しょうちゃんの繰り言


知名人

第35代アメリカ大統領J.F. ケネディの子息ケネディJrが、1999年に自分の操縦する飛行機で事故を起こして亡くなった時、「有名人ということで有名だった」とケネディJrのことを表現していたアメリカのマスコミがあった。その意図に悪意があるのかどうかは別として、言い得て妙だと当時感心したのも事実だった。彼が生まれたのはケネディが大統領になる直前で、その経緯から「有名人」という冠詞は、祖父が残した莫大な財産と共に彼の短かった人生に付き纏とっていた。生れ付き富と名声を備えている家系の赤ちゃんを西洋では「銀のスプーンを咥えて生まれてきた」と表現し、我が家でも孫の誕生祝に銀のスプーンをかみさんが用意していたのを思い出した。幾らかでも身内が幸運にあやかろうと願うのは貧乏人の常だ。

富と名声は、少し山っ気のある若者なら誰でも一度は求めた覚えがあることだろう。どの分野でも大抵の場合手に入らず、「人生は甘くない」という思いを噛みしめることになる。だが、親や先祖に著名人がいれば本人の努力は少なくて済む。いささか次元は低いが、難しいとされているテレビ局には多くの著名人の子息が入社していると週刊誌に出ていた。問題を起こすのも彼らに多いらしい。この現象は何もテレビ局に限ったことではない。親の知名度が子供に生かされる例は人間社会には昔からあり、日本では「親の七光り」という言葉さえ定着している。少しばかりの富と名声はこれでも満たされる連中が居るに違いない。

「総理にしたいナンバー・ワン」と言われた男が、知事・政治家としての発言と実際の行動に、あまりにも落差があっため「Sekoi(せこい)」という日本語を世界中に広めて惨めに表舞台から姿を消した。任期途中で都民に愛想をつかされた結果、無駄な大金を掛けた都知事選挙がすぐに控えているが、新都知事候補として出馬してくる中にもマスコミ(特にテレビ)を利用した「あざとい」手法が目に余る人も居る。本人は計算して上手くやっているつもりでも、見る人が見ればお里はとっくに知れている。

父や祖父に偉大な名声と富を持たない彼らが、世の中に出てこられたのにはテレビを最大限利用した過去があるからだ。「知名度が高い」は同義語として「テレビ出演で顔と名前を売った」ということになり、そこで少し分かったような発言をすれば視聴者は容易に能力があると思い込む節がある。そうでなければあんな男を「総理にしたい」と思う筈がない。現代において学歴やテレビでの知名度が最強の尺度なら、あざとい人間がそれを最大限利用しようとするのは当然だろう。

例の口の悪い友人によれば「テレビで名を売り、出てきた政治家で大成したのをまだ見たことがない」となる。さらに彼は「自分を売り込むような奴に碌なのが居ないのは当たり前だ」と過激に断罪していた。同世代の価値観を同じくする日本人としては彼の主張は良く分かる。

表面だけを繕っている人間が何か価値あることをやれる筈がない。自分の野望だけで政治に参加するのも遅かれ早かれ選挙民に見透かされることになる。単なる個人的な野望で政治家に挑戦した例は過去に幾らでもある。本人は上手く立ち回ったつもりでも、見る人が見ればちゃんと見えるものだ。そして今回の東京都知事同様、単に恥を晒した結果になったことは現野党の元首相達を含め多々ある。そして忘れてならないのは適性の無い彼らを選んだのは選挙民だったという事実だ。その選んだ基準は「知名度」だった。

大きな民間組織のトップでも当然有能な素質を持った人材が求められるが、その背景が公共の自治体であれば、さらなる別の資質が求められるだろう。単に利益を追求する企業にあっては、やり手だが品性に欠ける指導者が出てくる可能性は幾らでもある。利益の追求という一点に特化して顰蹙を買っている企業なら今でも多数あることだろう。経済の原則を優先させ、その優位性から下請けや取り引業者を必要以上に締め付ければ、経営が傾いた時彼らから聞こえてきたのは「ザマミロ」であり、「もう、協力する気はない」という人としての本音だ。「自分さえ良ければいい」という発想は個人であれ企業であれ、長い期間受け入れられるものではない。

自分の名誉欲や野望のため政治家や地方自治体の首長をやられたのでは住民はたまったものではない。まして失脚した前知事は常に陽の当たる場所を求め、野党に転落した古巣にも見切りを付けた。その後、世間的な評価が高かったため、金銭スキャンダルで失脚した知事の後釜として急遽推薦・応援したのが、彼が離脱した党だった。しかし彼の信頼感はその党内には既に無く、彼を中心に集まった新党の議員達にも早々とその本質を見抜かれていた。世間の評価を考慮し、選挙に勝てる候補者として政党が妥協した結果の推薦だった。すべてが自分の栄達のための手段であるとしか言えない彼の行状が暴かれるにつれて身内を含め、人を利用した過去が鮮明に炙り出された。見苦しいまでの悪あがきには男の美学など無縁で、単に利口ぶりたい浅はかな人間の醜さが残っただけだった。売り物だった高偏差値大学・優秀な成績は彼の何を証明してくれたのだろう。

本当に頭が良ければ、あんな分かり切った「せこい」ことはしないだろう。ペーパー・テストの成績が良かった為、彼は優秀だと思われていたが、こういった役に立たない成績の優秀だった手合いは実社会で幾らでも見ることが出来る。学校やそこでの成績が良かろうが悪かろうが、優秀な人間は優秀だと言うしかない。
例の友人は「いい歳をして成績に拘るような人間に多くは期待出来ない」と昔から言い続けている。さらに「人としての成長の無い連中が、幾ら過去の学生時代の優秀な成績を掲げても何の保証にもならない」とも言っていた

