しょうちゃんの繰り言


笑いの陰に

動物で笑うのは人間だけだと聞いた事がある。類人猿や馬の顔に時として笑いの表情を見る思いをする事があるが、彼らは笑わないのだろうか。人によっては犬にも笑いを見たという例さえある。昔読んだフランスの哲学者ベルグソン(Henri Bergson)の「笑いについて」によれば、記憶が正しいとして、笑いは人間的なものにしか存在しないと定義していたようだ。さらに連続した動作が突然本人の意志に反して中断した時、笑いが生まれるとも書いてあったと憶えている。ブルドッグを見て笑うのは、そこに似た人間を連想したからだろう。逆に、笑うのはブルドッグに似た人間を見た時だと言った方がいいのかもしれない。気取って歩いている高慢な貴婦人がバナナの皮で滑るのも笑いになるのだろう。他にも幾つか彼流の定義があったが、この二つしか記憶に残っていない。ただ、人間的なものにしか存在しないという笑いは、本当は我々人間にとって大事なものかもしれないし、笑いには何かを教えてくれるものがありそうだ。

巷に流布されている笑いの陰には思わず膝を叩くような可笑しさを感じる事がある。そしてそこには人そのもの、それに国民性や国情を良く言い表している笑いもあるようだ。

旧ソ連時代:−
・ 朝8時始まりの工場に7時半に出勤した男はスパイ罪で逮捕。

・ 8時半に出勤した男はサボタージュの罪で逮捕。

・ 8時丁度に出勤した男は、正確な時間に出社した理由を問われ「セイコーの時計を持っているから」と答えたら密輸罪でこれも逮捕された。

・ 一度前にも披露したが;クレムリン宮殿を案内するフルシチョフに、母親が怯えた声で訴えた。

 「二キタ、赤軍派が来る前に早く逃げ出そう」

・ 米・ソ冷戦時代に、ソ連はアメリカから男性用のゴム製品を輸入した。

 その際、アメリカは特大サイズにロシア語で「小型」と書いて発送した。

 その後ソ連からの追加注文書には、ゆるゆるだったにも関わらず「次は、特大サイズを頼む」と書いてあった。

アメリカ人とイタリア人:−
・ ローマを観光旅行に訪れていたアメリカ人夫妻は、イタリア人ガイドの説明に自国の機械文明を自慢し、10年、20年の時と多数の人手を掛けて創った遺跡の数々に対して「アメリカなら一週間もあれば完成出来る」と、ガイドをその都度からかっていた。

・ ガイドがローマの有名なコロシアムの前を黙って通り過ぎた時、アメリカ人夫妻が「この遺跡は建てるのに何年掛ったのだい?」と問うと、ガイドは「旦那方を今朝迎えに行く時には、そこはまだ原っぱだったのですがね」

英国紳士のやり取り:−
・ 劇作家のバーナード・ショウが新作の上演にあたり、ウィンストン・チャーチルに送った招待状には、「新作上演の初日に閣下のご臨席を仰げれば光栄です。どうぞご友人もお連れ下さい。もし、いらっしゃれば」と書いてあった。

・ この招待状に出したチャーチルの返事は「ご招待有難う。残念ながら初日には所用があって伺えません。友人と共に二日目には伺えます。もし、まだやっていれば」
 (*劇が不評の場合、途中で打ち切られる事があった)

アメリカ男性とイタリア美人:−
・ 金持ちのアメリカ人プレイボーイがイタリア美人に一目惚れしてプロポーズしたが、イタリア美人は承諾するのに三つの条件を出した。

 「宝石箱一杯の宝石と最新イタリアの高級スポーツ・カーのプレゼント。それに12インチの物を持っている事」

しばらくしてプレイボーイが宝石とスポーツ・カーと共に彼女を訪れて言った。

 「12インチにカット出来るか医者と相談中なので、少し待ってくれ」

ヨーロッパのオウム:−
・ ペット・ショップのオーナーが訪れた貴婦人に「このオウムの右足の紐を引くと聖書の言葉を話します。左足の紐を引くと上品な言葉で挨拶します」と説明した。貴婦人が「両方の紐を引くと、どんな事を話すのでしょう?」と聞くと、オウムが答えた。

 「馬鹿野郎、俺がひっくり返るじゃねえか!」

ヨーロッパで使われる言葉:−
・ フランス語、恋人と話す時
・ イタリア語、ナンパする時
・ スペイン語、神と話す時
・ ドイツ語、馬と話す時

国に少ない人:−
・ アメリカには哲学者
・ 中国には共産主義者
・ 韓国には歴史学者
・ 日本には愛国者

イギリス紳士の条件は自分を笑い物に出来る度量を備えていることだという。国会での野次が日本とレベルが違うのはそういう文化と伝統のせいだろう。

かつて、自由党の三木武吉氏は選挙の立会演説会で対立候補から「妾が4人も居る人間に国政は任されない」と非難されたが、「妾は5人居る。5を4と間違えるような恥ずべき計算間違いは小学生でもやらぬ」と答えている。つい数十年前までは日本にも腹の据わった政治家が居た。もっとも、背景として男女の事をあまり煩く言わなかった時代でもあったが。

