しょうちゃんの繰り言


ただ(無料)のもの

知り合いの医者の言葉に面白い表現があった。その“遺伝子のエゴ”という表現が新鮮で真意を尋ねたところ、“遺伝子は生き抜くためにはそのエゴを徹底的に追求する”ということだった。確かに生物の最大の目的は生き延びることにあり、遺伝子レベルではその生き方に自問することも無いだろう。生存し、生き延びること自体が彼らの使命で、他の要素が入り込む余地は全く無い。考えて見れば遺伝子の媒体でしかない我々人間も似たようなものかもしれない。自然界においては人間でさえも生物として次の世代にその生命(遺伝子)をバトンタッチするのが唯一の存在理由で、少々のことではこのメカニズムの本質は揺るがないことだろう。犬も、猫も、猿も、魚も、いやあらゆる生物に同じことが言えよう。

ただ人間をして人間らしくしているのは、単に動物としての種の保存と伝承が全てでないところにある。生き方にこだわるが故に人間をして人間らしくしていると言える。

また、その医者は“食欲や色欲は限界があるが、物欲と権力欲は際限が無い”とも言っていた。煩悩に振り回される凡人が考えても、人の背の高さや寿命に数倍・数十倍の個体差は無い。食欲も色欲も然りである。天から与えられた人としての個体(肉体)に関することでは大した個人差は無いが、物欲や権力欲は幾つになっても旺盛な人が居る。物欲に対し古今東西、人間を戒めるための警句が数多く語られてきたが簡単に言うことを聞かないのがまた人間でもある。権力欲においても然りである。

さらに彼は“犬も子供も腹いっぱいでは芸を覚えない”とも言っていた。子供の人権を盾に放し飼い状態をよしとする風潮の中で彼は“人間として未熟な子供に人権なんてあり得ない”と過激な発言を繰り返し、“子供にあるのは人間らしく生きる躾を受ける権利”だとも主張していた。確かに犬も野生の状態では人間と共存出来る筈が無い。子供も然りである。しかし、若しかしたら我々大人も飽満・飽食の時代に芸(躾)を放棄していて、彼の警句はそのことを指摘しているのではなかろうか。

“はしたない”という言葉はもしかしたら現代では死語になっているようで、ありとあらゆる分野で人間の持つ“欲”特に“金銭欲”が幅を利かせている。積極的に利益は求めないまでも、ただ(無料)だと言うとすぐに群がる習性は早いうちに修正しないと“はしたない”と例の駄洒落好きな医者にからかわれそうだ。ただ(無料)のものを求めるのも金銭欲の逆の表れだからだ。

かつて色物番組みの司会者が、“民放テレビはただ(無料)だから、見たくなければ消せばいい”と豪語していた。彼の単純な頭では視聴者が買った洗剤・電気製品・食料品等々の中にテレビ放映の経費が広告・宣伝費として含まれていることには気が付かなかったのだろう。ついでに言うと分不相応な彼のギャラも我々が払った商品対価の中に含まれている。そんな男でも参議院選挙に当選出来たし、挙句の果ては“俺たちジャーナリストは”と発言して恥の上塗りもしていた。テレビに出て原稿を読んだり、司会をすればすぐに“キャスター”となり、ジャーナリストとして名乗るところに実は問題がある。底の浅いテレビ文化が蔓延しているのは、大宅壮一の言を待つまでも無く“一億総白痴化”への道をいまだに着実に歩み続けているからだろうか。

義務教育の9年間のみならず、高等学校まで授業料をただ(無料)にし、さらに児童手当を支給することにも現政府は着手している。当然そういった経費は税金から賄われ、国民の負担となる。財政が逼迫し、国家予算が国債の発行なしでは成り立たない現状で、ただただ国民の関心を呼ぶための選挙対策としか思えないばら撒きで政治を行っているように見える。

“ゆりかごから墓場へ”という言葉を最初に聞いたのは中学の社会科の授業だった。イギリスの手厚い社会福祉政策を表現した言葉で、彼の国の高い国家理念に当時驚いたものだ。

