しょうちゃんの繰り言
変った友人の入院騒動 |
例の口の悪い友人が緊急入院の憂き目に会い、二週間余の拘束を余儀なくされ最近やっと退院してきた。数年来の腹痛にも関わらず売薬に頼り、酒もタバコも一向に減らす様子は見られなかった。その結果が急性出血性胃潰瘍での入院ということに繋がったらしい。原因は血液サラサラの薬を飲みながら胃を荒らす痛み止めを飲み続けたことによる胃からの突然の出血だったという。一年程前には脳梗塞をやり、結果喫煙量はそれまでの半分に減らしたそうだが、聞いてみるとそれでも一日50本だと言っていた。と言う事は彼の喫煙量は10代後半から50年以上一日100本吸っていたことになる。知的能力は高い男なのにどうも簡単な世俗的判断力にいつもながら欠けている。そのアンバランスが彼の魅力でもあるが。 ■ 常人には計り知れない神経の持ち主だが、それまで睡眠時間は不規則で、かつ飲酒量は気の向くままという、とんでもない生活だった。これまで調子が悪くても一切健康診断は受けたことが無く、“我流で古希の歳まで生きたのだから病気になってもそれで本望だ。”と日頃から嘯いていた。退院直後の彼を訪ねてみたら早速タバコを吸っていた。彼は身体のことを考えて50本を20本にしたと悪びれず説明してくれた。確かに1年前と比べれば計算上五分の一にはなっている。彼なりの基準で判断を下したとしか言い様が無い。 ■ “コロンブスは15世紀末に新大陸からタバコと梅毒をヨーロッパに持ち帰り、タバコはすぐに日本にも来ている。それからおよそ500年以上の時が経っている訳だが、タバコに特筆すべき害があれば幾ら医学技術のレヴェルが低かったといえ、人類は今までにその害に気が付いていなければおかしい。”一服すると彼は続けた。“何でもものには功と罪の面がある。もし顕微鏡的視野で論議するならタバコを禁止しなければならないが、同時に飛行機にも乗れなくなるぞ。毎年必ず世界のどこかで墜落している。車も同じで、事故と排気ガスの罪は利便性とのバランスで我々は受け入れている。農薬だって言ってみれば究極の選択として受け入れているに過ぎない。身体に悪いのは分かっていても許容量と言う曖昧な線引きで妥協している。ある部分を取り上げ統計的かつデジタル的価値判断をすればタバコの害に匹敵するものは、まだ世の中にごまんとある。酒と同じ効用のある飲み物を開発し、飲み過ぎれば正常な運転も出来なくなり、かつ人によっては暴力的になるものを今から売り出そうとすれば果たして認可されるだろうか。しかも厄介なことに依存症という中毒性も内在していたらどうする。酒が許されているのは単に全人類共通の既得権として遠い昔から認められているからだろう。精神を冒すものではギャンブルも同じだ。健康に悪い、精神に悪いという尺度をミクロ単位で取り上げてその規制の下で生きれば、健康的だがおよそ味気のない世の中が出来上がるのではないか。こういうのを俺は餓鬼の理論と呼んでいるがね。“ ■ 彼と話しているといつの間にか説得されてしまう。確かに酒を一滴も飲まない長年懇意にしていた洋服屋のおやじは肝硬変で亡くなった。最近のテレビではタバコを吸わなかったご婦人が肺がんになった例を紹介していた。旦那も吸わなかったし、家では来客にも禁煙を強いていたらしい。念の入ったことに彼らは空気のいい場所に住むため山間の人里離れた場所に居を構えていた。人一倍気を付けていてもガンに罹った初老の婦人の不幸な現実を冷静にレポートしていた。統計の目をくぐり抜け例外の場所に納まるケースは皮肉なことに世間には幾らでもある。 ■ イギリスの名宰相ウィンストン・チャーチルは葉巻を愛し90歳余まで生きた。彼の国では最近パブでも禁煙になり話題になった。