しょうちゃんの繰り言


毛の無い猿

子供の頃“猿は人間より頭の毛が三本少ない”と囃し立てていた事を思い出した。この表現が何を意味していたのか今となっては定かではないが、思うに“三本少ない”というのが猿に対する人間の優位性を表していたのだろう。たった三本だけの差なのか、またはこの三本が永遠に追い越せない絶対的な差なのか興味深いものがある。DNAの世界では人間とチンパンジーとの違いはわずか2%だと言っていたようだが。

考えてみれば人間ほど不完全な動物はいない。人類の仲間の類人猿は立派な毛皮を生れ付き纏っているが、人類は外界の刺激にはひとたまりも無い薄い皮膚を纏っているに過ぎない。森の中や寒いところでは生れ付きの姿ではそのまま生活さえ出来ない。着る物が無くては切り傷だらけだろうし、寒いところでは生存することさえ儘ならないだろう。この不完全で、不適格な生物がどうして地球を席巻することになったのだろうか。

人間も元々毛皮に覆われていたと考えるのが自然で、今みたいな薄い皮膚に覆われた人間が出来たのは突然変異ではないだろうか。無防備な個体が自然界で生き抜く為には着る物が必要になり、履くものも必要になった。つまり、生まれた時から工夫しないと生きられないのが人間の宿命に思えてくる。専門家から馬鹿にされるのを覚悟でさらに妄想を続けると、生き抜くための工夫が人間に格別の知恵を与えたのではないだろうか。

生れ付き備わっていない毛皮の代わりに着る物を工夫し、木登りに向いてない肉体は平地で耕すことを覚えたのだろう。他の動物とは素手で戦っても勝てる見込みが無いことから人間は武器を作ったと考えるのが合理的だ。

生れ付き背負ったハンディーを逆に工夫することによって人間をして万物の霊長たらしめたとも言える。厳しい自然・環境に立ち向かうには常に工夫していないと生きておられないという人類の宿命が人間のあり方を決めてきたのだろう。

また、薄い皮膚の副産物は人間をして365日発情させることになったとも言う。有難い事だが、これで人類は爆発的に増える要因を抱える事になり、その結果人口増加が食糧問題・資源の枯渇といった近未来の難題に繋がるのは免れられない。

一方動物としてのDNAも我々の中には脈々と引き継がれている。動物特有の縄張り争いも、やくざの世界のみならずちゃんと国単位でも引き継がれ、又どんな組織にもトップがいるのも猿社会を見れば納得がいく。そしてトップにいる者が旨い目に会うのも猿社会と何ら変わりがない。

イギリスの作家ジョナサン・スィフトが書いた「ガリバー旅行記」が出版されたのは1726年だが、その第4航海の話の中で主人公のガリバーはHouyhnhnms(フィヌム)の国を訪ねている。その国の主人公達の外見は馬の形をしていて彼等は品が良く、性格が穏やかな人達(?)で、彼らの世界には「嘘」という概念が無い。強いて言えば「あり得ない」という言葉が「嘘」に一番近い表現になっている。また、そこフィヌムの国ではYahoo(ヤフー)と呼ばれる人間の形をした動物も出てくる。その人間の形をしたYahooは不潔で薄汚く争いを好み、自己中心の粗暴な動物として描かれている。今ではYahooは英語の普通名詞になっていて、ならず者、無作法者といった意味で使われている。IT業界でYahooを立ち上げたスタンフォードの二人の大学生が会社の名前に選んだのは多分ジョナサン・スィフトの批判精神に共鳴したからではないだろうか。ガリバー旅行記は痛烈な社会批判の書で、本来子供向けのファンタジー物語として書かれた訳ではない。

スィフトは人間をヤフーとして小説の中に登場させていて、彼の当時の批判精神は今でも通用するのではないかと思われる事が多い。書かれた時代から300年近く時は経過していても、見方によれば300年位では人間はあまり進化しない動物なのかもしれない。

