しょうちゃんの繰り言
レディと花売り娘 |
ミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」の中で、主人公の花売り娘イライザが自分を短期間でレディに変身させてくれたヒギンズ教授の母親に、「レディと花売り娘の違いが分かりますか?」と質問するシーンがある。その答えは、イライザ自身が「レディと花売り娘の違いは、世間が決めている」と呟く。バーナード・ショーの原作通りのセリフなのかは不明にして定かではないが、そうだとすれば如何にも彼らしい人間観察と言える。彼女は確かに貧乏な家庭の出身だったが、その言動には正義感の強い知的な可能性を秘めていた。彼女は決して無知な女性ではなかった。単に無知な花売り娘だったらこんな質問と彼女のこういった答えが出る筈がない。 イライザは下町の花売り娘からヒギンズ教授の特訓によってレディに変身した。それでも中身は花売り娘時代と同一のイライザの、この冒頭の疑問は彼女に対する世間の評価の違いに、彼女自身が気付いたから出たのだろう。同じイライザという娘が、花売り娘の時とレディとして上流社会の社交界にデビューした後とでは、世間の扱いの違いにも彼女自身大いに驚かされたことと思われる。と同時に花売り娘時代には無かった社会的役目をレディは担う事になる。イライザは充分にその事実を自覚していたと思われる。というのも、ヒギンズ教授の教えを乞うたのは彼女自身の決断だったし、発音や発声の矯正のために授業料も払おうとしていた。そこには彼女の上昇志向に満ちた、強い確たる己の意志が見られるからだ。 当時、階級社会のイギリスでは街の通りで通行人相手に花を売るのは、下層階級出身の娘と相場は決まっていたことだろう。一方“レディ”という称号はミスやミセスと違い、普通然るべき家柄(主に貴族)出身の、限られた女性のみに使われていた。伝説的歌手のフランク・シナトラは、黒人女性歌手エラ・フィッツジェラルドに対しては必ず“レディ・エラ”と尊敬の意を込めて呼んでいた。伝統的階級社会に無縁のアメリカでも、英語圏の人達にはこの“レディ”という敬称にどういう意味があるのか良く分かっているから、シナトラは彼女をそう呼んだのだろう。 昔、子どもの頃「乞食と王子」という物語を読んだ記憶があるが、比喩としては花売り娘とレディとではこの位の違いだと思えば間違いないだろう。レディという称号にそれだけの価値を置くのが伝統を誇るイギリスの習わしのようだ。 花売り娘時代のイライザに対する世間の目と扱いは、当然冷たく粗末なものだったと想像がつく。発音・発声や話し方を含めた上流社会での物言いと身のこなしを、ヒギンズ教授から訓練を受けてイライザは短期間に学び、見事にレディへと変身する。イライザ本人の本質的な部分では何の変化が無くても、社交界にレディとしてデビューした彼女は、持って生まれた容姿や服装のアシストもあって、外国の王子や独身男性貴族の注目を浴びる存在になった。彼女が言っている“違い”とは正に花売り娘時代と、変身後の彼女に対する世間の反応の違いを意味している。その違いは当然レディに対する世間の期待も含まれている。バーナード・ショウが描いたこの劇は能天気な成り上がり娘のラヴ・ストーリーではなかった筈だ。 私達は知らず知らずのうちに、いつでも、どこでも世の習いに従って相手(他人)を値踏み(評価)している。出身大学や企業がそこを出た、若しくは属する人達への評価となり、問題を起こした新聞社も頭の良い優秀な人達の集団と長い間信じられていた。偏差値の高い大学を優秀な成績で卒業して難しい入社試験に通れば、めでたく記事捏造問題を起こした件の新聞社の社員になれた。今の日本の基準で考えれば、この採用方法には何も問題は見当たらない。だが、誰が考えても分かるような捏造という間違いを犯し、32年間という長い間訂正も謝罪もしなかった彼等は祖国日本に対し、いわれなき汚辱の歴史を国際的に確立する手助けもしてくれた。はたしてこれは頭の良い優秀な人達の試みる事だろうか。そこのOBや現役社員の中には“俺は違う”と主張する人は多数居ると思われる。だとしたら何故自分達で自浄能力を発揮して問題が大きくなる前に方向を転換させなかったのか彼らに聞きたい。極論すれば、何も対処出来なかった彼らも同罪と断罪せざるを得ない。 皮肉な見方をすれば、頭が良い・優秀とされた人達の集団でもこの程度の組織だった、と総括するしかない。もっと言えば、現在のチェック・システムでは本当に優秀な人材を見極めるのは難しい、と結論を出してもいいのではないだろうか。 キャリア組と称される国家公務員も同じく優秀な人達の集団となる。総じて難しいとされる試験に合格すれば世間は彼らを何の疑いも無く優秀だと看做してくれる。司法試験・医学部及び医師国家試験などもその範疇に入るだろう。その選別も基本的には件の新聞社と同じ手法(ペーパ・テスト)を採用している。彼等が優秀だとすれば、パスするのに一番難しいとされる大蔵官僚が政治の中枢を占めてないのが気に掛る。それとも日本の政界は“政治は三流”と言われた伝統を頑なに守っているのだろうか。 