ある日、口うるさい貴婦人と会食で隣席したウィンストンは、彼の皮肉な発言に激高した彼女に“サー・ウィンストン、その口を慎まなければ貴方のコーヒーに毒を入れますよ。”と反論を受けて“レディー、私が貴女の夫なら喜んでその毒入りコーヒーを飲みますな。”と答えている。今の禁煙の風潮を眺めて墓の下で彼なら“早く人生を終わっていて良かった。”とでも答えるのではないだろうか。 ■ “データーを揃えた医者と議論する気はない。統計学的に俯瞰すれば彼らの主張には何たって数字で示された客観的根拠がある。彼らは医学的に正しい選択をしているが、我々は医学的規律で人生を送っている訳ではない。彼らの言うことを守って最終的にはチューブに繋がれ100歳以上生きたとしてそれが人生の最良の選択だろうか?”彼は続けた。“男としての機能を失くし、人間としての判断力を失ってまでも生き続けたいとは思わない。30代・40代の若さを保ったまま100歳・120歳まで生きられるなら考えてもいいが、そうでなければ俺はこのままで満足だ。”彼の主張は益々説得力を増してきた。 “基本として痛い、痒いだけを何とかしてくれればそれ以上の事を医者には求めない。”と過激な彼の発言はまだ続く。“考えてもみろよ、俺の事を全く知らない医者が医学的データーだけで俺の生き方を勝手に左右しているのだぞ。究極のお節介と思わないか?”思わないが反論すると煩いので黙って聞いていた。“例え俺が瀕死の状態で病院に運ばれてもどういう処置を望むかまず俺に相談するべきだろう。何の説明もなく術後の見通しさえ語らぬ医者にどう任せればいいのだ。”なる程彼の不満は分からぬ訳ではない。確かに医者には独善的なところがある。それでも皆黙って従っているのは専門分野に口出すほどの知識が患者側に無いからだろう。医者によってはパソコンの画面だけ眺め、患者の顔すら見ようとしないケースが最近では増えているらしい。 ■ “金を払う側を客とすれば、医者はもっと患者に敬意を払うべきだろう。いらっしゃいませとも有難う御座いましたとも言わない医者に幾ら病院で「患者様」と呼ばれても白けるよ。肉体的にトラブルを抱えて病院に担ぎ込まれても何も患者は医者より下に存在している訳ではない。彼らは医学の前に学ばなければいけないことが沢山あると思うがね。” ■ 言われて見れば医者や弁護士といった職業の人間には上から目線で話す人間が多い。確かに彼らの一部は勘違いしていると言われても仕方ないだろう。長年の社会的風潮が彼らを増長させていたとしか言い様がない。高級官僚にも同じ様に勘違いしている種族がいる。これが人間社会の自然な掟でありルールなのだろう。何処の分野でも智に働けば角が立つ。正論は大体力関係に流されてしまうのが世の常だ。 ■ “およそ他人から縛られるのが嫌な俺としては今回よく我慢したと思う。だが、複数いた医者も看護婦も皆個々の件に関してはよく対応してくれたし、そんな点では彼らには何も文句はない。こんな我が儘な男に皆さん逆によく我慢してくれたと本心では感謝している。”彼にしては殊勝な事を言うが、こんな時は必ず何か腹に一物持っているのが常だ。大体彼のパターンは分かっている。 “気に食わないのは俺に何にも相談無しに医者だけで決めてしまうことだ。それに病室のカーテンが薄くて昼間のテレビは逆光で良く見えなかった。トイレの便器の高さも外人用かと思うほど不具合で使い辛かった。エアコンは指定の温度より昼間は常に高く調整が利かないし、室内灯のスウィッチは病人には手の届かないところに設置してあった。やわらか過ぎるマットレスも取り替えてくれたのは一週間以上経ってからだった。病人の立場で考え、検証すればすぐにでも分かりそうなものだろう。” ■ 成る程そういう事か。設備は近代的でも細かな点で無神経なものは良くある話だ。分業が進み、各自が自分の担当のみに専念するとトータルで有機的に判断することが出来なくなることは病院以外でもよく見られる。