しょうちゃんの繰り言


ゴルフの真髄

私がゴルフ・ボールを初めて手にしたのは1950年代の半ば頃だった。それは故郷長崎の中学生時代で、当時ゴルフいう競技があるのは知っていたものの、その内容に関する知識は全く無かった。しかしそのボールを学校の2階の窓からコンクリートの地面に落とすと良く弾んだのを覚えている。それがゴルフ・ボールだと認識したのは若しかしたらずっと後かもしれない。それから20数年後には私もゴルフを始めている。この競技の特筆すべきことは、審判が居ないということだ。つまりプレーヤーが自分自身で自分の競技の審判を兼ねなければならない。基本に色々なルールがあるが、それを自分に有利に勝手に解釈することは許されていない。ゴルフという競技のスタートは自分に厳しく出来るかどうかがまず問われる。だから紳士の競技として、心してプレーヤーは臨まなければならない。その覚悟がなければゴルフをやる資格が無いと言える。

最近、ブラジルで行われたサッカーのある世界大会に日本も出場したが、世界の強豪の壁は厚く日本は一勝も出来ずに終わり予選を通過出来なかった。スペインとブラジルで戦われた決勝戦では、放送中流されるスロー再生のビデオで見ると使うことを禁止された手が相手選手のシャツや身体によく伸びている。ボールへのタックルも微妙に相手選手の足に向いている。見方によっては違反しているとも言える。偶然なのか故意なのか審判も判断に苦しむだろうが、少なくとも手を出すのは全て違反には違いない。身体ごと当たるのもどう見ても故意としか判断出来ないケースがままあった。倒れる必要もないのにやたら倒れてファールを誘っているのも見苦しかった。勝ちに拘るあまり、こういった戦術が生み出されたのだろうが、勝っても負けても見ている方の後味は決して良くない。こういった現象は何もこの試合だけではない。世界的に人気のあるスポーツだけに、フェアな戦いをすれば見ている方にもっと感動を与えられると思うのに残念だ。(拙文「人の評価」参照)

ラグビーはルールの改正もあって今では選手の交代も可能になっているが、確か昔は負傷退場しても交代は出来なかったと覚えている。随分昔のことだがイギリスのある試合で相手が負傷退場した時、自軍からも選手を一人ベンチに下げさせ、同じ数でフェアに戦った逸話が頭に残っている。試合が始まった時のメンバーで戦い、どんなことがあっても交代なしで欠員が出てもそのままで続けるのが昔の流儀だった。この時代のラグビーを懐かしむ人は今でも結構居る。

英国人は極めて興味ある人種で、ラグビーは試合が決まれば天候やその他の理由に関係なく決行することを原則としている(但し積雪でラインが見えない時は中止になることがある)。また、ゴルフではそのスコアは競技者の自己申告で成り立っている。ウィンブルドンのテニス競技では、昔から男女とも白のコスチュームしか許していない。競技の特性から色々なルールが生まれ、それが時代と共に変遷するのは致し方ないが、少々不自由でも原型のまま残るのがイギリス流なのだろう。

あらゆるスポーツ・競技にはその発祥以来の伝統と理念が残っている。より魅力的な競技にするため後にルールが改正されることがあっても、その精神は受け継がれているようだ。

勝者には当初栄誉だけだったのが、今では巨額な金品が与えられるようになった。これが競技を活性化し、結果として面白いものになったのも事実だろう。優れた才能を持つ若者が挑戦し、より高度な技を磨き観客を熱狂させる。つまり金の取れる競技に発展していった。近代オリンピックでも当初はアマチュアだけの競技だったのが、今ではプロも参加出来るようになった。判定には最新の科学技術が採用され、日本の相撲でさえビデオの再生を参考にしている。あらゆる競技を対象に人間の目では難しいぎりぎりの判定を科学の目に頼るようになっている。これも時代の流れだろう。

人間の目による判定に科学技術を取り入れる時代になっても、依然としてオリジナルのルールのまま残っているのがゴルフの自己申告だ。アマでもプロでもこのルールには変わりはない。誘惑に弱い人間が果たして守ることが出来るのだろうかという疑問は常に付き纏うが、それでも基本は変わらない。自分の打った打数を自分で数え、それを自分で申告するという極めて単純なことを、金や名誉が掛かった試合でやるのがゴルフという競技だ。誤魔化すとすれば自分を誤魔化すしかない。

かつてオーストラリアを代表する世界的ゴルフ・プレイヤーが日本を代表するような選手に“疑惑を招くようなプレーをするな。君の友人として忠告する”と発言したことがある。忠告した人の勇気を称えたい。この精神を先日のサッカーの優勝戦を戦ったチームにも分って欲しい。同じ英国で始まった競技が大きく変質しているのが気に掛かる。自分に有利にするのが人間の性だというのを分った上で、ゴルフの自己審判制は未だに続けられている。審判が居なくても不正はしないという自己抑制がこの競技の基本で、これを成し遂げられるのも人間だと言う事を証明している。また一方で、判断を他人に委ねた時、どうしてもその目を欺こうとするのが人間かもしれない。その駆け引きを含め楽しんでいる人が居るのも事実だ。もしこの理屈が許されるなら少なくとも今のゴルフという競技は成り立たない。自分の身に当てはめ、所詮人間とはそういうものだという物分りのいい結論はあらゆるところで綻びを見せることになるだろう。

