しょうちゃんの繰り言


指導者の資質

かつて我が国の内閣でも非常に短命に終わった総理が何人も居た。病気で倒れた石橋湛山を除けば、むべなるかなと言う顔ぶれだった。分かりきった事だが指導者にはそれなりの資質が必要で、短命内閣だった彼らは気の毒だがその地位に相応しくなかったと断罪する他ない。一国の指導者に選ばれるという意味を考えれば厳しく査定されても仕様が無い立場だと言えよう。町内会の順送り会長とは訳が違う。

日銀の総裁も一般庶民には縁の無い存在だが、中央銀行の総裁ともなればそれなりの見識と立ち振る舞いが要求されるだろう。“この人が何故?”という問題のある人選では、商社の社長を経て古巣の日銀に戻って総裁になったケースがある。彼は元同僚のその商社の役員から名指しで“相応しくない”と糾弾されていた。主張の理由は、その商社の経営においてトップとして“全く無能で、むしろその会社をおかしくした”ということだった。

次にやはり出戻りで総裁になった人物は、親しくしていた投資ファンドの会社に2,000万円からの金を預けて運用して貰っていたことが赴任後発覚した。後に“利益が出た分は寄付する”と言っていたが、一般の常識であれば日銀総裁に任命された時点で手を引いておくべきだったろう。もっと言えば、専門の金融で不労所得を漁るような人物は中央銀行の総裁になるべきではない。彼は大蔵省も日銀も試験に受かった挙句、“修羅場の少ない日銀を選んだ”と、どこかで本人が語っていた。お勉強の出来た秀才だと推測出来るが、中央銀行のリーダーとしての志と資質は皆無だったと、これも同じ様に推測出来る。記憶によればこのお二人とも、本目が時の野党の強力な反対に会い棚ボタ人事だったと思うが確かではない。そういえば今の総裁は副総裁として決まっていたのが棚ボタで昇格した。

政党の党首にもそれなりの見識と品性は求められてしかるべきだと普通の人なら思うだろう。しかし国民から見ても疑問だらけの人物が最近その任に就いた。

かつて経済評論家としてテレビで顔を売っていた1989年暮、彼は“翌年の納会までには株価は日経平均45,000円まで騰がる”と予想して煽っていた。ちなみに、その年の終値日経平均株価は38,000円台で、翌年は彼の予想に反し株は大暴落した。

つい最近の経済ニュースではその彼が牧場経営の出資金に絡み、“元本保証”、“有利な投資”と20年程前、提灯記事を書き、被害を受けた出資者から告訴される騒ぎになっている。

経済評論家としてテレビやマスコミに出ていた当時、彼の当たらない予想で翻弄された視聴者は多かったに違いない。懲りない男はどの世界にも居るものだが、党首となれば話は全く別だ。

小選挙区では落ちたが、比例で復活当選した彼を何故党首に選ばなければならなかったのか不思議だ。冷静に見ていれば何故政治家を目指したのかも理解に苦しむ。株価の予想が当たらなかった場合、その発言がテレビで紹介されたのなら視聴者にきちんとした総括を行うべきだろう。またこの程度の人物を国会議員として選んだ国民もある意味同罪と言える。とかくテレビ上がりの政治家には外れが多いように感じるのは私だけだろうか。

彼が今度代表になった党が一時期与党になって分かったことは、人材が全くと言って良いほどその党には居なかったことだ。選球眼の甘かった国民の選択の過ち、その結果政治家としての資質が欠如していた集団が選ばれたと非難されても文句が言えないだろう。政権を担った3年余の混乱を考えれば選んだ国民がその手で見放したのも当然と言える。

民主主義は効率が悪く、コストの掛かる政治形態だと前にも書いたが、自分の所属する団体の利益代弁者が政治の中心に居るようでは碌な政治は期待出来ない。

自分の事と同じ様に他人のことも考えられることが大事だ。“まず、自分ありき”という発想に全ての問題の根があるように思える。組合の力をバックに勝ち取ったとされる権益が世間の常識からかけ離れていてもわれ関せずといった態度に唖然としたが、それが1日パソコンのキー操作5,000タッチ以内の組合との規定に代表されるような例だった。三多摩の或る市で、朝の出勤時間が30分遅れでも遅刻としなかったのも組合の力だった。(これらの問題は拙文「改革の意味するもの」の中で指摘してあります)

日常の仕事や生活の中でも“他を慮る”という精神が希薄になり、国民が権利意識だけに捉われるとバランスの取れた社会の構築は無理だろう。我が国のように宗教に無関心な国民が多い国では何を拠り所に他との関わりを自分に納得させればいいか、今一度考えてみる時ではないだろうか。

孔子・老子・孟子の教えは本場では今や流行らないらしい。儒教の教えも韓国では残っているものの、中国や日本では廃れているようだ。人間の知恵には長い歴史の教訓が多数含まれている。浅はかで勝手な人間が幾らかでも進化しようとするなら、過去の賢人達の言い分や教えを思い返してみてはどうだろう。限られた個人の浅知恵で判断するよりはるかに価値あるものが見出せる筈だ。

物差しの単位を経済(金)に代えて以来、人間は残念ながらエゴ丸出しの品位の欠片も無い動物に変質してしまった。経済最優先のアメリカでは近年その象徴的な聖地(?)ウォール街で定期的にデモ行進が行われている。彼らも自分の国で確立した経済至上主義のグローバル・スタンダードに限界を感じているからだろう。

本来なら指導的立場にある人達は、自分の損得を判断の最上位においてはいけない。それが出来なければその位置に留まる事はむしろ長い目で見て有害でもある。

子供の頃は想像も出来なかったような生活を今我々は当たり前のようにおくっている。冷蔵庫・洗濯機・テレビ・クーラー・自動車・携帯電話・パソコン等々挙げていけば限が無いほど文明の利器の中で暮らしている。日本ではこういったものは一部特権階級の持ち物ではなく、ごく一般の国民が普通に所持している。

こういった物の普及と生活レベルの向上に私達の親の世代は頑張ってきて、我々も貢献してきた。今の日本では飢死する人は居ないし、若者も選り好みさえ少なくすれば、働く場はまだある。

その上、日本では政治権力者をどんな酷い言葉で非難・罵倒しても名誉毀損にならない限り罰されることもない。国民の私有財産は100%以上保護されているし、国内に宗教問題上の深刻な対立と紛争もない。豊な生活と開放された民主的な政治の仕組みも出来上がっている。

今考えることはこの我々が成し遂げた社会の今後の方向性を模索することだ。生きるための基本的なインフラは既に完成していて、終戦直後には想像も出来ないような生活を実現した。壊滅的に破壊された社会からの復興は世界の注目を浴びたものだ。“日本を見習え”と言われていたのはつい20年ほど前のことである。

幾ら過剰流動性の行き場探しとは言え、不労所得の飽くなき追及は健全な社会生活の営みには馴染まないし、むしろ不健康でさえある。

日本発の新しい価値観と社会秩序を出す位の意気込みで模索すれば新たな局面が見えてくるかもしれない。今我々に必要なのはこういった指針を描ける指導者ではないだろうか。

成熟した国家で、自分や所属する団体のうまみを漁るだけのような小賢しいリーダーはもう必要ない。

幸せを感じられない社会は、幾ら物が溢れていても人は安心しておれないだろう。日本に生まれて良かったと言える国家を我々が生きている内に何とか構築したいものだ。

目先の利益のみに捉われていてはごね得や不労所得で資産を形成した輩と何ら変らない。その範を示せるリーダーが各界に出現することを心から願いたい。


平成25年1月24日

草野章二