しょうちゃんの繰り言


人の判断

人間、誰しも自分が他人を“どう見ているか”より、他人から自分が“どう見られているか”の方がより気になることだろう。例の友人は他人の評価に動じることなく泰然としていて、気の小さい私から見れば羨ましい限りだ。人の織りなす人間模様には何故だか好き嫌いの感情が常に付き纏い、時としてこの感情は人間関係を壊すこともある。定かな理由があればまだしも、合理的説明が付かないまま人は他人に対して好きだとか嫌いといった感情を持つこともある。他人には丁寧に自分を見てくれと願い、自分は他人に対して雑に決め付けるのが凡人の習性なら、そんなことを超越して常に泰然とした態度を取る友人の姿勢は大いに理解出来る。

この、人の判断のいかがわしさに関して例の口の悪い友人と、かつて語り合ったことを思い出した。
「俺など昔同窓会の席で、幹事を務めていた男から“あの嫌われ者だった”と自分の事を言われ、驚いたことがある。聞こえてないと思って不用意に発言したのだろうが、あいにく俺は極めて近くで彼の正論が聞けた。個人的な感想はどうでもいいが、卒業してその時30年近くも経っていて、同窓会に出ている仲間に対して声高に幹事が言うことかね。学生時代に彼とは殆ど話したことが無かった。俺の存在自体がよっぽど嫌われていたのだと実感したよ。ただ、その発言の後やたらとすり寄ってくる彼に辟易したが、多分俺が近くに居たのに気が付いたからだろう。嫌われ者は遠慮した方がいいという俺の配慮で、その同窓会には行かなくなった。学生時代に仲間と群れなかった俺は、きっと皆の悪口のいいターゲットだったのだろう。自慢ではないが、悪口の種なら俺には幾らでもある」と嘯いて笑っていた。

私は新入社員の研修を受け、配属された時のエピソードをその時彼に語った。

「配属の日、その部署のナンバー2に挨拶したら“おめえ、xx大学だってな。俺はお前のことをxx卒業だとは認めないからな”と下品な口調で先制攻撃を受けた。後で分かった事だが、私の写真付き履歴書を見て、同じ学校を卒業した後輩の私を“この野郎、気に食わん奴だ”と言っていたらしい。その学校の大学を出ただけの卒業生は正当な流れをくむ伝統あるxxの同窓とは認めない、という本流意識が彼の根底にあっての事だったようだ。やたらと部下を怒鳴り散らし、強面で豪快な振りをしていても本性は気の小さな男だったが、上司の外人には頭が低く、そこでは評判が良かったそうだ。人にはさしたる正当な理由もなく嫌悪の感情が生じ、肌が合わないことがあるのは人間社会の常だ。やがて、彼には朝夕の挨拶もしなくなり、会社を辞めた後、業界のパーティーで会っても私は一切彼を無視した。先輩達が理由なくその上司に平身低頭するのが見苦しく、気の小さいなりに私はその会社に勤務していた5年ほどの間自分の我を通した。彼の言い方を真似すれば“こんな安い給料でお前に雇われている訳ではない”と自分に言い聞かせていた」

こういった話は思い出しただけでも不愉快だが逆に自分が他人に対して、いわれなき嫌悪の感情を持つこともあるから、心しなければならない。直接会ったことも話したこともない歌手や芸能人に、どうしても生理的に好きになれない人が私にも何人かいる。同じように、同窓生といえ苦手なタイプが居るのも事実だ。この場合、ある程度相手の事情が分かり自分の物差しで対象を値踏みしていることが多い。こういったネガティヴな話は通常小さな声で語られるが、誰もが関心を持っているのは否定出来ない。狭い社会で苦手な人を作ると自分の居場所も狭くなるから、通常私達は自分の本心をあまり出さないで付き合っている。それが社会生活を営む人間の基本的な知恵だろう。私の友人なんか、一言多いため不必要な敵を作ることがあるが、それも彼の個性と言える。彼のことはその言動を含め私には全く気にならなくても、気にする人は多い。本質を突く諫言は誰しも好まないからだろう。

個人的な枠を超えて一般的な事柄でも世間ではそれぞれの背景で、それぞれの問題に判断を下している。教育が普及し情報がこれだけ溢れていても、人は自分の関心のある事に注意を払うだけで、政治・社会問題・教育といった事柄には問題意識を持って考えることはあまりしないようだ。政治についてはテレビや新聞が大きく取り上げた時のみ関心を持ち、教育も自分の子供が進学する際に考えるだけで、その中身はより良き学校へ我が子を入れるにはどうすべきかといった対処策の場合が殆どだろう。つまり、人は普通極めて限定された範囲にしか興味を示さないし、多くの個人的な人間関係の場合、好き嫌いの感情で決める事が多いようだ。この個人的な好き・嫌いの感情は社会に対する影響は小さく、あくまで当人の生き方の問題だが、社会に影響力のある国の安全保障などに関しては各人徹底的な考察を本来行うべきだろう。国のエネルギー問題も同じだ。自分の意見に対し、それぞれがその結果の責任も負っていることを自覚すべきだ。

友人のさらなる発言は示唆に富んでいた。

「学生時代にはノンポリで政治には関心が無く、大学でも専門的には何も学ばなかった俺など、関心は身の周りの些細な出来事に限られていた。こういった能天気な学生でも、よっぽどの馬鹿ではない限り時の経過と共に少しずつ世の中の矛盾に気が付き始め、それなりの判断力と方向性は自ずと出てくるものだ。何かが違うという疑問が生じると、“どうあるべきか”という方向性も自分なりに考えるようになり、未熟ながら問題意識は時と共に生じてくる。元々人の言う事に逆らって生きてきた生意気な若者だったが、疑問を持つとその疑問は連鎖反応を起こし、あらゆる社会的な事柄に及ぶようになった。俺の場合“疑う”という姿勢が今日の偏屈な俺を形成したと思っている。身の周りのことから社会一般へと視点が広がった頃から、何かが見えて来たような気がした」

