しょうちゃんの繰り言


判断の拠り所

人はいつも何らかの選択をしながら生きている。別の言葉ではいつも判断を迫られている。どの店が安いか、どこの餃子が旨いか等々、毎日数多くの決済を意識しなくても人は日常的にやらされている。これが組織の大事な決断や国家の方針となれば、餃子を選ぶ時の感覚で済ませる訳にはいかない。そして、事が重要であればあるほど判断は容易ではない。

鳥類は卵から孵って真っ先に目に入った、動くものに付いていく習性があるそうだ。これを「刷り込み」と呼ぶらしいが、雛には生存権の掛った大事な習性なのだろう。自然界なら通常動く役目は親鳥だろうし、神が雛に与えた本能としては納得がいく。ところが人間と雖も、この刷り込みに似た習性は幾らでも見られる。中でも大学生の思想かぶれなどその典型ではないだろうか。大学で出会った教授を無批判に受け入れ未熟な頭で追随する例だが、これは子供が麻疹に罹るようなもので終戦後は特に多いようだ。戦前の軍国主義への反動があったとしても、過去の全否定が妥当なものかどうかの検証は、教える方も学ぶ方も本来は道を決める前に真摯に取り組むべきだ。

歴史に題材を求めて著名作家の書いた小説を、歴史そのものと受け取る例なら世間では幾らでもある。お陰でその迷惑を被った将軍もいたし、作家によって創られた幕末のヒーローもいる。世界的な賞を貰った作家が、ありもしない沖縄の戦時悲話をノンフィクション風に創作した例さえある。彼は背景にあるものを現地で取材もせず、事実関係をよく吟味もしないで書くことで、読者に誤った認識を与えた責任をなんとも感じてないようだ。もしそれが意図したものであれば、どこかの新聞社と同じようなイデオロギーで染められた根拠の無い作り話の類で説得力は無い。

ただ、背景を知らない人は有名人や著名な新聞社が書く事に雛鳥のごとく付いていく習性があるのも事実だ。個人的な思い込みで終わる分には好きにして構わないが、世間に影響力のある作家や新聞社が作品や記事として公にする場合、少なくとも事実関係の確認はするべきだろう。そうでなければ隣国の主張のように自分達の都合で幾らでも、いわれなき攻撃を繰り返すプロパガンダと同じだ。隣国の主張は事実関係の有無には関係ないし、また彼らはそれを確かめる事にも関心がない。この作家にもあの新聞社にも、もしかしたらプロパガンダを繰り返す彼の国と似たような血が通っているのかもしれない。日本のリベラルと言われている人達に共通する匂いだが、自分達が正しいと思い込んでいるだけに始末が悪い。

子供なりの判断が未熟でも許されるのは、彼らもやがて成長する事を大人は知っているからだろう。だが世間ではいつまでも成長しない判断力には寛容ではない。人物像に優劣が付くのは人の集まるとこでの常で、学校や会社の仲間、時には飲み屋の常連の間でも自然と品定めをやっている。その評価は時として間違いや誤解も中にはあろうが、概ね正しい事が多い。

現代では人間が生きていくための能力として、「読み・書き・ソロバン(計算)」が最低条件として求められている。これを教える制度は、日本では既に町人の子供を相手に江戸時代から寺子屋として存在し、その末期には普及率は7割程度に達していたという。英国・欧州では同時期せいぜい1〜2割くらいの数字しか残ってない事を考えれば、日本が教育先進国であったことが分かる。前にも書いたが、明治維新以降、欧米列強国に追いつき・追い越せたのは国民への教育普及という基礎があったことに要因がある。アジアで唯一22名もノーベル賞に輝いているのは、こういった日本の基礎教育の歴史と伝統に依るものだと考えられるだろう。

自然科学の世界には万人に分かり易い法則に従った基準があるが、人の考えには科学と違って明確な共通の物差しがない。しかし、そこに必要とされるのは誰もが認めざるを得ない説得力を持った妥当な判断だろう。「妥当な判断」が実は人によって、国によって大いに違うから時として混乱が起きる。

国のあり方として社会主義(共産主義)か資本主義(自由経済)かの議論には未だに最終結論が出ていない。結論は必要ないのかもしれないが、中には器用に両建で済ましている国さえある。国のあり方として大いなる矛盾を抱えていても、国連では拒否権を持つ大国として認められ、幹部が莫大な個人資産を築いている例さえ自ら多数告発している。共和国を標榜しながら親子三代に亘って独裁を続けている国も身近にある。

家庭の事情に深入りしないのが大人の礼儀だとしても、論理的整合性の無い存在が建前論だけで主張する様は「妥当な判断」をする大人には大変迷惑な事が多い。これは国にも言える。

自然科学には明らかな法則性という道筋があり、無理をしても道理が引っ込む事はない。だが21世紀の世界で、科学以外の分野では未だに無理が通るところに問題がある。道理にならない主張を皆が許さなければいいだけの話だが、個人単位でも国単位でもなかなかその簡単なことが解決出来ないでいる。

歴史を見ても改革には時間が掛り、多くの場合革命という手法でしか社会や国を変える事が出来なかった。普通、権力の座にある既得権者が容易に自分の利権を手放すことはないだろう。これは国単位であれ、個人であれ事情は同じだ。人の持つ欲は活動の原動力にもなり、また富や権力を手にすれば他を制する力にもなる。革命の指導者が社会主義国家を目指しながら、往々にして後に国王を凌ぐ権力者となり、個人で莫大な資産を築いた例なら史上幾らでもある。だが、何代も長続きした例は無い。「権力は腐敗する」と言われる所以だろう。

