しょうちゃんの繰り言


様々な嘘

“子供は正直で嘘をつかない”という広く認知された社会通念が我が国にはあるが、自分の子供時代や孫の様子から、これが子供に対する正しい認識だとは思えない。子供には嘘をつく意識は無くても自分を守るために事実と違った事を言うことがある。大人から見るとすぐ判るからあまり問題にならないが、厳密な意味ではこれは嘘と言うしかない。

言葉を覚え、それが使えるようになると嘘に類するものは子供の口から自然に出て来る。例の口の悪い友人は“俺なんかしょっちゅう嘘をついている。事実だけだと人を傷つけるからだ。馬鹿な奴にお前は馬鹿だと正直に伝えると日本中敵に廻さなければならない。”と笑っていた。“俺が嘘をつくのは相手を傷つけないためだ。”と彼らしくないコメントが続いた。前にも言及したが彼の発言に“人は誰でも主役になれるチャンスが人生に三度ある。生まれたと時と結婚した時、それに死んだ時。”というのがあった。考えてみれば誰かが、そのどれかの主役の時には褒めるしかない。事実や本心と違った事を言うのを「嘘」と定義すれば成る程、我々は結婚式や葬式のみならず年中嘘をついている事になる。営業の仕事をやっていれば自分を殺して不愉快な相手に話を合わせ、笑顔で送った後“あの野郎!”と思ったことは誰しも経験があるだろう。

他人の子供を褒める時も嘘が少し必要になる。考えて見れば褒め言葉そのものに殆どの場合嘘が含まれている。従って古くから言われている“嘘も方便”は世渡りする上での至言かもしれない。

自分を守る為と人を傷つけない為の小さな嘘は“方便”として集団生活上の許容範囲だとすれば、明らかな意図を持った確信的な嘘はこの範囲を超えて大きなトラブルの原因となる。しかもこれが国と国の話になれば重大な紛争の原因になる。自分の敷地内で強面風なのが居丈高に“確信的利益”と訳の分からない事を叫んで所有権を主張し始めたら、まともな対応として裁判所の判断に委ねるしかないだろう。また、主張する方は何故それが自分のものなのかを根拠と証拠を示して分かり易く説明しなければ単なる強奪としか見なされない。自分の代には登記もされていて正当に相続しているのに、“昔ここは我が家の土地だった。”と柄の悪い他人から幾ら大きい声で喚かれても、こんなことが罷り通る筈がない。個人の間でも、国の間でもこの理屈は何ら変りはない。

“嘘も100回繰り返せば真実になるという言葉があるが、事実ではない事を国民に吹き込み、長い時間を掛けてそれを真実だと国ぐるみで洗脳・画策している政府がある。残念ながら彼らとの共通の言語は存在しない。共和国でありながら世襲して三代目の若造が仕切っている国とも我々の言葉が通じない。”

友人も時としてまともな事を言うことがある。彼の説明では「共通する言葉」が鍵になっているが、互いに話している言葉が自分勝手な解釈の場合相手に通じる筈はない。個人レベルでも勝手な理屈で顰蹙を買う御仁は幾らでもいるが、国際レベルで21世紀の今日、同じことが罷り通るというのは信じられない。しかし、厄介なことにこれは我々が直面している現実なのだ。

“相手がどんな国内事情を抱えていたにせよ、「大人の対応」と言って無作法と民度の低さを露にしてくるのを我が国がそのままにしておくと連中は図に乗るだけだ。それを助長してきた政治家や日本のマスコミにも大いに責任がある。”

確かに彼の言う通りで、毅然としてこなかった政治家も責任重大だ。近所の揉め事を仲裁するならいざ知らず、国レベルの事柄には譲れない事には、はっきりものを言わなければならない。それが言えない政治家はその職に留まってはならない。小さな嘘から始まったものが国際問題になり、それが事実として認知されることが往々にしてある。当事者以外は冷淡で、世間(世界)はどうしても声の大きい方になびく傾向がある。

ジョナサン・スィフト作の「ガリバー旅行記」でガリバーはフイヌム(Houyhnhnms)の国を訪れたが、その国の主人公である馬の姿をした住人には「嘘」という言葉が無かった。下等ですぐに争う凶暴な人間の姿をした生物「ヤフー(Yahoo)」がその国に存在する為ガリバーもその仲間だと最初は思われていた。ヤフーの姿をしたガリバーが言葉を理解し知性を備えていることが彼らには理解出来ず、ガリバーの説明は「間違い」若しくは「あり得ない」となかなか納得して貰えない。彼らには「嘘」という言葉が無かったためそういう表現で対応したのだった。スィフトの人間に対する強烈な風刺をこの一節でも読み取ることが出来る。(拙文「毛のない猿」参照)

「確信的利益」という他からは理解不可能な言葉を国際社会で堂々と主張する様はまさに次元の違う安物の劇画の世界と言うしかない。「間違い」や「あり得ない」事を臆面もなく主張するのは人間の世界で言えば「嘘」を臆面も無く主張することと同じで、知性や理性で対応する範疇を外れている。三代目の国も同じで、何を根拠に発言しているのか理解するのは不可能だ。その隣でも「あり得なかった」事を根拠に国際社会で我が国を非難している。たた、厄介なことに、そんなことにでも組するマスコミが我が国に存在することだ。戦時中の言葉で表現すれば彼らは「売国奴」となるのだろうが、自分達の事を「リベラル」とでも認識しているようだ。これではフイヌムの国では馬の姿をした住人にヤフーの檻に入れられてしまうだろう。もっとも現在Yahooが世界を席巻している事を考えればスィフトの300年前の小説は現代を予知していたのかもしれない。我々は人間だと思っているが本当はとっくにヤフーになっているのだろう。

生物として自分を守るのは最優先されて当たり前だが、度を過ぎればトラブルの原因になる。そこに損・得の物差しが加わるとその争いはエスカレートされる。遺産相続を巡る骨肉の争いはその典型的な例だ。亡くなった親は子供達の争いは望まないだろうが、金が絡むと親の思惑は全く関係なくバトルが展開される。虚・実入り交ざったそれぞれの主張がなされ、金額が多いほどこの争いは熾烈になる。しかし、貧乏人はこの争いからは無縁で、兄弟仲良く暮らせるという特典を持ち続けられる。

個人でも大きな組織でも、自分の分け前を増やそうとするから他との軋轢が生じ、時として訳の分からないことを主張し始める。これは解決出来る事なのか、人類の永遠の課題として未来永劫に背負わなければならない重荷なのか。政治の方向性には理念が必要だが、現実的解決法としては理念から程遠いとこで手打ちがなされる。21世紀になっても国家レベルで嘘を平気で主張し、力で解決しなければならないとすれば、人類はダーウィンの進化論ではなく、スィフトとのヤフーのラインを歩いているようだ。

孫たちを再教育しても今から間に合うだろうか。ただ、近隣の国では嘘で固めた歴史で反日を教えているらしいからあまり望みはなさそうだ。水は高いところから低いところにしか流れないのだろう。

平成25年5月10日

草野章二