どの分野でも形骸化は閉塞感を生み、その風潮が永く続くと世の中に諦観の気風を蔓延させる。人の世の活性化が損なわれる原因は多くの場合そこにある。“何を言っても無駄”とか“何を言っても変わらない”と国民が諦めた時、確実に国の活性化は機能しなくなる。 学ぶ者や、若者の特権は既存の権威を疑う事だと私は信じている。へそ曲がりにはへそ曲がりの視点があり、時として新たに見えてくるものもある。与えられたものを何の疑問も無く受け入れるのも摩擦の少ない人生を選ぶ人には良いのかもしれない。多くはそういった選択をして、素直に体制に準じている様に私には見える。現実のハードルを越すことが努力の成果として評価される社会では当然の選択だとも言えよう。 しかし、歴史が教えるように、ペーパー・テスト秀才が適切な判断を下せなかった例は第二次大戦当時の軍部にも見ることが出来る。日本式のペーパー・テストでは基本的に与えられたこと(学んだこと)の正確な再現をチェックしているだけで、短時間にどれだけ正解を出せたかが判断の基準となっている。予習・復習の反復が基本にあり、また、たまたま憶えていたことが問題に出題されれば関門を通過することが出来る。小学校を退学させられたエジソンには、日本での成功はかなり難しかっただろう。同時に日本の秀才揃いの軍幹部も節目の難しい局面で、的確な判断が出来なかった事実も残っている。 学ぶことの大切さは否定しない。ただ、そのチェック・システムが形骸化した時、学生は受験への“傾向と対策”のみに拘った勉強に傾き、真の教養や知性を磨こうとしなくなる。私達の高校時代も受験に関係のない文学書や哲学書は多くの学生が興味を示して無かった。教師さえも“今は大学に入ることが諸君の全てだ。大学に入ってから好きなことはやれ”と檄を飛ばしていた。これは地方の進学高での私の体験だ。 “レディ”と“花売り娘”の違いが世間で決められることを自覚したイライザにはまだ救いがあるが、高等教育を受けた若者にイライザ程の自覚が無ければ教育の意味はない。 花売り娘とレディでは世間との係わりに大きな違いが出てくる。つまり、レディには花売り娘にはない使命が自ずと派生してくる。その責務を果たす自覚が無ければ本物のレディにはなれないだろう。 社会は色々な能力や才能を持った人達で構成されていて、その責任の重さも社会的立場で変わってくる。個人の野望や上昇志向は生きていく上での大切な心構えとも言える。ただ、その野望に世間との折り合いを考え、さらに社会的責任を少し加味すればもっと有意義に社会全体に貢献することが可能になると思えるのだが、秀才の皆様は如何お考えか? どんな時代でも、どんな環境でも突出した人材は出てくる。敷かれたレールを律義に歩まなくても有能な若者はいまでも存在している。彼らは高偏差値の大学で学んでいるかもしれないし、高等教育は受けなくても在野に散らばっているかもしれない。私達が花売り娘を見る世間のランクに従っていれば、芥川賞を取ったお笑い芸人を見下すような態度になるのだろう。それでも大半はそうでないと信じたい。 私が「マイ・フェア・レディ」の一場面から受けた感想とそれに続く持論の展開は、或いは深読みとされるかもしれない。だが、現実は前の拙文「ジジ・ババからの贈り物」でも触れたように、日本を含めた世界規模の捏造の連鎖は教育が全く無力だったことを証明している様に私には見える。 社会から信頼が無くなり、個人・会社単位の捏造から国家単位の捏造も日常的に行われる時代は決して健全ではない。経済力という武器が台頭してきた頃から、世の中の価値観は確実に変わってきている。むしろ価値観が喪失されたと言っていいのかもしれない。金と力で治めた国や社会が健全に続く筈が無いことに早く気が付くべきだ。お隣の人口が多い国の整合性の無い主張や、手前かってなやり方を見ていると、どうしても違和感を抱いてしまう。そしてわが国でも、最近では大黒柱の無い家に住んでいる様な空しさを感じる。 だが、一方で日本から近年毎年のように出るノーベル賞受賞者は必ずしも高偏差値大学の出身者ばかりではない。天皇の執刀医を務めた天野教授も三浪の末医学部に入れた。出来上がった価値観のみで私達が判断すれば、大きな間違いを犯すことになる。権威を疑うのは若者だけの特権ではないだろう。これらの実績にはまだ救いが残っている。この文化と伝統は是非守りたいものだ。 一連の戯言は後期高齢者の鬱の症状なのか、単なる私の深読みなのかはすぐに分かるだろう。同一方向に進む必要はないが国会やその周辺でも、あまりにも馬鹿げた発言が市民権を持ち過ぎているようだ。知性と教養があれば出てこないような主張や問題が最近多過ぎるような気がしてならない。 先の短い後期高齢者としては、可能性を秘めた世界のイライザ達に、ちゃんとした教育をしてくれるヒギンズ教授が出てくるのを夢見るしか方法はない。世間の皮相的な評価だけでは正当な判断を下すのは難しくなっているようだ。 平成27年11月3日 草野章二
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