しょうちゃんの繰り言


松下さんは(たらい)職人のことを考えたのかしら
(得るものあらば失くすものあり)

松下幸之助さんは日本では経営の神様と称され、今流行(はやり)の松下政経塾の創始者でもある。彼の偉業を知らない日本人は居ないかと思うほどの人物で、あらゆる方面に影響を与えた人である。

その偉大な人でも彼が電気洗濯機を売り出した時、彼の頭に盥職人や洗濯板職人のことはあったのだろうか。又、電気掃除機を売り出した時にも、(ほうき)職人や、ちりとり・はたき製作者のことは頭にあったのだろうか。

洗濯機や掃除機は家庭の主婦から歓迎され、特につらい冬場、手洗いによる従来の洗濯労働から主婦を解放してくれた。主婦にとっては正に神様だが、盥・箒・ちりとり・はたき等の製作に携わっていた人達にとっては、あの偉大な松下さんも単なる天敵ではなかったのだろうか。

同じ様に下駄や草履つくりの職人、もっと前の時代には人力車や駕籠屋も時代の波にかき消されていった。子供時代の冬の必需品であった足袋、それに火鉢も無くなった。電気の普及で出番の少なくなったローソクやランプ製作を家業としていた家族はどうしたのだろう。そう言えばかつては必需品であった、かまどやお釜も一般家庭からはとっくに消えている。

人は便利なものに飛びつき、今まで世話になった物を何の躊躇も感傷も無く捨て去ることが出来る。それは又、私達が今や前の時代に戻れないことも意味する。夏の冷房や洋式水洗トイレを、どうしても手放せない日本人が今では大多数を占めているものと思われる。

こういった生活様式の変化は科学技術の発達と密接に結びつき、今日では外国に居住する子供や孫とパソコンを通じて顔を見ながら簡単で安価に会話することも出来るようになった。

これからも科学技術の発達で人間の生活様式は大いに変化を遂げることだろう。エデンの園で禁断のリンゴを食べた時から、人類はもう元のエデンの園には戻れなくなっている。

ただ我々現代の日本人が受けている生活上の恩典は世界人類共通のものではない。経済力という現代の万能尺度が働いていて、日本並みの生活を送るには日本並みの経済力が必要とされる。一方、現実には毎日の飲み水や生活の糧に充分ありつけない人達の住んでいる国が世界には幾らでもある。我々が今の生活を善しとするなら、日本に生まれた幸せを神に感謝しなければならないだろう。

忘れていけないのは、我々が享受している豊かな生活は実は莫大なエネルギー資源を消費しているという事実だ。それに食料も日本では食べられるものを無駄に廃棄している現実が最近社会問題になってきている。

一国の経済力はその国の人間の物欲を満たす意味では大いに貢献しているが、それは人類全体に貢献しているとは限らない。一人の子供を育てるのに日本を含めた先進国では、途上国の20倍のエネルギーを使っているという数字がかつて出ていた。人口問題は単に生まれる子供の数が問題ではなく、その消費するエネルギーにあるのだという途上国の主張はうなずける面がある。

経済の勝者のみが豊な生活が約束され、他は貧困に甘んじなければいけないのだろうか。人は見える範囲なら感情の導入も出来るが、見えないと自分の問題として受け取る人はあまりいない。アジアやアフリカでの貧困を、普段我々は切実な問題として直接経験することはない。残念ながらこれが人間の限界だろう。偉大な松下さんも、自分が作り出した文明の利器で追い出された人達に同情の念を持つことは恐らく無かったことだろう。

生きるということが経済という物差しを使うことによって、実は人類にすさまじい競争をもたらし、個人・会社・国単位の利益というエゴを徹底的に追及するようになってきている。

遺伝子のエゴまで遡らなくとも、元々生物は人間も含めてエゴの塊のようなものであろう。他より自分というのが原則で、自分の利益を最優先する。好物の羊羹を母親から切って貰った時、幼い兄弟は必ずその大きさが平等かどうか確認する。動物の世界では力のある者が最初に獲物を食べる。これはエゴというより動物の習性かもしれない。この厄介な習性を生れ付き備えている人間という動物が、人類全体で調和して生きるという事は本来不可能なのだろう。

