しょうちゃんの繰り言


自分探しの旅

いい大人がむきになる事ではないが、時として訳の分からない表現が社会的に認知されることがある。“自分探し”はその最たるものではないだろうか。自我の確立されてない未熟な幼年期の“自分探し”は理解出来なくもないが、少なくとも成人になっている当事者が口にする言葉ではないだろう。まして旅に出れば自分を探す事が出来ると考える幼稚さに疑問を感じる。人生経験が浅い時、自分の判断力に自信を持てない事はあり得る。また、幾つになっても迷いもある。同時に人はいくつになっても新しい発見や、そこでの新たな感動を知る事も出来るだろう。そして、自分の未知への意外な反応から自身が持っている新しい内面を知ることもあるだろう。

比喩的表現だとすれば“自分探し”を目の敵にしなくてもいいとは思う。ただ、この言葉で表される幼児性に時代の背景を感じるから取り上げている。時として、時代を先導するテレビやジャーナリズムは意味がありそうなファジーな響きの言葉に無条件に反応し、お先棒を担ぐ傾向がある。詩人が感性で表現する言葉には人によっては頷く事もあるだろう。しかし、その多くは詩という特性から論理的でないことがある。比喩にせよ暗喩にせよ意味の深い言葉ならいつまでも残るが、単に何となく感性に響くといった程度の言葉には何の意味も余韻も無い。

流行を作り出し、それを新しい文化の創造だと誤解しているマスコミ関係者が多過ぎる。特に芸能の世界では判断力も持ち合わせてない若い世代をターゲットに、色々な試みがなされている。その中から生き残るものも出てくる可能性はあるが、殆どの場合消えて行く運命にある。面白がりたい人間や、盛り上がりたい人間なら老若を問わず世間に幾らでもいる。素人芸を喜ぶのも彼らの特徴だ。「総選挙」というパソコンでのニュースの表題に驚いたら、中学学芸会並みの歌を唄う少女集団から一番を決める投票だという事だった。この馬鹿騒ぎからでも分かるように、底の浅い一部のマスコミとジャーナリズムは、無視する見識すら持ち合わせてない事がある。軽いノリで生きる広告界・テレビ界は目先の面白さや、変わった風な表現に飛びつき、一億総白痴化のお先棒を担いでいるようにしか私には見えない。確かなのは話題になり流行れば金儲けが出来る事だ。

一方で、まともな本が売れなくて減量本や活字の少ない漫画や絵本並みの本が売れている風潮も現代を表していると言えよう。短い時間に仕上げることがベストとされ、あらゆることに手軽さが求められている。現代人は忙しいという理由の下、電車内でも歩いていても、時には自転車に乗っていても携帯電話を多くの人達が覗き込んでいる。地球が自転し、一回転を一日として我々は生きているのだが、その一回転の時間は人類が始まって以来そんなに天文学的に意味ある時間の変化は無かったはずだ。その与えられた24時間を有効に使うため現代では誰もが「忙しい」と口にし、自由になる時間拡大の目的で生活の利便性は大いに進んだ。

ファースト・フード店は読んで字の如く「早い食べもの屋」の事を意味する。乗り物への燃料補給なら早い事には意味があるだろう。しかし我々人間は燃料を補給する車でもなければ飛行機でもない。食べる事は人の立派な文化だと言えるまでに文明国では食事の地位が昇華している。それは単に燃料の補給に留まらず、我々の健康にも大いに関係がある。その生きるための基本が、食べ易いからという理由で利便性の高いファースト・フードが持て囃され、中には世界的な規模まで拡大している企業もある。だが、そこにあるのは残念ながら資本の理論とルールだけだと断じてもあまり間違いはないだろう。出されるものは決して子供や、大人の健康を第一に考えた食べ物でもない。

世の中全てがこういった風潮に染まっている訳ではないが、大勢を占めているのは間違いない。手軽なもの、薄っぺらいもの、取っ付き易いもの、これらが今の世間が求めているものと判断するしかないだろう。前にも書いたが“価値観の多様化”とは、都合のいい言い訳に過ぎないことが多い。結果として過剰なクレーマーやモンスター・ペアレンツが出て来た。判断力も備えてない幼稚な人間が自己主張だけは強くなり、己の未熟さにも気が付かないでいる。ものを考えない人間ほど怖いものはない。手軽さと利便性から現代的な生活を送っていると思っていても、肝心なことが疎かになっていては実は困るのだ。大人の判断をするには大人の判断力が必要なのは言うまでもない。

表面的な辻褄合せで安易な方向に流れる時、我々は多くの事を失くしている事がある。自分で考え、自分を磨く事もせず“自分探し”と容易に飛びつき恥ずかしげも無くそれを公言するところに未熟さが現れている。