かつて“武士に二言は無い”と誇りある人達は高らかに宣言していたが、今では二言・三言は当たり前、出たとこ勝負の何でもあり、という融通無碍なる政治家が沢山居る。武士の末裔を任じている人達には理解不可能かも知れないが、こんな事で驚いていては現代の世の中生きてはいけない。日本では、武家時代と比べ現代人はむしろ劣化しているのかもしれない。時代に応じ、環境に応じて生きるのが人間の常なら、進化・劣化を頻繁に繰り返しているとも言えよう。ただ、まともな人間が評価するのはあくまで普遍的な価値を持ったものでなければならない。300年前のスィフトの目は現代でも充分通用するが、現代がスイフト以前に戻っているとすれば恥ずかしい限りだ。

富と権力は何時の時代でも大きな問題を抱えるテーマで、社会全体として如何にバランスを取るかがその時代に生きる人達の課題でもあった。社会の改革は集中し易い富と権力に対する挑戦であり、それに対する一般庶民の戦いの歴史でもあった。集中した富と権力は芸術(特に音楽・絵画など)のパトロンになり、後世に偉大な人類の遺産として残してくれたが、その裏には圧倒的多数の弾圧され、搾取された国民が居たのも事実だ。

教育の普及は読み書きを全ての国民に可能にさせた。昔は貴族の特権であった読書も先進国では望めば本は誰でも無理なく手に入るようになった。つい100年、200年前までは紙は貴重なものであり、従って本は庶民には簡単に手に入らなかった。それよりその時代は字を読める人も少なかった。明治政府が教育に力を入れたお陰で、日本では字を読めない、書けないという人が極めて早い時期に無くなっている。識字率ほぼ100%という日本は世界でも実は稀有な国なのである。明治以降日本が短期間で欧米に追いつけた要因はこの義務教育の完全普及にあったのではなかろうか。

国内のみならず世界の知識を書物で簡単に手に入れて学び、理解することは確実に国民の知的レベルを上げることが出来た。向学心は向上心に結びつき、特に新しい技術の習得は国民の生活を豊にした。教育の普及は同時に人間の生き方・社会のあり方に対する個人の目を覚ます効果もあり、無知・世間が狭いというハンディーから一般国民を解放する結果にも繋がった。

今で言えばパソコンの普及が全世界で新しい情報と共に先進国での出来事を瞬時に教えてくれるのと同じだ。そのため世界の価値観が集約される方向に動き、地域独特の独裁的政治形態も壊れてきている。

我々が生きている時代は実は大変な変換期に遭遇しており、何らかの普遍的価値観が求められている時代だとも言える。

争いの種には事欠かず、それは民族問題であり、宗教問題であり、富の偏りであり、こういった事はあらゆる国が内包している火種と言えよう。

一部の特権階級による国の支配は効率的ではあっても、必ずしも国民全体を幸せにするものではなかった。人権や個人の自由という新しい価値観の確立は、やがて辿り着く人間社会のあり方を示唆していても全世界が同じ道程にある訳ではない。日本などは比較的旨く軟着陸した例であろうが、未だに人権が無視されているような国は世界に幾つも存在する。

我々の尺度だけでは計れぬ国が現実に存在するし、そういった国には我々の価値観を押し付けても問題は解決しない。国際政治上の難問はそこにも存在する。

もっと言えば、我々の国の中でも普遍的価値が確立されている訳でもなく、やれ右だ左だという論争は延々と続いている。それぞれに正義があるから厄介な事だ。

古来多くの哲学者や思想家が人間のあり方や、その基本となる思考の理由付けを行ってきたが、実社会ではまだ理想的な形では実現されていない。それぞれに正義があり、譲れないものが存在するからだ。もっと言えばそれぞれが主張する正義には他を排除する力が自ずと芽生え、他との協調を否定することになるからだろう。宗教や政治形態を考えてみれば良く分かるだろう。答えは判らないが、対立が生じる根は理解出来る。

早まって結論じみたことを言うと、それが人間だと言うしかない。だとしたら如何に違った意見の人達と共存するかが大人の知恵だろう。国レベルでも同じことが言えよう。

動物としては不完全な状態で生まれてきた人間は、生き延びる知恵を多く手に入れてきた。その知恵がある限り将来に対し明るい展望を期待したいが、国内だけを見ても劣化の兆候は多く見られる。「遺伝子のエゴ」という題で前にも書いたが、それに増して「個人のエゴ」を互いに際限なく主張していてはバランスの取れた社会は構築出来ない。

三本頭の毛の少ない猿から“毛のない猿”と言われないようにしたいものだ。

平成24年9月

草野章二