しょうちゃんの繰り言


子供の喧嘩

喧嘩は子供にとって遊びの延長であり、生き抜く知恵の修練の場だ。子供の頃そう思っていた訳でなく、“今にして思えば”という歳を取ってからの解釈である。大人の場合と同じで、些細なことから始まるのが子供の喧嘩だ。大人でも生きる価値観や、主義・主張の違いで日常争いになることはあまりない。運転中追い越されたとか、歩いていて肩がぶつかったとか単純な動機ほど盛り上がり、時として相手を傷つけることさえある。最近では子供の世界でもやり方が陰湿になり、困ったことに相手が自殺するほど集団で追いつめる例も見られる。

物の道理をよく理解していなくても子供には子供の判断があるが、自分の主張を押し通せば仲間と諍いになるのは当たり前で、むしろ子供の頃それは日常茶飯事だ。こういった争いの中から子供は学び、通用しない自分勝手な主張をやがてしないようになる。また、子供の生来の性格や成長のスピードには大変な個人差がある。男と女の本質的違いも子供の頃から顕著に現れる。早く学ぶ子供もいれば、いつまでも幼いままで要領の悪い子供もいる。一般的に多くの場合、大人から判断して御し易い子供を“よい子”と見る傾向がある。

元々生物はエゴの塊のような存在で、これは自然界で生き抜くために備わった本能と考えた方がいいだろう。人間の場合、一番大事な食べ物は自分と身内のためにまず確保し、残ったら知り合いに分けることもある。この判断の許容範囲には個人差があり、寛大な人ほど周りの賞賛が得られる。これは後天的に学んだ、生きるための知恵と考えた方が正しいだろう。子供は教育をうけ、訓練されるまでは本能のままに生きていて、自分勝手な行動を取るのはむしろ当然と言える。子供同士争いが絶えないのはそのせいなのだ。

動物によっては自分の子供にしか食べ物を与えない種類もあり、むしろその方が主流だとも言える。我々のDNAの中にも充分にその傾向が残っているようで、“自分さえ良ければ”という基本姿勢は終生変わることは無い。人間にとってもこの根源的認識は生存のための必要欠くべからざる重要な要素で、後天的に変えることが一番難しい性格のものと断定してもいいくらいだ。

生物学的にホモ・サピエンスと分類される人類は本来の動物の姿から短期間に大きな変化を遂げた。普通これを我々は“進化”と呼んでいるが、その“進化”は日常生活での道具の発明とその改良といった実質的な利便性の追求に留まらず、生きる為のあらゆる形而上的な価値に至るものまで追求するようになった。我々人間は何故(なにゆえ)存在するのかという基本命題から、価値観の模索、宗教への関心等々、単に生存するという一元的な生物の根本原則だけでは説明のつかない形而上の価値を求める次元へと入り込んでいった。

動物のそれぞれの特性は自然界で生き延びる為に進化したと説明するなら、人類が得た知恵とその進化にも、もしかしたら生き延びる為の真の目的が隠されているのかもしれない。つまり、我々はもう類人猿の生活は出来なくなっていると考えた方が正しいのだろう。従って人類は単に種が繁栄し、その保存を望むだけでは済まされない生物に進化していると思うべきで、その為には後天的な教育・訓練が必要だと考えれば分かり易い。人類は単に生まれて来ただけでは人間になる事は出来ず、人間になるためには後天的な教育や訓練が必要とされるようになったと考えた方が理解し易い。

分かり易い例を挙げると、人間は自然と言葉を喋るようになるが、訓練しないと字を読んだり書いたりすることは普通出来ない。簡単な算数も教育や訓練無しでは出来ない。つまり、“読み・書き・算盤”は人間が社会生活を営む上での最低の技能で、その習得のため義務教育が普及した。こういった後天的な知恵を学ばないと現実社会では人間として暮らしていけないようになっている。

自然界の弱肉強食の世界にあっては、食物連鎖の頂点に君臨する動物を横暴で手前勝手と非難する訳にもいかない。“人喰い虎”とは言うけど、“牛喰い人間”とか“豚喰い人間”とは普通言わない。また、牛や豚は食べているが、猫や犬は食べない。鯨を食べるのはとんでもないという人達も居る。肉食と動物愛護はどんな理屈を付けても理論的には矛盾する。それでも我々はちゃんとその言い訳も用意してあって、食べる目的での家畜は養殖されているから許されていると弁解する。実際は食べて美味しいから食べているに過ぎない。

簡単に纏めれば、人間は全ての連鎖の頂点に位置していて、全てを自分達の都合に合わせて生活を営んでいる。美味しい動物は食べるが、他の動物から食べられることは許さない。人間に害を加える動物も私達は全て淘汰して来た。

こういった人間の特性を考えて見れば、未熟な子供が成長過程で他と争うのは当たり前で、トラブルを少なくする為、家庭でも学校でも人間になる訓練を受けている。他との摩擦を少なくし、社会に順応するには必要なプロセスなのだ。我々は動物の本能だけでは社会生活を営めない種にまで進化している。これで教育が大事なのは分かると思うが、同時に教育によって人間は幾らでも変ることが出来る。もっと言えば変えることも出来る。

