しょうちゃんの繰り言


極東(Far East)の国日本

私は船関係の仕事に携わっているが、40年程前ロンドンに初めて行った時、関係先の事務所で仕事柄大きな世界地図が壁に掲げてあったのを目にした。何かが違うと直感的に思い、その地図に違和感を覚えたのは日本列島が見慣れたあるべき場所に無かったからだ。よく見ると、我が祖国日本は世界地図の真ん中ではなく右端に出ていた。その地図では当然英国が真ん中に示されてあったが、これは冷静に考えれば当たり前の話である。世界の歴史的背景、各国の近代化の歩みを考えれば、世界基準では日本を決して中心の主役の場所には置かないだろう。まして母国の地図には自分達の国が真ん中に来るのは当たり前である。

理屈では分かったとしても、見慣れないものに違和感を覚えるのは、これも又仕方のないことだ。幼い子供にとって絶対的な存在であった父親を成長したある日、客観的に見始めたのと同じ感覚ではないだろうか。

英国で、日本の世界に於ける立ち位置を私は突然気付かされたことになる。彼ら欧米人が日本の存在する地域をFar East(極東)と呼ぶ理由をそのとき初めて実感した。

欧米の世界から見れば日本はあくまで極東の島国にしか過ぎない。まして欧米の国とは人種や宗教も全く違うと言っていい。Far East(東の果て)という表現を極東と訳したのも頷ける。それは単に地理学上の定義だけではないようだ。彼らから見て、Westに居る自分達から一番遠いとこにある国という意識がメタファー(暗喩)としてFar Eastの掛詞になっているような気がする。考え過ぎだろうか。

その英国に娘が10年程前から住んでいて、長男(孫)が小学2年生として現地(ケント)の学校に通っている。日本とは大分様子が違うので取り上げてみたい。

生徒には教科書やノートも無く、子供たちは学校には手ぶらで通学しているそうだ。日本みたいに先生が教えたことをノートに取る習慣がその学校では無いという。一人の先生が全教科を受け持ち、カリキュラムに沿った評価を科目ごとに各生徒に対して下し、年2回父兄と面接して子供の進捗状況を教えてくれるらしい。

以下に要点を纏めてみよう:

教科書は無いが、National Curriculumという教える側の教師のガイドラインが存在する。

ノートは学校にはあるが家に持ち帰ることは無く、教師が生徒の進捗状況を判断する為にあるらしい。

一クラス生徒は30名程度で、一人の教師が全科目担当する。

クラスが5〜6名程度に学業到達度に応じてグループ分けされていて、教える内容も宿題もグループによって違う。

週に一度あるスペリングテストではグループによって問題の数や内容も違う。

生徒に対しては、科目毎にその学年に応じた3段階評価(a.b.c.)のどこに自分がいるかを教えてくれ、学年終了時に中間のbに達しているのが望ましいとされている。

ちなみにcが一番上位になっている。

出来る生徒には属する学年に拘らずそれ以上の課題が与えられ、評価も科目毎にカリキュラムに応じた到達学年が示される。

全生徒が自分に応じた課題が与えられ、出来る生徒も今以上の目標を目指すことになる。

宿題は週に一回出され、生徒の学力によりその難易度・量が変る。

上に述べたように、生徒に対する評価は3段階に分けた該当学年での学力到達度を示し、学年を越えてその学科が進んでいると判断されることもある。各生徒は自分に応じた学力での努力が求められ、出来る子も学年に関係なく上に向かって努力しなければならない。その結果2年生の標準が2bだとすれば、出来る子供には例えば3 c(3年の上級に評価)という評価が付けられることがあり、その子はさらに上を目指すことになる。日本と決定的に違うのは出来る生徒にはその学年以上のものを教え、ちゃんと評価しているということだ。伸びる生徒は伸ばしてやる仕組みが既に出来ている。

