しょうちゃんの繰り言


上等舶来

私達が子供時代、「上等舶来」という表現が一般に良く使われていた。この言葉は今の世代にはもう通用しないことだろう。現代語に訳せば「海外から来た優れた物品」となる。

終戦後の日本は食料品を初めとして、あらゆる物資が不足し、私達の親世代は子供達に食べさせる食料の調達が生き延びるための第一義的任務だった。内容の良し悪しより食べられる物の確保がなにより優先した。子供達はいつもお腹をすかし、戦後の数年間は特に甘いものには全くと言っていいほど無縁だった。唯一手に入るのは小麦色した芋飴だけだった。そういった時代、アメリカの兵隊さんから貰ったチョコレートが子供にとってどんなに美味しいものだったか想像出来るだろう。チューインガムも香りのいい味わったことの無い不思議な食品で、甘みが無くなっても一日中噛んでいた。

当時、チューインガムもチョコレートも進駐軍のGIから貰って子供達は食べた。強列な印象があるため未だにその記憶は残っているが、貰った回数はそんなに多くは無かった筈だ。私の場合でも良く考えればせいぜい1〜2回程度だったと思える。女学生だった叔母が貰って来て分けてくれたのを入れても回数はそんなに多くは無かった。長崎に駐在していたGIの数と子供の数を考えれば、手に入っただけでも幸運だったと言えるだろう。

小学校2〜3年の頃(1940年代後半)だったと思うが、学校で子供達に「ギフト・ボックス」という20〜30センチ大の長方形の箱が配られた。厚紙で出来た箱の中には見たことも無い香りのいいチューブ入り練り歯磨や石鹸、それに良く弾むゴルフボール大のゴムマリ、彩色の綺麗なビー玉等が入っていた。中身の種類はまだ幾つかあったが詳細はこの程度しか憶えてない。ただ香りの良さには子供ながら驚き、魅せられた。子供達に対するアメリカからの贈り物だと担任の先生から説明があり、中身はそれぞれにみんな違っていた。「ギフト・ボックス」の意味は当時誰も分からなかった。

その頃私達が使っていた石鹸には香りの記憶は全く残ってない。色も形も今の洗濯石鹸より見劣リしていた。歯も、歯磨き粉で磨き、チューブ入りは無かったし、甘みも香りもまだ無かった。そんな時のアメリカからのプレゼントは子供にとっても大きなカルチャー・ショックとなった。全く異次元の石?であり、見たことも無い練り歯磨きだった。私達の世代が、単純にアメリカに憧れた原点はこのあたりにありそうだ。

大人が褒める時に使う「上等舶来」を子供も真似して、いいものだと「上等舶来」と言って囃していた。本当に舶来品かどうかは子供にとっては問題ではなかった。この言葉は多分戦前から使われていたのだろう。特に物資が不足していた戦後は、アメリカから来た舶来品は高根の花で、煙草を含め特殊なルートが無ければ手に入らなかったようだ。子供ながら、正直な感想として昔からあったものは別として、小学生時代の玩具や本は決して上等な出来ではなかった憶えがある。社会に出た後の1963年頃、短期間研修で携わった雑貨の輸出でもまだ安物が主力だった。人件費の安い日本が大衆普及品の生産を当時でも続けていたのだろう。

本格的な電気製品としてソニーのトランジスタ・ラジオが世界のマーケットで評価を得たのは50年代後半から60年代にかけての頃だったと記憶している。考えてみれば、あの時代が日本の転換期だったように思う。新幹線開通・東京オリンピック開催と世界の表舞台に出て来た日本は、その底力をあらゆる分野で発揮し始めていた。

今では日本製品を「安かろう、悪かろう」と言う人はいない。まして「上等舶来」という言葉も、日本ではもう死語となったようだ。今では逆に「日本製(Made in Japan)」は品質の良い製品として、そのブランド力も世界中で確立されている。

年配者なら記憶にあると思うが、かつて日本は「独創性がない」、「物真似だ」、「改良しか出来ない」等々、散々他国から非難を浴びていた時期がある。こういった時代を経て、我々は「日本製(Made in Japan)」のブランドを次第に確立してきた。1800年代初頭に実用的な蒸気機関車を製造した英国は、世界に先んじて鉄道網を敷き公共の乗物としての鉄道を完成させた。それから200余年後の今、イギリスは日本の新幹線を国内に建設しようと検討している。これは正に「出藍の誉れ」としか形容の仕様が無い。誰も今では日本の製品を「物真似」とは言わないし、「技術を盗んだ」とも非難しない。

敢えて職人という表現を使うが、職人の拘りと誇りが日本の技術を支えてくれているのだろう。天然資源に乏しい我が国が、世界に伍して生き残るには人材と言う資源を活用するしかない。どの分野にも拘りを持って挑戦している人達がいる。天皇の執刀医である天野教授、ノーベル賞に輝いた科学者の方々、地方の活性化に取り組む行政の長、名も無き調理人、品種改良で美味しい農産物の生産に従事している方々、等々数え上げれば幾らでも出てくるが、社会を牽引しているのは正にこういった人達だろう。彼等に共通しているのは「遣り甲斐」という何物にも代え難い、生きている喜びの模索ではないだろうか。だからこそ価値があることを皆認めている。

血の通わないルールで資本を動かしても、当事者は必ずしも幸せの感情を持つ事にはならないだろう。又、自分の役目をマニュアル通りに消化したとしても、そこに達成感の「満足」という喜びが無ければ、本人も不本意だろう。金融機関や、強制力を持つ公共機関は今のままでいいのかもう一度考えて欲しい。生きた人間が自分の前に居る事実を良く考えて対処して欲しい。