日本に生まれ、日本で教育を受ければ我々の時代と今の子供達とに制度そのものにはそんなに大きな違いがあるとは普通思わない。しかし1940年に生を受けた私達世代と現在とは社会環境に大きな変化が起きている。縷々として述べた生物であるホモ・サピエンスの本質は不変でも、後天的に学ぶ環境には確実に違いがある。制度としての学校教育の仕組みは同じでも子供を囲む環境は我々の時代とは違うことを認識すべきだろう。子供の学校教育だけを取り上げて議論しても始まらない。子供は常時学んでいることを知るべきだ。両親・家庭・社会環境・学校・テレビ・本、等々挙げれば限がない。こういったものが大人の目で整備された時、初めて教育の本質が語れるのではないだろうか。

価値観の共有とよく言うが、異国間で同じ価値観を持つことは非常に難しいことがある。個人では共有出来ても国家間で共有するのには大変な努力と互いの忍耐が必要だ。同じ事柄や現象も見方によって幾らでも解釈出来るし、場合によっては事実でない事も平気で主張する例がある。判断の基準には自国の利害という単純明快な原則があり、その原則のためには事実さえも歪曲されることがある。また、厄介なことに主張を裏付けるのは明快な論旨ではなく、力の象徴である軍事力だ。こういった人間界の掟を子供達は短時間に学びながら人間として成長することになる。今後も学ぶ課題が増えることはあっても減ることは無いだろう。

ストレスを感じない方がおかしい位に現代の子供には幾多の試練が待ち受けている。我々の世代に無かった学習塾も今では小学校入学前から用意されている。こういった環境でまともな人間が育つのだろうかと考えてしまう。最近大学生が本を読まないというのも、別な見方をすれば本も読めないような若者が大学生になっていると捉えた方が正しいのではないだろうか。料理学校で講習を受けても生徒全てが美味しい料理を作る事にはならない。また、調理師の免許を持っていても必ずしも料理の腕を保証するものではない。

“子供の喧嘩”という単純な争いごとも幼児期の極めてプリミティヴな動機から、成長するに従って社会を反映するような争いになるのは自然の理だろう。自分が正しいという理由付けも社会を反映していると見た方が正しいのかもしれない。

何もかも他人のせいにするのは幼児期の特徴だが、大人の世界でも罷り通るところに子供を笑っておれない怖さがある。子供は無垢のキャンパスで、そこにどんな絵を描くのかは大人次第だ。特に小学校時代の教育が大事なのは言うまでもない。常時目にする両親や社会が彼らに影響を与え、特にテレビは多大の影響力を持つと考えてもいいだろう。何処まで許されるか子供達は本能的に観察し、上位に位置する者から許される範囲をすこしづつ超えて主張は次第に拡大していく。親や教師に確たる理念が無く、毅然とした態度が取れなければ簡単に学級崩壊や家庭内暴力が始まる。我々の時代には皆無だった事を考えれば原因ははっきりしているのではないだろうか。

児童心理にも幼児教育にも精通していない、ただの年寄りの目から見ても子供の喧嘩は私たちの時代より変質しているように思える。一番深刻な例が“いじめ”だ。前にも書いたが、“いじめ”は人間の持つ業みたいなもので子供世界だけの現象ではない。逆に考えて人間の持つ闇はそれ程深いのだという認識で、その闇に人類は光を当てた方がいいような気がする。現代の子供の本質が変わったのではなく、子供を取り囲む環境の変化が子供に影響を与えていると考えた方が分かり易い。子供は大人や社会の鏡だと思えば納得いくことが多い。

国家権力で強制力を持つ裁判という制度にも、取り巻く関係者に多くの綻びが見えている。調べる側の杜撰さが冤罪を生み出した例が最近もあった。告訴し、取り調べた関係者が先入観を持って結論を出したケースが後に明るみに出ることになる。人の判断には間違いがあることは理解出来ても、長期の刑を執行された側からは到底納得出来ない。まして死刑が執行されていれば取り返しはつかない。判断した裁判官にも未熟な発想を恥じない人たちもいる。問題になる彼等はそれでも難しいと言われている司法試験を通ってきた連中だ。権威を守る為一度出した判断を変えないというのは、間違えた報道をした新聞が訂正しないのと同じだ。当事者は無謬性を唱えているが、物の分かった人から見れば猿芝居より酷い。

各分野の専門化は進んでいて、従事する人たちの役割も細分化されている。制度の改革はあたかも最新のコンピューターがバージョン・アップで次々に売り出されるのに似ている。欠点が改良され新製品としてマーケットに出てくると我々消費者は黙って従うしかないが、簡単に結論を出すと我々が手にするコンピューターは機械としては完成されたものではない。人間の創り出す制度や人間そのものも完成品とは程遠いと考えた方がいいだろう。コンピューターと同じで、人間にも制度を含め改良の余地はまだ幾らでもある。

子供の喧嘩をよく見ると、大人の社会の本質が見えるかもしれない。子供の結論は大人の模倣である事を考えれば、少なくとも事実に反する事を国家間で争う馬鹿らしさもやめるべきだろう。権威を幾らでっち上げても見える人には馬脚は見えている。

コンピューターと同じく不完全な人間が、もう少し謙虚になり、箸の上げ下ろしで論争しなくなれば見えてくるものは増えるはずだ。声が大きいから正しいことではないと気が付くだけでも変わることはある。教育を受けた人間として恥ずかしい主張を止めるだけでも変わることはもっと出て来る。

人類が人間に変わったのには理由があると信じれば、課題はたくさん見えてくるだろう。プリミティヴな動機だけで争っていたら、猿にも子供にも笑われるだけだ。

平成26年5月29日
草野章二