しかし高邁なる理念に基づいた手厚い社会福祉は、イギリス国民を蝕んだのも事実だ。イギリスは産業革命以降、世界のリーダとして全盛を誇ったものの、やがて「英国病」と称される病に侵され、サッチャー女史が出てくるまで立ち直れなかった。

“遺伝子のエゴ”を持ち出すまでも無く、人が不労所得を徹底的に追及する現実は日本でのバブル期に我々は厭というほど経験しているし、最近ではアメリカのリーマンショックでも見てきている。これらの例は“Greedy”(貪欲・強欲)とアメリカの大統領をして言わしめた人間の金銭に対する業としか言えない一面を見せてくれた。この一面は積極的に参加した方で、逆にただ(無料)のものを貪欲に漁るのも又、人間の業でもある。高邁なる理念の基、手厚い福祉国家を目指したイギリスは結果として怠け者を生み出し、国民の怠惰な面を助長して国の活力を無くしていった。世の中にはただ(無料)のものは無く、その代償は自分を含めた誰かが払っている。福祉で手厚く守られていれば、自分で稼ぐことを止め他力本願で生きようとする人が増えても不思議ではない。長い間「英国病」で悩んだイギリスが正にこの社会現象を引き起こしていたのである。制度があれば必ず悪用する人間が出てくるのは洋の東西を問わない。共産主義・社会主義の限界は、実は人の持つこの業とも言える性向に起因している。得るにせよ無くすにせよ自分と直接関係があれば人は敏感になるが、他人事となれば話は別だ。地域におけるごみ処理場の建設等に見られる、総論賛成・各論反対もこの人の持つ性向による。

何らかのハンディーがあり、社会全体でサポートすべき人達に対する福祉は当然あり得るが、そうでなければ社会は各個人の自立が大前提で成り立っている。貧しいことは悪でもなければ恥ずかしいことでもない。ある意味自分の生き方を貫けば清貧に甘んずる面も出てくる。子供にやるべきことは無条件の学費免除ではなく、奨学金という制度を充実し、教育を受けたい学生を援助してあげる方がより意味がある。実社会に出て返還する方式だと、向学心の無い生徒を学校に留めておく無駄を互いに(教育を受ける側及び教育の機会を与える側の双方)避けることが出来る。ただ、教育を受けたとしてもそれは必ずしも上等な人間が出来ることを意味しない。

ハーバード大学ではペーパーテストに拠る入学試験は無く、半年も掛けて志願者を一人づつ面接し、合否を決めている。将来のアメリカのリーダーを育てるという明確なコンセプトが基本にあるから、よしんば高校時代の成績が抜群でも、クラブ活動や地域社会のボランティア活動への参加経験が無ければハーバードでは入学を許可しない。この入試方法に対し、大学では“我々の方法がベストとは思わないが、今のところこれ以上の方法を思いつかないから”と応えている。つまり単なるガリ勉タイプの生徒は最初からハーバード大学の選考基準には外れている。

これは“将来のリーダーを育てる”という理念が基本にあるから取っている選抜方法で、他の理由があれば又別の手段も当然あり得る。しかし、わが国で慣例化しているペーパーテスト重視で今流行りの言い方をすれば、“若者の仕分け”をし、若者の序列を決めるような制度はもう見直す時期ではないだろうか。

ペーパーテスト重視の日本社会で頂点に君臨しているのが、いわゆるキャリヤ官僚と言われる人達だが、天下りを含めた彼らの生き方を見ていると、とても使命感を持った選良とは思えない。ここでも遺伝子のエゴは充分に発揮されていて、国家財政の危機など彼らの眼中に無く、逆に自分達の利益保護のためあらゆる手段を尽くしている。貰えるものは貰うに留まらず、取れるものは取るという積極的な関わりで、税金というただ(無料)で手に入るものに群がっているとしか見えない。日本の教育の成果が見事に集約されている象徴的な例だろう。教育が上等な人間を創らないサンプルはここにもある。