過日、国会での集団的自衛権に関する野党と総理の質疑で“この法案が通れば自衛隊員が死ぬという事を総理は国民にはっきりここで言って下さい”という野党党首の発言があった。他の機会にも似たような事を総理に言わせようとした別の野党女性議員がいた。そもそも自衛隊に入隊し、身をもって国を守ろうとすれば隊員達には最初からその覚悟は出来ている筈だ。警察官だって殉職する人は居る。他にも命を懸けて働いている人は数多くいる。命を懸けないのは能天気な質問をしている人達ではなかろうか。人の生死の可能性を掲げ、それだけで反対するのは一見国民受けするが、全体から判断すれば論理的整合性はない。

前にも触れたが永世中立を宣言しているスイスは国民皆兵で、女性も兵役除隊後、予備役として銃を持たされている。銃を持つという事は自分の命を賭けて自分と国を守るという意味で、そして誰であれ国を守るという事は自己犠牲を顧みないで立ち上がるという事だ。どういう手段を取るかは別として、国民に自分の命を賭けて国を守ろうとする意識が無ければそれは国の態をなしてないし、またそういう意識の無い人達は国民とも言えないだろう。地続きの国境線と海で隔てられた国境とでは国防の意識が全く違う事はあり得る。その違いが我が国独特の楽観的な平和論を生み出す基になっているのだろう。しかし21世紀の今日、科学技術の進歩は例え海で隔てられていても安全とは言えなくなっている。陸続きでなくても侵略や攻撃は簡単に出来る時代に我々は生きている。一人の犠牲者も出さず、国の安全が守られると思うのがそもそもの間違いで、一人も死んでいけないと言うのであれば何度も言っているが、まず自動車を日本からなくすべきだろう。交通事故による死者は年間5000人近くに上っている。

表面的な平和と安全の主張で全てが済まされるという思考は何処から出てきたのか大いに興味が湧く。ゼロ・リスクの発想も同様で、それを頑なに守るのであれば子供を外に出す事も出来ない。よしんば全国民が平和を願い、軍備を全て放棄して平和に、無防備に、そして誠実に生きようとしても、その真意が他国に通じる保証は無い。説得だけで国際間の紛争が全て解決するのなら、まず国内の犯罪者を説得し、殺人・強盗・窃盗・詐欺等々を国内からなくす事が出来て初めて海外でも受け入れられるかも知れない。他国を犯罪者と同じに扱うのは不穏当だが、事実ではない主張を続ける様は少なくとも知性を備えた近代国家の枠を遥かに超えている。その人達を、道理を持って説得するのは不可能だろう。

未熟な事が市民権を獲得し、大手を振ってさらに未熟な階層に浸透していく様は、私には国の崩壊としか見えない。人間が動物であり、類人猿の遠い親戚にあるのは事実で、全てが知によって解決付かない事は個人レヴェルで考えても幾らでも思いつく。我々が人間への発展途上だと考えれば現時点で全ての方面での問題に解決の方法があると思うのはまだ早いのかもしれない。利便性の追求は簡単に出来る。しかし、本来どういう選択をするべきかという問題には簡単に応えられない。

古来、狩猟・農耕への最大の武器だった体力は現代では絶対必要条件ではない。それに代ったのが資本で、現在の人間の営みは全て資本によってコントロールされている。自由競争を謳いながら巨大資本で縛られている様は自由でも何でもなく、むしろ大多数は生まれながらに拘束されているのが実態だ。人間回帰を望むなら、目先の「自分探し」でお茶を濁すのではなく、本格的に取り組まないと日本のみならず世界が窒息してしまうだろう。

6月22日の産経新聞に「広がるばかり貧富の差」という小さなコラム記事が出ていた。イタリアトップ10の金持ちの総資産が労働者50万人所帯の総資産に等しいという内容だった。大部分がこの70年間に創業されたと出ていたから、先祖伝来の土地資産の富豪ではなさそうだ。マフィアの名前が出てなかったので、どれも正当かつ合法的な生業からもたらされた資産と想定していいのだろう。同じ様な統計がアメリカや日本で示されたらどうなっているのだろう。ワーキング・プアといわれる労働者がアメリカや日本でこのところ急増しているらしい。貧富の差が激しくなっている今、もしかしたら「自分探し」は貧しい人達への福音と捉えられているのではないだろうか。

人として生まれてきたのなら、人としての人生を互いが送れるようにするべきで、国民は少数に奉仕するための存在ではない。資産が全てではないとしても、生きるためのコストは貧困層にも掛かる。富が権力となり、権力が国を動かせば何処でも“生かさず殺さず”の階層が出てくるのは充分にあり得る。経済学の発達より、毎度言うようだが哲学の普及が先決ではなかろうか。

どんな社会体制をとろうと不満に思う人達は必ず出てくる。成功した人達はその富と権力を死守しようとする。国民間、国家間での争いの種は常に分配への不満と不平等だった。しかしこの根本的な問題の種はいつの時代にも生じる。全てが納得する解決法は無いと断じてもいい位だ。それだけに税の負担率を含め各国が知恵を絞っているが、まだ多くが納得出来る方式は見つかっていない。

自分を探している場合ではなく人類共存の知恵を探すべき時だろう。目先の獏としたテーマに心を奪われる事はよくあるが、「自分探し」が「生かさず、殺さず」の人達の泡沫の夢であってはならない。


平成26年6月23日

草野章二