「一流とされていた新聞社の誤報は32年間も訂正されず、隠しきれなくなるとアホな弁解に終始していた。司法試験には受かったが、何の判断力も無い弁護士が日本人兵士を対象とした慰安婦を“性奴隷”という言葉で国際的に定着させ日本を貶めた。その“拉致され、軍に強要された”と主張する慰安婦の弁護を買って出たのも日本の女性弁護士だった。日本軍による強制の事実を証明する記録は一切見つからず、また暴力的に拉致されたという慰安婦の主張を証言する韓国人も未だいない。自分の主張の中で、真実や事実を曲げることに何の躊躇もない人間は普通知的レヴェルが高いとは言わない。こういった未熟な成績優秀者が出るのも日本の教育制度に原因があるのだろう。十代後半から二十代前半の学校の成績で人生が決まるような社会の仕組みに問題があることを早く知るべきだ。ペーパー・テストを万能の尺度とするような後進国型教育制度には限界がある」
と友人はいつもと変わらぬ持論を述べている。

一方で出来上がった価値観を変えるのは容易ではない。大学のみならず小・中・高とそこの偏差値は今や細かく仕分けされていて、学習塾なしで上の学校へ進むのは難しいそうだ。塾の人気名物講師がテレビでも活躍している姿は、ある意味異常としか言いようがない。偏差値最高大学への入学は親の年収が大きな要素を占めていると伝えられている。つまり、進学塾に投資出来る経済的余裕がなければ、この高偏差値大学への進学は難しいという理屈らしい。学習塾は現在では受験産業として日本では確立されている。こういった社会現象を疑問無く認めた我々日本人は、学歴信仰という新たな宗教を信じ、ペーパー・テストの絶対的権威も有り難く受け入れているようだ。

日本で優秀とされる人材の育成は今や受験産業なしには成り立たなくなった。中には塾にも行かず高偏差値の大学に入学出来る若者も居るに違いない。正確な数値は分からないが、その割合はあくまで例外的な少数ではなかろうか。一方、田舎の戦前生まれの我々世代は幼稚園に行った子供は少なかった。小学高学年になってソロバンや習字のため塾に行く子供は何人か居たようだが、学習塾というのは高校を出るまで聞いたことがなかった。例の口の悪い友人を含めて我々は塾には縁が無かったが、そんな馬鹿な大人になったという自覚は少なくとも本人達にはない。ただ、戦前の日本で軍部を支配したのはペーパー・テスト秀才達だった。彼らが塾を出たにしろ出なかったにしろ、全てが優秀な指導者だったとは必ずしも言い切れない。昔も今も、簡単に纏めればペーパー・テストの結果が優秀だったとしても、「トップ・リーダー」としての資質を兼ね備えているという保証はない。

また、選挙民が立候補者から投票する人物を選ぶ基準は、どうしても知名度に頼らざるを得ない場合が多い。よく知った人間が立候補するのであれば判断は容易だが、多くの場合会ったことも話したこともないケースが殆どだろう。特に東京都知事となれば個人的によく知っている人物が出る可能性は少ない。
知名度の無い人物よりテレビで良く見た顔なら親近感も持てるし、少し利口そうなことを言っていればついそちらに投票してしまうだろう。まして背景となる学歴に輝かしい過去があれば簡単に優秀と見なすことになる。ある意味、これが選挙による民主主義の限界かもしれない。

人から誇りがなくなれば、自分の栄達のためだけに他人を利用する人間が出てもおかしくない。人間は他人を偽って自分の利益を求めることに対してさほど抵抗がないようだ。まさに生物としてエゴがなせる業で、そのエゴを抑えるには以前にも触れたように物心付く前からの根気良い教育で訓練するしかない。エゴの境界を「法には触れていません」と言い訳するようでは「トップ・リーダー」としての資格はない。

金が動けば利権に群がる人間は必ず出てくる。まして自己主張の強い人種の集まりである各種の議員が、例外なく富と名誉に恬淡として人物ばかりだとはとても思えない。私利私欲と同じように個人の野望だけで政治家の地位を狙ってもらっても困る。陽の当たる場所を人は求めたがるが、政治家に必要な要素は縁の下の力になる信念だ。政治は人間の利害の中で生まれた方向性の決定をつかさどり、万人が納得する解決法はない。その大事な役目は単なる個人の上昇志向や野望で断じて勤まるものではない。

そんな目で見れば必要と思われる政治家は今でも非常に少ない。政治家の質の低下は国民の質の低下と同じだ。テレビでの露出度や学歴だけで安易に選んだ結果を我々都民は学んだが、同じ過ちは何度でも待ち構えている。
結局は選挙民の質に掛かっていると腹を決め、皮相的な現象で安易に流れないことを心掛けるだけでも少しは変わる可能性がある。

将来のビジョンも無い連中がテレビで名前が売れているというだけで出てくるのは、本当は失礼な話だ。どれだけの責任が生じるのかを自覚せず、またどれだけの社会的使命を要求されているかを自覚してないような人物だけは選ぶべきではないだろう。

「民主主義もやり方次第で利点は幾らでもある」と例の友人は言っていたが、取り敢えずまともな人物を選ぶことから始めるしかない。

知名人でも無名人でも、じっくり見てみよう。老人には幸い暇な時間なら幾らでもある。

平成28年7月11日

草野章二