孫は算数や歴史に興味を持っているらしいが、基本は自分で調べ学ぶことだという。

ちなみにこの学校は普通の公立小学校だが、この地域ではかなり評価は高いそうだ。

この例をもってして英国の教育を断定的に語るつもりはないが、教え方の彼我の差の大きさに我々日本人は驚くだろう。少なくとも明治維新後に追いつけ追い越せを目標にした国との基礎教育の方法がこれだけ違う。

教科書に従って学び、授業では几帳面にノートを取ることが勉強だと刷り込まれた日本人には信じられない学校風景と写るだろう。どちらにも長所と短所があり、一方的に結論を出すことは難しい。それぞれの国で教育に何を求めているかによってやり方も変るだろうから。だが、違いを知ることで何か新しい発見があるかもしれない。

かつて書いたこともあるが、断片的に知り得た英国での例は:

白州次郎がケンブリッジで学んだ時、“君の答案は私が講義した内容をかいつまんで纏めただけだ。これではいい点を与える訳にはいかない”という教授に“それは私が求めていたものです”と白州は教授に賛意を示している。

また、外交官の試験に架空都市の地図を見せ、貴方ならどこに刑務所を作るかという問題が出たことがあった。選んだ場所の回答者の説明が評価の基準となっている。

代表的だが極めて少数の例で結論じみたことを敢えて言わせて貰えば、これらへの回答は与えられたことの忠実な再現では対応出来ない。つまり日本式教育では英国ではあまり評価されないだろう。

明治初期に日本が取り組んだ教育はまず欧米に追いつくことだった。彼らから学ぶことが全てで、所謂文献学者が珍重された所以である。当時の学ぶ姿勢としてはそれも止むを得なかったとして、そこから発展して自分の考えはどうするという視点が欠けていた。日本で人文科学の分野で突出した人材が出なかったのは、彼らと宗教・文化・言語の違いがあったとしても、学ぶことから新しい視点を見つけ出す知的作業を怠ってきたからではないだろうか。極論すれば日本では教育とは一方通行の知識の習得に終わり、従って教える側の理屈に終始した結果この分野では大した成果を上げることが出来なかったように思う。

一番いい例が英語教育だ。生きている英語をあたかも古文を教えるような方式を取っていた。教養としての必要性なら理解出来るが、英語は生きている。その観点から見れば残念ながら前にも書いたように8年間学んでも役に立たなかったというのが私たち世代(終戦直後入学)の実感だ。

歴史も言ってみれば百科辞典を覚えさせるようなもので、よほど波長が合わなければ好きにはなれなかった学生が殆どだろう。知識の習得は悪いことではないが、試験が終われば忘れてしまうような知識では何の役にも立たない。その為に費やされた若き日の努力は試験に受かったという達成感以外に何が残されたのだろう。若者の知的好奇心や向上心を高め、教えて貰ったものの再現ではなく自ら学び考えるという方がはるかに大事ではないだろうか。与えられたことを再現するペーパーテストの為の勉強では真に学ぶ姿勢は養われない。

我々が当たり前だと思い込んでいることが、実は教育を矮小化させ、人生に取り組む姿勢まで変えている可能性がある。試す方も試される側も現行の制度にあまり疑問を持たないが、それは我々が地図を見る時日本は世界の中心にあると思い込んでいたのとあまり変らないのではないだろうか。何の為に学ぶのか、人が高等教育を受けるのは何が目的なのかを教える側も教わる側ももう一度確認した方が良さそうだ。少しでも上のランクの資格を取って自分だけの幸せを追求するのであれば、何も税金を使う必要はない。結果として現行の試験制度が私利私欲の延長上に位置するのであれば、日本の教育は方向性も手段も間違えていることになる。リーダーとなるべき位置に居る人達がその役を果たしていないため我々は随所で閉塞感を覚えている。教育に於いて何か大事なものを忘れているのではないだろうか。少なくとも考える事を否定するような教育では出来上がった人間に多くを期待するのは無理だろう。

学ぶことは悪いことではない。その国の事情がそれなりの方向性を持つことも理解出来る。問題はそれで判断力のある人間が育ったかということだろう。

東の果て(Far East)でしか通用しない価値観はそろそろ変えてもいい時期ではないだろうか。

平成24年11月13日
草野章二