豊かな喜怒哀楽の感情は人間にのみ許された特権かもしれない。ただ、怒りの感情だけは犬にも猿にもあり、雌をめぐる雄の闘いを見ていると魚にもあるようだ。また、施設で育った幼児はケアが少ないと無口で無表情になり、笑顔が見られないという。

人には悲しみでさえ生きがいになると唱えた先人もいる。確かに大きい悲しみは人を深く考える人間にする事が多い。人生の儚さや不条理は人に、より考える要素を提供してくれる事がある。恵まれた一生は誰でも望むことだろうが、何不自由無い人生は人を豊かに育てない事もある。挫折や痛みを知らない人間は往々にして不遜に成りがちなのも事実だ。何故なら彼らは人生の深さを実感出来ないまま時を過ごして来たからだ。

人は必ずと言っていいほど他と対立する。根本原因は利害だろうが、他にも生き方とか主義主張の違いもある。宗教上の対立も長く人類の争いの種になっている。実はこの対立が人類を人間らしくしてくれる要素だし、人生を豊かにしてくれる源泉でもある。ただ、困った事に大きな紛争の元になるのも又避けられない。どんな事であれ、自分と対立する相手をより大きな声で黙らそうとしても決して旨くいかない。そんな時、相手を罵倒したり嘲笑したりするだけでなく、自分を含めて笑いものにする心の余裕を持てれば局面は変わるのではないだろうか。

敵対する相手を力でねじ伏せる方法は誰でも考えるし、多くの場合この法則が人間界を支配している。国レベルでも個人レベルでも事情は変わらない。経済力は力の源泉で、金を支配している人が世の中も支配している。家庭でも同じだろう。経済力の無くなった夫はたちまち影響力と支配力を失ってしまう。これは私の拙い経験からも言える。

かつてピグミー・チンパンジーと呼ばれていたボノボは人と同じく霊長類に属し、人間に一番近い類人猿だとされている。彼らは争いを避けるため、生殖を伴わない性行動をとる事でも有名だ。平和を愛する種としても他の類人猿とは際立った違いがあるという。人間に限りなく近い種だが、人間を初め他の霊長類に見られる暴力沙汰は殆ど無いそうだ。

紀元前四世紀にギリシャの喜劇作家アリストファネスは「女の平和」という劇で、アテネとスパルタとの戦いに終止符を打つため、両都市の女性が話し合ってセックス・ストライキを企てる話を書いた。結果として男どもの争いを女性が平和的に解決するストーリだが、これにも人間の根源的な笑いの要素が含まれている。2500年の時を経ても、なおこの物語が語り継がれているのは、この喜劇があまりにも人間臭いからだろう。或いはボノボ臭いと言った方がいいのかもしれない。

我々人類は笑いを知る動物だと互いが認識すれば、ボノボやアテネ・スパルタの女性から学ぶことがありそうだ。結論に喜劇並みの飛躍があるのは充分承知の上だが、経済に支配されて大富豪やホームレスが共存する世界の話よりましではなかろうか。上半身で解決出来ない事は下半身に相談するのも一案だろう。少なくとも史実に無い事でも敵性国を創り上げ国民に間違った教育をする上半身の判断より、ましな結論が出ると思うが隣国の指導者の皆さん如何でしょう。

ばかばかしいことは笑い飛ばす余裕をお互いに持てば、個人も国もそんなにむきになる事は無いような気がしてきた。人は拘るゆえに人とも言えるが、相手を抹殺するような敵対意識を持つ必要があるのか、一度ボノボや女性達とよく相談してみる価値がありそうだ。自然に根をおろしている生き物は男の浅知恵では叶わないものを持っているに違いない。生物学的には男性は女性の附属物と教えてくれた医者に感謝しなければいけないようだ。そこに早く気が付けば、違った世界が生まれる事は間違いない。

理屈の通じない我が家のかみさんは、ストレスも無く私より健康で長生きしそうだ。この事実からも人間の主役は女だと証明出来るだろう。理屈で凝り固まった私の戯言など、かみさんやボノボの前では何の価値も無さそうに思えてきた。どこかで上手くバランスを取れば、男女も国同士も幸せに共存出来るのかもしれない。経済に支配されるより、哲学者や喜劇作家にもっと活躍して貰えば、ボノボの社会や女性の有難さが理解出来るだろう。

少なくとも言える事は、怒っているより笑っている方が健康には良さそうだ。何と言っても貧乏人にもこれなら許されるだろうから。

これは古稀の捨て台詞だろうか。

平成26年11月12日

草野章二