あらゆる分野でペーパーテスト至上主義の弊害を見てきているが、それでも自分の子供にこの道を歩ませようとしているのは、このうまみはまだ続くと親が考えているからだろう。

優秀な人がリーダーになり、その組織や社会に貢献するのは大いに歓迎すべきことだが、適性の無い人間がその経歴(主に学歴)故にリーダーの位置に居ても組織や国は良くはならない。何故ならリーダーには常に使命感や自己犠牲が問われ、それに応えられなければリーダーとしての役目を果たせないからだ。

ただ(無料)のものを貰うという立場から逆に、ただ(無料)でも参加するという方に目を向けると新しいことが見えて来る。

名古屋市で河村市長が、市議の給料及び定員の半減を議会に提案したが賛同した市議は一人に留まった。民主党が手本とするイギリスでは市議はボランティア活動と同じで報酬は無い。しかも市議会は夜開かれ、仕事を持った人でも会社を辞めないで市議活動が出来る。

年間平均80日程度しか開かれない市議会のため市庁舎に豪華な議場を造る必要は合理的に考えれば無い。小学校・中学校を夜間利用し、場所もその時の議題によって持ち回りで変えることも出来るようにすればいい。時折テレビ等で見る日本各地の村議会・町議会・市議会の議場の豪華さにはあきれる。第二次大戦後、イギリスでも手狭な国会議事堂の建て直しの話が出たが、かのウィンストン・チャーチルが“議場は互いの声が良く聞こえる広さがいい”と反対し、昔の儘に残っている。現在650名の定員を抱える下院議員が全員議会に出席すると座る場所が無く、階段に詰め合って腰掛けている姿が良く見られる。翻ってわが国では、立派な議場と、立派な椅子そして一人一人に名前が書かれた立て札が置かれている。その豪華な舞台装置に反し、立て札を机に叩き付け、突出して騒音を出し野次っていた長崎と北海道出身の議員に、知性や品位の欠片も感じることが出来ず、嫌悪感だけ残っているのを覚えている。権威を如何に演出しても人品の卑しさは覆えない。

“代表無きところ課税なし”という国(イギリス)では、それが旨く機能しているかどうかは別として、地方・国を問わず選ぶ方にも何らかの判断が求められる。

日本のある時代、業界(組合を含め)の代表が利権を守る為国政に参加したのも、その必要性が社会にあったのかもしれない。しかし地方・国・共に莫大な財政赤字を抱えている現在、少なくとも地方からでも変えていく必要があるだろう。政治の根本は税という財源をどういう順序で仕切るかに要約される。その優先順位に理念が無ければ社会には不満と閉塞感が広がるだろう。よく考えれば我々が今直面しているのはこの閉塞感ではないだろうか。何を言っても無駄と国民に思われるのは非常に不健康で、国の将来にとっても決して良くない。

エイブラハム・リンカーンが閣議で、彼(大統領)ただ一人賛成した法案を“賛成一名で可決”という決断を下した。東京都のある知事は“一人でも反対があれば私は橋を作りません”と言って愚衆の喝采を浴びた。結果として都政の財政を破綻させ、都の道路行政は数十年単位で遅れることになった。理念の大事さを物語るエピソードである。

地方からでも政治を市民の手に取り戻し、仕事をしながら政治に参加出来るよう制度を変えれば、幾らか良くなるかもしれない。ボランティアの精神には少なくとも私利私欲の入る余地は少なく、税の優先順位にもフェアーな判断が下せる可能性が高い。何より市の財政支出を減らすことが可能になる。イギリスで現在やっていることを日本でやれないことは無い。

ただ(無料)のものを貰うのではなく、自分がただ(無料)でもやるという方向に舵取りをすれば新しい局面が生まれる可能性がある。そこには動機として少なくとも人間の志が働く要素があるからだ。将来、孫・子から感謝され他国から尊敬される国になるには、国民一人一人がまず変るしかない。


平成22年5月11日

草野章二