しょうちゃんの繰り言


改革の意味するもの
(改革者は兎角批判される)

我々日本人が知っている改革で、歴史上一番新しいのが明治維新ではないだろうか。改革とは制度として、その時代に合わなくなったものを新しい仕組みに変えることで、通常摩擦を伴う。徳川幕府が江戸城を明け渡したのは後世無血革命と呼ばれたが、こういった例は世界的に見ても稀有な事だ。

国民の不満は常に存在し、それが鬱積し爆発して新しい社会制度に代わったものが革命と呼ばれている。普通、武力を行使し血を流した犠牲を伴うことが多い。こういった革命は国民がそこそこ満足していて平和裏に生活出来る国では起き難い。国や国民が豊な時代には革命はなかなか起きないものだ。不満が少なく変える理由が無いからだ。日本で共産党や社会党が経済の成長と共に衰退していった原因は、彼らの国民に対するプレゼンスの拙さと共に社会が彼らの主張を認める必要性を感じなかったからだろう。

今、日本で話題になっている大阪の橋下市長は「日本維新の会」を立ち上げ、自分が代表に就いた。彼が脚光を浴びている主な理由は、不況と莫大な財政赤字に対する国民の不満と不安が爆発寸前まで高まっているせいだろう。民間より50%も高い公務員の給料、彼らの恵まれた年金、一部とは言え天下りで何時までも血税にたかる官僚、こういった姿が国民の怨嗟の念を高めると同時に反感も買っている。組織自体が時代に合わなくなっているのに誰も本格的に取り組もうとしなかった時、しがらみの無い男が国民の不満の種を次々とあぶり出し、的確な言葉で訴えれば喝采を浴びるのは当然である。どこまで改革が出来るかは別の問題で、3年前民主党に対する国民の期待と選択も長く淀んだ自民党政権に嫌気が差していたからだ。

几帳面な日本人が作り上げた社会の制度は個々にその必然性があったとしても、出来上がったものに国民は不満をつのらせている。

たかだか車の免許を取るのに何故20万円以上の出費と数ヶ月に及ぶ時間が掛かるのか今まで誰も問題にしてこなかったが、かつてのベルギーには免許制度も無く、車を買えば自動的に運転が出来た。アメリカでは西海岸の州では高校生に学校で免許を取らせ、そのコストは10ドル、15ドルだ。翻って日本では教習所で学科と称して運転練習以外に30時間の受講の義務を負わせている。結果として日本の車による事故率が世界でも圧倒的に低く、なおかつ運転マナーが格段によければ誰も文句は言わないだろう。現実はどうだろうか。

こういった指摘を受けると国民はすぐに反応するだろう。

橋下氏が訴えているのは、こういった不合理なことが制度として確立され、それによって国民が多かれ少なかれ犠牲になり、余計なコストを払わせられているからだ。

特に巨大化した組合と称する組織は理念に聞くべきものはあったにせよ、現実は自分たちの負担を軽くする為のあらゆる方策を講じて馬鹿げたことを実現させている。かつての社会保険庁ではパソコンのキーを叩く回数を一日5,000タッチと決めていた。民間のベテランだと5,000タッチは一時間以内で収まる作業らしい。それでも労働過重を口実に厚生省から天下りで来ていたトップに組合はこういった常識外の取り決めを数多く認めさせていた。

かつて三多摩のある市長選挙で、職員の定時(午前9時)出勤を訴えて当選した市長が居た。その市では東京の交通事情を考慮して15分までの遅れは遅刻としない取り決めが組合となされていた。さらに組合との長い慣習として15分の遅れは遅刻扱いにされていなかった。その結果何と最大30分の遅れまでは遅刻にならない制度が確立されていたのである。

選挙期間中のある日、市庁舎正面に据えられたテレビカメラが夕方5時の時計を写し、次にその真下の出口から待ってましたとばかり飛び出す職員の姿を捉えていた。5時丁度に飛び出すには4時半頃から帰る準備をしていなければ出来ない業だろう。彼らは特別変った人達ではなく、そこの環境に同化した人達に過ぎない。我々誰しもが持っている性向でもある。細かい例を挙げて言えばこういった世間では通用しないことを組合の力で獲得し、制度化したことに問題がある。

橋下氏が提起しているのは府知事以前、又それ以降に経験した大阪府、大阪市、国に対する矛盾や不合理なものに対する問題意識で、しがらみの無い目で見ればおかしなことは沢山ある。

時代と共に役目を終えたものや、既得権で過剰に守られたものを正そうとするのは当たり前で、それが出来ないのはそういった組織から票を得ている党や議員が居るからだ。

いつの時代でも変革を行えるのは既得権に関係の無いしがらみの無い人達だ。明治維新に活躍した人達は殆ど下級武士で、本気で変えようと思えば既得権に関係の無い人達に頼むしかない。

したがって橋下市長が今企てているのはその変化を起こすことであり、その成否は彼に掛かっているのではなく、国民の意識に掛かっている。現在の彼を見て論評するのは自由だが、彼一人に成果を含めて任せ、それが出来そうでない事を挙げ連ねて批判するのはお門違いであろう。なんと言ったってまだ40台の未熟な青年なのだから彼の方向性と発信力に期待して手を貸すのが大人の判断ではないだろうか。細かい言動や、女の問題で揚げ足をとっても意味が無い。フランスでは大統領の女性問題でさえ、大人は不問にしている。

政治家が聖人君子である筈がないし、そんな人は極論すれば居ない。

お笑い番組出身だとか、大阪府での予算カットに細かく異議を唱え正論で攻撃する人も居るが、それでは今までのやり方を認め現状維持の方が府民にも国民にも良いのだろうか。

閉塞状態の社会を変えるには彼の発信力が必要だし、細かい点は軌道修正すればいい。

本質を掴み、問題提起するのは部外者には出来ても当事者には出来ないことがある。しがらみや利権が絡み合っているからだ。特に団体の支持を受けている議員は動こうにも動けないことがある。問題になる事を覚悟で発言すれば、宗教界に対する課税問題もその良い例だろう。

新しい物を作り上げるには旧い物を壊さなければならない。旧いものには長い年月で垢が溜まり、陳腐化したものが沢山ある。大きく変えるためにはまずタブーを無くし、新しい枠組みを作ることだ。そのエネルギーが既存の政党や議員に無かった為、橋下氏に国民の期待が高まっているのである。

第一次大戦で敗戦し天文学的賠償金を課せられていたドイツで、ヒットラーはドイツ国民に対して賠償金は払わないと宣言して国民から熱狂的支持を得た。これが後の彼の独裁政治へと繋がって行った。

橋下氏とヒットラーを並べて論評する人がいるがこれは筋違いではなかろうか。

橋下氏は大阪府や大阪市に内在する淀みや、国の係わりに関する矛盾・非合理性を指摘して新しい枠組みの構築を国民に訴えているだけで何らおかしな点は無い。

深読みも浅読みも全く必要ない。これだけの分析が出来、明確な言葉で問題指摘が出来るのは彼の才能である。母親から多額の小遣いを貰って能天気な事を言っている人や、その金に群がる取り巻き達よりよっぽど頼もしい。

老人から見れば急ぐあまり暴走し自爆することのみが心配の種である。それが憂慮に終わることを望んでいる。

平成24年9月

草野章二