経済が単なる金儲けに特化していたのでは多くの人達の生き甲斐にはなり得ない。何が真の目的か分からない投資(投機)集団が幾ら成果を上げても、喜ぶのは同じ色をした羽を持つ仲間だけだ。まともな世間の評価はなかなか得られそうにもない。何故なら金儲けという単純な目的はあっても、遣り甲斐や生き甲斐に繋がる理念が希薄だからだ。

私達は舶来の、物に限らず知識も過去沢山取り入れてきた。日本も含めた世界の歴史や、過去の逸材達の業績を知るにつけ、我々は今後どうすべきかの指標も、そこから自ずと見つけ出せることだろう。不条理としか表現の仕様が無い国際的事件も最近多発している。他国を非難中傷する手法で国内を治めているような国も、我が国の近くに存在する。よしんば彼等の主張が許容の範囲を逸脱していたとしても、それを強制的に排除するのは現実的選択ではない。そんな環境の中でも我々は冷静に節度ある物腰で世界を説得するしかない。国内にも「上等」でない政治家や言論人なら、まだ幾らでも居る。

種々雑多な考えの中から我々は選択し、国としての方向を決めなければならない。個人にも、どうしても守らなければならない事はある。それが家族単位、地域社会単位、国単位と広がっていてもその構成員である我々は国の安全、ひいては自分自身と家族の安全のために備えなければならない。その方法は誰が考えても納得いく内容でなければ、社会・国家は成り立たないだろう。少数意見に見るべきものが少ないのは、彼等の主張に偏りがある場合が多いからだ。国会審議の場で、代案や対案を出さないで上げ足を取るような野党の非難を、心ある国民は醒めた目で見ている。支持率を冷静に見れば、彼等が世間に受け入れられていない事は一目瞭然だ。「膏薬と理屈はどこにでも付く」と昔の人は教えてくれているが、その理屈に少なくとも整合性や説得出来る要素を入れて欲しい。批判や議論はそれからのことだ。不毛の論争は国会でなくてもうんざりしている。

人のあり方や国のあり方にも多様な選択肢があることは理解出来る。膨大なエネルギーの消費を前提とした国の発展にも多くの異論があるだろう。自分だけ、自国だけといった狭い視野での利益の追求には同意出来ない人も多く居ることと思われる。我々が利便性や快適さを求めるのであれば、今の競争社会は正しく機能していると言える。むしろ正確には競争社会から利便性や快適さが生み出されていると言うべきだろう。問題は、単純に求める利便性や快適さが人類に本当に貢献しているのだろうかという疑問が常に付き纏う事だ。

我々人間は地球上に生を受けた多くの生物の中の一種にしか過ぎない。類人猿から人類へと進化したホモ・サピエンスは高い知能故に自らを滅ぼす危険も孕んでいる。文明の進化のスピードは自らの滅亡までの時間に連動しているような気がする。これが人類の抱える漠とした不安ではなかろうか。

経済の発展に全てを委ね、経済原則だけで社会を運営しても得られるものは僅かだろう。今の経済の仕組みでは、一部の利に敏い人達を富ませるだけで、国民がすべからく幸せになる訳ではない。如何なる富も、例外無く社会から吸い上げられたものだ。さる共産国の、桁違いな賄賂による蓄財も、自由主義経済で蓄えられた巨万な個人資産も、全て国民が税金若しくは代金として払ったものに源流は行き着く。手にした手法に違いがあっても、一部の人間によって独占された富は同じ時代に関わりあった同胞から全て出てきている。

個としては「葦」にしか過ぎない様な儚い存在が「考える葦」となれば違った局面が開かれるだろう。「我思う、故に我あり」という哲学者の言葉も色褪せない。行く先が分からない状態で、利便性だけを頼りに経済の法則だけで利益を追及しても皆が納得する社会は創れないだろう。

「馬鹿げたことを言うのは恥ずかしい」というレヴェルまで民度が上がれば、充分話し合いが通じる世界が出来るだろう。義務教育に9年間、高校に3年間、そして大学での4年間を入れると学ぶ時間は16年間もある。大学進学率が50%に達するという記事を最近見たが、この間に若者は大事な事を学ぶ時間は幾らでもある。

金儲けのお先棒を担ぐような人達に志を期待しても無理だろう。また、アメリカにある著名大学の修士課程で学んだ実績を背景に、全て分かったような事を語る人達にも限界がある。日本には日本の文化と伝統がある。地域社会を破壊するような経済改革は誰も幸せにはしない。巨大資本の出店だけが潤うだけだ。これは地域の活性化には結び付かない。

何度も言うが、人は経済の法則だけで生きてはいないし、また、地域社会は人の絆で結ばれている。そこにどんな経済理論を持ちだしても、住民が共存出来なければ意味がない。

日本でのバブルを契機に東京の中心部で消滅した学校は、人口減の比率を遥かに上回っている。我が家の子供達が卒業した区立の中学も、既に無い。都心部で生活し、子供を育てるコストが若者世代には耐えられなくなったからだ。

かつて「上等舶来」を追いかけた大和民族は、舶来より上質の製品を創るまでになった。新幹線を、恩返しに英国に建造するのもいいが、上等な社会の仕組みを輸出出来るようにしたいものだ。自然と共存して生きてきた日本人は、必ずいいものを創るに違いない。

平成27年2月15日

草野章二