人間は他人が見ていても見ていなくても自分をコントロール出来るのを証明したのがゴルフという競技だ。一方、前述したように審判が居ても目を欺いて不正をするのをサッカーの世界的チャンピオン戦でつい最近目の当たりにした。共にルールのあるスポーツという世界の出来事だ。人に判定して貰うより、自分で判定した方が人間はより正直になれるのだろうか。

イギリスではゴルフは紳士のスポーツとして定着している。だから競技者が自分で審判を兼ねることが出来るという論法だろう。この“紳士のスポーツ”という表現には全ての意味が含まれている。紳士のスポーツには不正は無いという誇りの高さだ。前にも書いたが、かつて古の中国でも“君子の口約束が最高の契約”とされていて、西洋式の契約書を交わすことはなかった。君子が一度口にして約束したことは何にも勝るという極めて誇り高い形而上的理念があった(拙文「政治の役割」参照)。我が故郷の偉人、梅屋庄吉が革命の父と言われた孫文と交わした約束がこれに当たる。生涯に亘り孫文の革命を支持して莫大な資金援助をしているが、これは無償の行為だった。(拙文「どこの国とは言わないが」参照)

人間は自分の子供や孫に対しては無償の愛を捧げることが出来るが、同時に自分の少しの利益のためにも時として他人には嘘も平気でつくことが出来る。この二面的性向を持った人間がやはり最後の拠り所として求めるのが普遍的正当性だろう。たまには道を逸れてもやはり王道を歩きたいと願っている。自分の叩いた打数を正直にスコア・カードに書いた時、ゴルファーは俗世間から離れた別の世界に自分を置くことが出来る。ゴルファーの大多数は当たり前のようにやっているが、彼らはいつもこの信条を貫いている訳ではない。ここに人間の面白さがある。

ゴルフをプレイしている時の精神性の高さを、人生全ての時間に維持出来れば世の中は随分変ると思われる。人生のあらゆる競技とあらゆる出来事に際し、本人が他からの信頼の元で審判を勤めるのが若しかしたら正しい判断を自主的に下せるのかもしれない。

先日亡くなられた元検事総長吉永祐介氏の、旧制六高時代のエピソードが産経新聞(6月30日・産経抄)で紹介されていた。仏語の試験の時、教師が問題を配ると教室を出て行き、カンニング公認状態になり級友が辞書を出したり人の答案を写したりする様を見て吉永氏が“お主(ぬし)ら品ないぞ。”と一喝して正常に戻った実話だ。旧制六高では一人の生徒の指摘で正常に戻れたが、一般的に俗世間ではそうはいかない。例えたしなめても品の無い反論が山となって帰って来るだろう。時として争いになることも考えられる。六高という学校の同級生であったがため、「品」という言葉に敏感に反応したと言えるだろう。

「品」という言葉が意味を持つのは、実は極めて大事なことだ。スペインを代表するサッカーのクラブ・チームが品格の欠如を地元紙が指摘したのも、あまりにも勝ちに拘った試合態度に痺れを切らしたからだろう(拙文「人の評価」参照)。

21世紀に住む我々が物の豊かさを求めるあまり、随所で「品」をなくしているように思えてならない。サッカーという、たかがボール蹴りのゲームでさえ人は品格を求めている。この精神が基本に残っている限りまだ人類は捨てたものではない。世間を我が物顔で闊歩している成功者に一度「品」について聞いてみたい。“あなた方はその富を品良く手に入れましたか”と。その問いに対し“法律を犯してなければ何をやっても文句言われる筋はない。”という反応であれば、少なくとも大人しくしていて貰いたい。手にした富によって発言力が増すのは決していい事ではない。リーマン・ブラザースが資金を出してテレビ局の買収を図り“想定どおり”と嘯き続け、最後は想定どおり刑務所に入った御仁を議員候補として持ち上げた政党があった。幸いにして選挙には想定どおり通らなかったが、国政を預かる者として良く考えて欲しい。あれから何年も経っていないが、今や片棒を担いだ品の無いリーマン・ブラザースは存在しない。諸行無常の響きは品の無い連中には容赦なく、品性と理念に欠けた一過性の栄華が長く続く訳がない。

衣食の後は通常礼節が来る事になっている筈だが、何故だか金が絡むと品格を捨て、張り切る人達が多い。この際限ない金銭欲を人間は超越することは出来ないのだろうか。

他人が見ていようといまいと、自分の打った打数を正直に申告するゴルフというゲームは今日でも存続している。この程度の品格でも充分に世間では通用する。人の一生はせいぜい80年程度だろう。古稀を超えた人生の残り少ない時期になって、後期高齢者としては遅ればせながら気が付くことが多い。ゴルフをやる時の心構えを他の事をやる時思い出すだけでもいい。間違った申告をしてないと常に自分に言えれば少々の学歴や社会的地位は必要ない。そういった人達は充分に節度もあり、何と言っても生きる上での理念を心得ている。こちらの方が遥かに重要で意味がある。

ゴルフを止めて久しくなるが、私が未だに小銭に目が眩むのはそのせいだろうか。

平成25年7月2日

草野章二