医療そのものも彼に指摘されるまでも無く分業化が進み、患者の全体的なケアをする機能が欠けている。医者という人間が患者という人間に直接血の通った対応をすれば患者の不満も大分解消されるだろうに。 ■ “ファースト・フード店のマニュアル化は止むを得ないにしても、病院の一方的なマニュアル化は避けて欲しいね。医者はまず患者との対話を丁寧になすべきだろう。その結果として互いに納得いく方法を選択し、かつ患者も承知の上での医学的処置をして欲しい。” 何でも4人の医者が担当し、毎日直接関わったのは若い医師が2人居たと言う。それぞれが断片的な事に対応するだけで総合的な責任者は彼との会話は殆ど無く、他の医師の病状説明を彼を前にして聞いているだけだったそうだ。所謂院長回診や教授による回診と同じで、患者そっちのけの大名行列が繰り広げられていたらしい。“仲間内のセレモニーに患者は関係ない。今さら白い巨塔でもないだろう。まず客(患者)と向き合うことが一番肝心だ。事情を良く知らないトップが患者の前で他の医師から説明を受けるのは本来とんでもないことで、病室に来る前に楽屋裏で打ち合わせくらいしておくべきだろう。その上でトップが俺と話をするなら分かるが、本人を目の前に若手から事情を聞くとは何かおかしくないか?” ■ これでは彼が不満に思うのは当たり前だ。だがこういった対応は日常茶飯事で、どこの病院でも似たりよったりだろう。医者も患者もあまり疑問に思っていないようだ。 彼の主張にはどこか本質を突く所があり、納得することが多い。単なる愚痴や悪口でないところに彼の面目躍如の姿がある。 ■ “随分昔だが都の無料相談で弁護士に会いに行ったことがある。こいつが俺の顔をろくに見もせず横向いたまま対応したので腹立てて帰った事を思い出した。表面は無料だが俺たちの税金で雇っている訳だから何もあんな扱いを受ける憶えはない。医者も国立大学出身ならその大学での訓練経費の大部分は俺たちの税金で賄われている。例え私立出身でも税金はやはり投入されている。互いに持ちつ持たれつなのが世の中ではないか。” 彼の言い分は良く理解出来る。権威を一切認めようとしない彼の視点は時として我々の眼を覚まさせてくれる事がある。 ■ “馬鹿な生き方は自分でも良く承知している。辻褄を合わせて世間に迎合すれば少しは旨い目に会うことも分かっているさ。それが出来ればこんな貧乏はしていない。”そう言って彼は私にメモを見せてくれた。そこには「不幸にも見込まれた各位へ」の書き出しの後「この度入院しましたが、花より団子で見舞金を次の口座に振り込んで下さい。」とあり、「この際災難だと思って諦めて下さい。病に倒れてもただでは起きない男」と記してあった。 呆れた男だが目上の人やあまり洒落の分からない人達には出さなかったらしい。“自分でも驚いたが、ほぼ100%反応があり、思ったより友人が多かった”と笑っていた。絶対安静の病床で奥さんに口述筆記をさせ、メールで配信したという。奥さんは困惑したらしいが。 ■ “最高血圧が70まで下がり危機的状況にあったと言われたが、それを聞いても不思議なことに心の乱れは一切無かった。恐怖心も不安感も無くそんな自分にむしろ後で驚いたくらいだ。多分後期高齢者の年齢がそれなりの分別を与えてくれたのだろう。” ものに動じないのは彼が鈍いせいだと思っていたが、どうもそうではなさそうだ。“病に倒れてもただで起きない男”と称して見舞金をせしめているが、短い病院滞在でこれだけ気が付くとは彼はやはり只者ではなさそうだ。 ■ そんな彼が“快気祝いは会費制でやる”と笑っていた。やれやれ困った男だ。 平成25年3月29日
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