しかし経済競争の勝者だけで地球の資源を独占することが、はたして許されることなのだろうか。文明の利器の発達で自分の職を失くしたとしても、まだその人達は他の生きる道を模索することが出来る。時代にそぐわないものは残念ながら淘汰される運命にあり、多数の利益の下に消え去るしか方法がない。だが限られた地球の資源は本来人類共通の財産である筈だ。その資源がいずれ無くなる物と分かっていても。

日本は開国するまで当然ながら自給自足の国だった。そこに生きた人達は現代の便利さを知らないが、大きな自然のサイクルに順応して正にエコ社会を生きていたことは我々も知っている。どちらが幸せかという課題は人類永遠のテーマだろうが、単純に決め付けられないところにこの問題の難しさがある。

クーラーも水洗トイレも要求する我々が、“たかが電気”(New Yorkに在住する著名な日本人音楽家で原子力発電反対の先頭に立ち発した言葉)という単純な決め付けで総括出来ることなのだろうか。飛行機は落ちることもあり、車は人身事故を繰り返している。それでも我々は原子力発電問題でゼロ・リスクを主張する人も含め飛行機も車も全面否定しない。

又、電気が無ければ高層のアパートに住むことも出来ないし、米を炊くことも出来ない。

現代人にとって電気とは人間に例えれば全身に張り巡らされている血管であり神経である。今、その発電の源となるものが問われている。石油・石炭・天然ガス・水力・風力・太陽光・原子力と我々には多くの選択肢がある。それぞれに特性があり、現実的な安定供給にはそれらの組み合わせしかない。どれを採っても最終的にはコストとリスクという壁が待ち受けている。結論じみたことを言うと、リスクを含めた全体のバランスの中で選ぶしかない。何かを得れば何かを失くすのが、科学技術に頼った人類に神の与えた試練とも言えよう。

悲観的な見方をすれば、“禁断のリンゴ”を食べた時から人間はもう楽園から追放され、便利さを求めて食べたリンゴの数だけ代償を払わされている。

湯川英樹博士が“人類は破滅に向かって進んでいる。自分たちに出来るのはその速度を緩めることだ”と生前語っていた。

軍事力や経済力を基盤とした尺度では実は本質的に何も解決しない。これらを使った手法は目の前の問題を取敢えず片付けただけで、普遍的な価値を持つ人類共存を目的とした解決法ではない。そこには、どんなに正当性を並べてみても自国の利害という、エゴ丸出しのスタンスが見て取れる。

この紛争の種を温存して世界平和をいくら唱えても解決する筈がない。物差しを経済や軍事力から哲学・形而上学的価値観へと転換しない限り我々人類は争いから逃れることは出来ない。

ただ、残念ながら人間はそんなに高等に出来上がった動物でもなさそうだ。若しかしたら得る為の争いはエデンの園を追放された人間に、神が与えた罰(代償)なのだろう。何かを得れば必ず失くすものが出てきてバランスを取ってくれている。


平成24年11月9日

草野章二


編集人注 : 読者のみなさん、章ちゃんの視点は一般の凡人とは違うと思いませんか。ものの考え方は哲学者の数だけあることでしょうが、章ちゃんは実に優しい心を持っている。それから、章ちゃんのジャズボーカルも優しいのです。

昔々、昭和20年代に青山一丁目の角から2軒目にたらいや風呂桶を作る桶職人がいて、毎日毎日ヒノキの板を丸鉋で削り、たらいや風呂桶を組み立てていた。歩道に面したお店が作業場になっていて、毎日、小学校の帰りに眺めていた。名人技だと思った。

たらいは円形だから曲率が一定でシンプルなのだが、小判型の風呂桶は連続的に曲率が変わる。これを何種類かの鉋で削っていく。我が家の風呂場に行って確かめて来た。風呂で使う手桶などはすべて安っぽいプラスチックで風情も何もない。ヒノキの桶を使っている人がいたら大拍手ものだ。

いつ頃、あのお店は無くなったのだろう。(わかやま・11/10)