日本を代表するお笑いタレントの、「どれだけ我儘が通るかが男の勲章」という趣旨の発言には人間世界の真理が隠されている。支配者にとってルールとは人を従わせるもので、自分が従うものではない。国単位でも経済力や軍事力を背景に自分達に有利な判断をし、他を従わせた例なら歴史上幾らでもある。むしろ歴史とはその繰り返しだと言ってもいいだろう。

その歯止めとして、戦後の日本で進歩的と称された学者の貢献はある程度認めるにはやぶさかではない。但し、あらゆる判断は時間、つまり歴史の審判に耐えられなければ価値はさほどないだろう。一過性の評価では意味が無いし、まして動機につまらぬ下心が見え隠れするようでは一時期上手くいっても破綻するのは時間の問題だ。

1990年代にかけての日本のバブル経済を読んでいた金融関係者はどれ程いたのだろうか。リーマン・ショックが起きる前の金融の膨張に危惧の念を持っていた人は何人いたのだろうか。後になって検証してみると的確な意見を述べた人は当時殆どいなかった。いたのは後追い評論家だけで、その中にはむしろバブルを煽り、リーマン・ショックの原因となったサブプライム・ローンを含め、金利の高い金融商品を積極的に勧めた人さえいた。世間では、エリートだと思われていた人達がバブルの中心で無策に対応していた事実を忘れてはいけない。

暴論を承知で敢えて言わせて貰えば、経済活動を学問として確立するには私見では無理があり、そこに学問と呼べるものがあるとすれば「経済史」しか無いのではないかと思っている。単純な予知さえ出来ないのは人文科学の難しさであり、限界でもあるのだろう。人間の欲で動かされるものに一定の法則性があったとしても、体系的に学問として確立するのは難しいのではないだろうか。欲と得で判断を迫られるものには、万人を納得させるルール(法則)も理念も見ることが出来ない。

どの国であれ、誰も自分が属する現在の社会体制を理想的な完成図だと思っている人はいないと思われる。それは人の求めるものの理念の高さ故でもあり、かつ現実はそれが限界でもあるからだ。我々の日頃の判断は残念ながら深い思慮や配慮がいつも背景にある訳ではない。卑近な例では人間関係を根底から崩す可能性のある連帯保証人制度を、金融機関は最近まで見直さなかった。リスクを全て貸し手に取らせ、自分達は安全なところで絶対損をしない仕組みに何の疑問さえ持たなかった。よしんば人様の金を預かって運用しているという大義名分があったとしても、自分達の責任でバブル期に生じた不良債権にはどう説明が付くのだろう。少し考えれば分かることでも、集団となれば手前勝手な事を億面も無く主張する怖さが人間にはある。競合相手が出て来なければ市外通話料や国際電話料は馬鹿高いままであっただろう。探せば日本だけでなくどこの国でも、こういう例は幾らでもある。特に資本の理論で支配されている社会には人間らしさが失われる傾向が強い。これも欲に支配された為の現象だろう。

利の前では人は簡単な割り切りで生きられ、本来あるべき姿も忘れて平然としておられる。よしんば創業者として莫大な利益を上げたとしても、それに携わった人や対価を払った人達がいる事を忘れてはいけない。成功の証に豪邸や豪華な車を判で押したように彼らは求めるが、そこには永続する価値はない。旧何々邸という遺された建築物には何代か経てば関係者はもう住んでいない。ベルサイユ宮殿にはルイ王朝の子孫は誰も残っていない。それでも残った遺跡が文化財としての価値が認められる場合は、社会に貢献したと或いは言えるかもしれない。

教育がこれだけ普及し世界中のあらゆる情報が手軽に手に入る今でも、あざとく利を求めるだけで人は満足していていいのだろうかという疑問は残る。それは企業にも言える。

アメリカを敵視する人達は資本と軍事力で世界を動かそうとする姿勢に反発を覚えているからだろう。命を賭けてテロを遂行する人達に、その行為自体に同意する気は全くなくても、彼らを突き動かす何かがある事は分かる。例え彼らの行動が一面反社会的でも、彼らにとっては正義だという事実は変わらないだろう。この争いは単純に原因が分かるものではない。特に宗教が絡んだ争いは当事者でなければ分からない事が沢山ある。それでも我々は和平を信じて努力するしかない。例え結果として永遠に続く争いだったとしても。

幸いにして日本はアラブ世界とかつて対立した事が無い。イスラム世界とも争った歴史が無い。日本が世界の大国を自負するのであれば、大げさにわめく隣国への対応は後回しにしてアラブ世界との対話を進めてはどうだろう。互いに同じ人間だから、何らかの接点を見付ける事が出来るかもしれない。政治理念も、宗教の垣根も越えてもし妥協点を探す事が出来れば、ノーベル平和賞は憲法第九条を守る国民に与えるより、和平に貢献した人や国に与えるべきだろう。

今の日本は誰が何と言おうと平和を求めているし、自ら他国を武力で制圧しようという意志は皆無だ。利に敏い人間や企業ならまだ沢山残っているが、表に出ない国民の大半は基本的に秩序正しく理解力はある。

人は過去の歴史から学ぶ事が多い。ただその歴史は偏狭な愛国心に依ってゆがめられたものであってはならない。見たくない事も、聞きたくない事も含めて我々は直視しなければならないが、同時に度を過ごして自虐的になる必要も理由もない。それを良心の発露だと勘違いしたインテリの所業故に我が国が世界から非難されている事も知っておこう。

判断の拠り所を皮相的な世間のランク(肩書)に任せてはならない。人としての在り方は学歴でも職歴でも決められるものではない。自分の毎日の生き方が自ずと決めていると思えば、新しいものが見えてくる可能性がある。そういう目で見れば、自分にも損をしない生き方が判断を狂わせていた事が多くあった。
古稀だから言える事かもしれない。

平成26年10月21日
草野章二