彼の鋭い観察力や視線は若き日の読書量によるものだと私は判断している。文学作品を初め、あらゆる分野に好奇心の赴くままに知識の根源を読書に求めていった彼は、若い日にあたかもジグゾーパズルの断片を本の中から拾い集めていたようなものだろう。その集積が当初混乱のまま混在していて、それがカオス(混沌)の状態になり、時という刺激で全てが有機的に結び付いたものだと思われる。今どこまで完成したか分からないが、彼の中ではジグゾーの絵はある程度見えているに違いない。(注:カオスは刺激を与えられると雑多なものが有機的な結びつきを始め、秩序ある形へと変化する。カオスは刺激によって秩序が生まれるもので、この言葉は終始の付かない単なる“大混乱”を意味しない)

若き日に知的好奇心は誰もが持つが、多くは目の前の現実的な目標の為、人はより関心のあるものに自分の重点を移している。高校生にとってはまず大学受験だろうし、大学に入ったらより良き企業への就職だろう。その為に必要とされることを優先し、何時までも文学書や哲学書に拘る学生はそんなにいない。まして人としての生き方を常に模索することなど、まず普通あり得ないだろう。分かり易く言えば、チェックされない能力を磨く人間はあまりいないものだ。しかし、若者によっては社会に出てから様々な矛盾に気が付く者も居るに違いない。それを見過ごすか立ちあがって変革のために行動するかは又、人によって対応は様々だろう。

社会での自分の役割を無難にこなし、波風立てぬ生き方を選択すれば素直に会社の方針に従った方が問題は少ない。大多数のサラリーマンは自ずとそういった選択をしていると思われる。こういった若者の習性は日本での教育のあり方と社会のシステムに起因しているようだ。会社の利益の為に少々の反社会的行為に目をつむるのもその成果だろう。本来なら教育やその成果である教養は企業の社会的責任にも影響を及ぼすべきだろうが、多くの場合経済の物差しが最優先されているようだ。

友人がいつも言っていた印象的なフレーズを思い出す。それは「人は、10人居れば15人まで命令されることを好む」という、一見理解に苦しむ表現だ。彼の真意を解説すれば、“人が10人くらい居ても自分の判断で行動する人間は皆無だ”という事を強調している。彼の主張から連想を逞しくすれば、いまの教育で有能なリーダーになる人材を育てるのは難しいということにもなろう。

昨今の与野党で紛争になった政治問題を考えてみても、アメリカとの安全保障条約の見直しは当然、世界の政治的・軍事的勢力図に即した模索の結果だが、そうは考えない人もいる。それを「戦争法案」と決め付け、その意見に同調する人は思ったより多かった。特に知識人と称する人や、文化人気取りの芸能人にも賛同者は見られた。彼らは原子力発電に関しても「即、廃止」を唱えていた顔ぶれでもある。分かり易く素人受けはするが、奥行きや現実的説得力は全く無い。彼らの国家の安全保障は何を基本にしているのか、また、原子力発電を即中止した場合の代替発電の方法とその経済的整合性、それと原子力発電の安全性に反対する科学的・論理的背景等、納得出来る言葉で説明出来た人をまだ見ることが出来ない。こういった問題は誰でも自分の感性で語れても、その根拠を納得いく言葉で語るのは難しい。絶対正解の無い問題は常に論争の種になるが、それでも現状から判断して我々は選択しなければならない。こういった問題で判断の間違いはよく起きる。何故なら、人はより安易な方を選ぶ傾向があるからだ。

友人の言った次の言葉は、とても自称落ちこぼれの感想ではない。

「学んだと自負するなら、自分の言葉で喋れと言いたい。政治家にしろ、ジャーナリストしろ、確たる意見があれば、自分の言葉で持論を主張するべきだ。特に政治家は国民を代表し、国の方向を決めなければならない。時として、大衆迎合の“戦争法案”といった平和主義風な発言が脚光を浴びるが、言った本人にも、それを支持する国民も本来なら自分の幼稚さを恥じなければいけない。最近では“数の暴力”も同じだ。民主主義はその運用に少々の欠陥や効率の悪さがあっても、多数決の原理を否定していたのでは民主主義が成り立たない。その原則もわきまえない様な意見が新聞等で取り上げられるのは、この国の知的レベルの低さを示しているだけだ。体裁は整っていても、中身がこんなにお粗末では政治も新聞も劣化するのは当たり前だ。判断力の低下は知性の劣化に繋がっている。学ぶことの意味を良く考えた方が良いだろう。落ちこぼれの俺が言っても説得力はないが」

彼の言う“命令されることを好む”人達の集団では問題にされなくても、国の方針の決定や、それを監視する立場にあるジャーナリストには常に問題意識を持って判断して貰いたい。その判断力がなければ、その任に何時までも居座るべきではないだろう。

我々がやれるのは、“そういった人間を選ばない”、そして“そういった新聞を買わない”という非常に簡単な選択だ。個人の「好き・嫌い」の次元で選ぶ判断ではない。

考え方によっては、民主主義は素晴らしい制度だ。近隣の一党独裁や、世襲制独裁の国より少なくとも“発言の自由”がある。少々程度の低い代議士でも未熟な判断力に関わらず何度も選ばれることがあるが、不自由な隣国を考えればまだ良しとするべきなのだろう。国民の判断力さえ回復すれば、いずれ未熟な者を選ばなくなるし、偏った新聞も読まなくなるに違いない。それが何時(いつ)の日か定かではないが。

 

平成27年11月18日

草野章二