しょうちゃんの繰り言


言の葉

“秋の日の ヴィオロンの ためいきの ひたぶるに 身にしみて うら悲し。
鐘のおとに 胸ふたぎ 色かへて 涙ぐむ 過ぎし日の おもいでや。
げにわれは うらぶれて ここかしこ さだめなく とび散らふ 落ち葉かな。“

これはフランスの詩人ポール・ヴェルレーヌ(Paul Verlaine)の「秋の歌(落ち葉)」という有名な詩だが、上田敏の名訳で日本の文学愛好者には広く知れ渡っている。他にも翻訳者が居るが、個人の好みで言えば上田敏が秀逸であろうと思う。もとよりフランス語の詩を云々出来るほどの教養も語学力も持ち合わせていないが、この翻訳された上田敏の詩は原詩(オリジナル)より優れていると評価されている。(「海潮音」に収録されている“ヴィオロン”は“ヰ”に濁点が付いているがここではオリジナルの表記が出来ないので“ヴィ”で表して貰った)

日本語の繊細さは日本人があまり気付いていないことの一つだろう。“あなた”という単純な言葉さえ話す人や場面によって表現が違ってくる。我々日本人は男が言ったか女が言ったかすぐ判断がつくし、“貴様・おんどりゃ”と言えば男が(普通は女ではない)かなり怒っていることがすぐ分かる。“あなた”という代名詞にこれだけの感情と、言った人の性別を表せる言葉は他の言語には無いのではないだろうか。漢字・片仮名・平仮名の組み合わせが文語体・口語体いずれにせよ繊細な表現を可能にしてくれている。

言語学者ではないのでここでは極めて乱暴な結論になるのは勘弁して貰いたい。痴呆老人の繰り言と取って貰えばありがたい。

海外との契約で英語の文章は非常に分かり易いと言われている。軍隊の命令も英語の方が簡単だという話を聞いたこともある。文章の構成がシンプルで主語・述語がハッキリしているからだろう。

また、中国語は繊細な表現が出来なくて濡れ場や色物の表現には向いてないという人もいた。原文を読めないので論評出来ないが、漢字の羅列では色恋や官能の微細な描写は難しいのだろう。日本に生まれて良かったと思うのは私だけだろうか。

季節を約束事としてモチーフにした俳句は、五・七・五と短い語数ながら立派な言語表現芸術の域に達している。英語の詩も読んだことはあるが、韻を踏んだ約束事は理解できても日本語のような発音と語数がシンクロした構成の見事さはない。私の浅はかな持論では俳句や短歌は日本語以外では表現は不可能だと思っている。内容の説明や解説は出来ても句や詩として他の言語で再現するのはまず無理だろう。

四季があり、自然環境に恵まれた国で生きてきた私たち日本人は、独特の繊細な文化を築き上げて来た。食べ物にもはっきりとした季節があり、衣服も季節によって代えていく。“衣替え”という表現は他の言語国にあるのだろうか。自然に同化し、その変化を生活に取り入れて我が国独特の文化を育んできた。他民族を征服し、自然に常に挑戦して生きてきた西欧や他の民族とは根本的に違うものを我々は持っている。日本では自然は征服するものではなく、むしろ崇める対象で、そこで調和して生きる知恵を求めてきた。我々は有史以前から頑なに、今で言うエコな生活を続けてきている。似た民族としてケルト民族が挙げられるが、今後のあり方として世界が我々や彼らの生き方から学ぶのも人類にとってはいい事かもしれない。

この闘争的でない穏やかな民族が築いた精神性の高さは、開国時に来日した欧米人の例外なき賞賛の的だった。庶民に至るまで礼儀正しく勤勉な国民性は、彼らの国では想像も出来ないことだったらしい。明治維新前後、若い武士の子弟が使節団として欧米を訪ねた際、ここでも例外なき高い評価を行く先々で受けている。若輩ながら、完成された凛とした優雅な佇まいは彼らにとって驚きだったらしい。武士の子弟はそれだけの訓練を受け、教養も極めて高かった。むしろそれ以上に大事な使命を帯びているという責任感が、精神面の揺るがない落ち着きを醸し出していたのだろう。二十歳(はたち)前の青年がこれだけの賞賛に値する立ち振る舞いをこなせたのは武士の形而上的な知性と精神文化のレヴェルが極めて高かったことを物語っている。

いい年して確たる歴史観もなく中国に行き、空ろな目で国益を損ね、その自覚も無く帰ってきた御仁とは雲泥の差だ。大学で何を学んできたのだろう。学歴はあるが知恵ある大人になれなかった典型的な例だ。

自然に恵まれた我が国では食べ物の豊富さと繊細さも特筆されるだろう。極めて洗練された料理法とその味は、他国の追随を許さない領域まで高められたと思っている。三ツ星は他国に付けてもらう必要は全く無い。これほどまでに自然に従い、素材の味を活かした料理は我が国の誇りとして自負出来るだろう。

食事に色を添えるのが芸術の域まで高められた食器の数々だ。料理に応じて工夫された皿や茶碗も食卓の演出には欠かせない。大きさ・形・色合いといったそれぞれの個性が見事に料理を引き立て、食する人達の目まで楽しませてくれる。

余談だが夫婦茶碗の大きさを見て“女性のものは小さい”と文句を言ったお方がいたが、男女同権を声高に叫ぶ彼女には、手の大きさに合わせた造り手の繊細な心配りを理解する知性に欠けていたようだ。もっとも彼女の立ち振る舞いからは“がさつさ”しか感じられないが。

相手のことを慮り、徹底的に自己主張をしない我が国の文化は粗雑な女史と同じ精神構造の隣国にはなかなか通じない。己の未熟さを自覚しない連中には高度に洗練された物言いは理解されないと我々は気が付いている。それでも忍耐強く我が政府は対応している。

早く自分の恥ずかしさに気が付いて貰いたいものだ。

何も経済だけが国力の尺度ではない。金は持っているが軽蔑されている人間は個人レヴェルでは幾らでも居る。企業でも自分だけ儲かればいいという姿勢の経営者は幾らでも居る。金融関係者が幾ら儲かっても人間として評価されないのは彼らに共鳴を憶えることが無いからだ。

原作さえ凌ぐ翻訳が出来る文化は素晴らしいことだ。鮨も今や大げさに言えば全世界で認められ、健康にも良いと歓迎されている。識者という人達が中国では冷たいものや、生ものは食べないと否定的だった。欧米では生魚は食べないと御高説を無知なる我らに披露してくれた。彼らの予言に反し、素晴らしいものは受け入れられるという単純な結末が待っていただけだ。

したり顔の解説が何の役にも立たなかったが、我々日本が誇る文化の数々はやがて理解されるだろう。その為には我々自身が良き先達の教えを受け継ぐことから始めなければならない。教育の成果が今の日本を反映しているとしたら、我々が無くした良き伝統を今一度見直すべきではないだろうか。少なくともリーダーたる立場の人には、明治維新当時の若き侍の気概を持って欲しい。国民も賞賛に値する規範を持って貰いたい。我々の先祖が身につけていたものは或いは我々のDNAの中に少しは残っているかもしれない。

“始めに言葉ありき”は聖書に出てくるが、そこでは“言葉”を神として捉えている。これだけ繊細な言葉を操る日本人は元来神に近いものとの解釈も出来るだろう。

今からでも遅くないからそれに相応しい生き方を是非学びたいものだ。がさつな生き方は日本人には合わないと思うことだ。

あらゆる分野で繊細な匠の技を生み出した血はまだ我々の中に流れている。

平成25年2月23日

草野章二