった。家庭にも学校にも秩序があり、子供達は少なくとも自分勝手な行動は許されなかった。戦争に負け、原爆が落された長崎は市民の半分以上の人口を無くしていた。食べることにも困ったあの時期にそれでも凛としていた先生方や親たちの佇まいは何だったのだろう。子供だったが故の認識の甘さがあったのかもしれないが、少なくとも父や私の担任の先生は尊敬に値する存在だった。先生には子供の教育を預かる聖職者の使命が今考えれば感じられる。学んだ末に分かることだが、小学校時代の先生が教育に於いて一番大事だと思っている。労働組合員が単に読み書きを技術的に教えるだけでは済まされない使命が小学校の教師にはある。当時の先生方はこの理念を良く心得ておられたのだろう。勉強が出来ても出来なくても先生は子供の事をいつも気にかけていた。それは私たちが卒業してからも同じだった。子供の成長をいつも気にする人がいたから子供は心を開きいつまでも慕ったのだろう。教育の原点を貧しい最中に私達は身を持って長崎で体験することが出来たと思っている。

2012年に世界新三大夜景に認定された長崎は、稲佐山からの眺望が最高ではないだろうか。その稲佐山の麓にある小学校に通い、当時今ほど家が建ってなかった山陰が私達の格好の遊び場だった。いたるところを探検し、時には頂上まで登った。山頂には高射砲の跡がまだ残っていて砲身こそ取り払われていたが、台座の部分は動かせた。先生に引率されて杉の植林に来たのもこの山だった。戦争が終わり武器は取り外され、復興のため稲佐山のなだらかな東側斜面に杉の木を植えた。一連の経験は当時あまり意味が分からなくても少し物心が付けば全てが納得いく時代の動きだった。私たちが過ごした小学生時代は戦争が終わり、まさに長崎が壊滅的破壊から復興に向けて全市民で立ち上がっていた頃なのだ。

過日の東日本大震災後、フランスのテレビが“日本人は消極的でない運命論者だ”と報道していた。あれだけの大災害にも関わらず暴動や略奪が無く秩序正しい日本人の心情を自国民に伝えたもので、強靭な忍耐力と不条理にも負けない国民性を高く評価していた。我々日本人の根底には脈々と伝わっている精神文化があり、私たちは気が付かなくても外部の人間にはその価値が良く分かるのだろう。長崎の復興も私たちが誇りに思っていいことだ。物静かに毅然として困難に立ち向かった親の世代は、隣国に辱められるような愚かな人たちではなかった。

物が溢れ食べ物にも困らないのは誰もが望むとこだろうが、そんな環境で困難に立ち向かう子供達の精神力は果たして養われるのだろうか。大人が決めた皮相的な価値観だけで子供を教え、辻褄合わせみたいな試験で子供を選別するのが教育の本来のあり方だろうか。

現在、至るところで見られる閉塞感は戦後の教育が形骸化した結果のように思えてならない。
一方、廃れずに残っているあらゆる分野での伝統的な職人技は今日では世界的にも評価され、見直されている。科学の世界でもノーベル賞に象徴されるような評価を得た人達が出てきている。彼らは必ずしも偏差値最上位の人たちだけではない。学ぶことの意味と自分が目指す事への使命感が備わっていれば日本人はやれるし、“思いやり”や“絆”は日本人の特性としていつまでも持ち続けられるだろう。ペーパー・テストだけでは計れない人の能力をそろそろ知るべきではないだろうか。

どんな環境でも子供は育ち、才能を持った子供はいずれ世に出てくるだろう。しかし日本が評価されたのは明治維新の頃も一般庶民に至るまでの精神性の高さだった。大震災の後に暴動も略奪も行わない伝統はまだ生きている。壊れかかったとしか思えない昨今の日本を考えると子供の頃からの教育が大事な役目を果すだろう。目先の損得に惑わされない精神の強さを是非鍛えて欲しい。

何の取り得も無い高齢者として人生の幕を降ろす歳になったが、譲れないものを持てたことを密かに誇りに思っている。稲佐山の麓で伸び伸びと仲間と過ごした時や、困難な時代に使命感を持って教育に当たって下さった先生方の教えが私の場合基本になっているようだ。

大して威張れるようなものではないが。


平成25年10月20日

草野章二