しょうちゃんの繰り言


人の評価

プロ野球界の長嶋茂雄氏と松井秀喜氏の同時国民栄誉賞の授賞式が5月5日子供の日にテレビで公開された。野球を知らない人達でもこの二人の名前は知っているほどのスーパー・スター達だ。偶然にも長嶋氏が活躍した1959年の天覧試合を後楽園で観戦していた私にとっては、時代の変遷を感じると共に感慨深いものがあった。長嶋氏の国民栄誉賞はむしろ遅すぎたのではないか、という疑問を持つ人が多いに違いない。記録上の数字では説明出来ない何かが長嶋氏のプレーには確実にあった。野球に対するひたむきな姿勢と躍動感溢れるプレーは国民を魅了し、彼がミスター・プロ野球と言われた理由が良く理解出来る。彼の受賞に関しては国民の大多数は納得しているだろう。今回の国民に公開された授賞式は、演出の下手な国民性と言われているが、なかなか良かったのではないだろうか。

また、松井氏の授賞式でのスピーチは心に響く大変いいものだった。彼の人間としての素晴らしさが短い言葉で良く伝わってきた。誰にも愛される彼のエピソードは多くもれ伝わって来ていたが、直接彼の言葉を聞き納得がいった。立ち振る舞いも偉大なる大先輩長嶋氏の半歩後の立ち位置で、決してでしゃばる事なく好感が持てた。日米を通じて同僚が彼を認める理由が良く分かった。ともすれば「俺が、俺が」という人の多いプロ球界の中で、今回選ばれた二人は文句のない人選だったと個人的には思っている。松井氏が言うように記録的には上の人がいるかもしれないが、国民栄誉賞に相応しいかどうかは別の問題だ。

野球選手でありながら現役時代に財テクに走り株で莫大な借金を抱えた人や、年俸更改の度にもめた大物選手等、うんざりする人は多く居た。彼らはフアンに夢を与えるのが仕事で、その恵まれた才能を専門の分野で存分に国民に披露してくれれば国民は拍手と賞賛を惜しまないだろう。勿論、そういう選手が多かったと思うが。

随分昔の話になるが、確か日本は1968年のメキシコ・オリンピック大会でサッカーが銅メダルを取り、その時フェア・プレー賞を貰ったと記憶している。当時はアマチュア選手しか参加資格がなかったのでこの試合結果が当時のサッカー界の世界的水準を反映したものではないだろう。ただ、オリンピックでフェア・プレー賞を貰ったのはもっと認められていいのではないだろうか。

勝負事に関しては色々な判断があるので一概には決め付けられないが、選手が「正々堂々と戦います。」と宣言しているような場合、少なくともルールは絶対守られなければ意味が無い。かつてサッカー狂を自称している男に提案をしたことがある。日本選手はどんなことがあっても絶対に違反をしないという方針を徹底して貫いたら、国内はもとより世界的人気がもっと出ると思う、という私の主旨に通を自認している彼は「そんな甘い考えは世界では通用しない。」という返事だった。審判の目を盗んで如何に相手の攻撃を防御するかが技術の見せ所で、かつ如何に上手く倒れるかも技の内だと解説してくれた。平易な言葉で言えば、審判がファールと宣言しない限り違反しても問題ない、という事だった。そんな姑息な手を使ってまで勝ちたいのだろうかという疑問には「試合の勝敗には選手の報酬が掛かっているから」というのが彼の説明だった。そういえば「年間15勝挙げて10年プレーするより、10勝して15年プレーした方が経済効率がいい。」と嘯いていた投手がいた。彼はついでに「今の15勝は昔の20勝に匹敵する。」とも言って失笑を買っていた。評論家が言うなら兎も角、現役の当事者が言う言葉ではないだろう。金が絡むと人間の地が良く見えるのはどの世界でも同じだ。成績はあくまで力いっぱいの活躍で出た結果でなくては人に感動は与えられない。長嶋氏や松井氏の生き方とは反するもので、幾ら能力があっても国民栄誉賞の対象にはなり得ない。

スエーデンのテニス・プレイヤー、ビヨン・ボルグは審判の判定に一切抗議をせず、淡々と試合を続行し、コートの哲人と呼ばれていた。若い頃はかなりの癇癪持ちで判定に文句をつけていたらしいが、自分である時決断し、それ以降は不利な判定でも黙って受け入れたという。数々の優勝で国民的英雄となった彼だが、引退後税金の無いモナコに移住し、国民の顰蹙を買った。コートでの姿勢を人生で貫けばもっと評価を受けたと思うのだが。

スペインのサッカー界でも常に優勝争いに絡んでいるチームが最近地元の新聞で叩かれていた。王者らしくない選手達の試合態度を指摘していて、品格の欠如を嘆いていた。ラテンの血は勝てばよしとして盛り上がる、と決め付けていた私には意外だった。本来応援原稿しか書かない地元紙が見るに見かねたのだろう。儲ければ何でもありとする現代社会に疑問を持つ人が出てきたのも頷ける。

願わくば、我が日本選手はあらゆる違反をしないことを前提に試合に臨んで欲しい。そうすればもっと感動が生まれるだろう。ただ勝つことだけがスポーツの目的ではない。スポーツマン・シップを是非日本から広めて欲しい。貯めた金の多寡で人の値打ちが決まらない事を考えれば決して難しくない。

40年以上前、私が外国企業の日本事務所に勤務していた時、事務所の代表だった外国人の名前を呼び捨てで「xxは居るか?」と、まるで部下に詰問するような横柄な電話が掛かってきた。「どちら様でしょう?」という私の対応に会社名は名乗らず「xxだがね。」と彼は応えたが私は引き下がらなかった。彼のことは知ってはいたが「どちらのxx様ですか?」と聞くとしぶしぶ会社名を告げた。彼は、後に国会に喚問され、猛烈社員の賛辞とその会社での役員の地位も無くしたが、私から見ればさもありなんという感想だった。客筋に当たる会社に電話する態度ではない。そう言えば彼の部下も似たような態度だった。人はあらゆるところ、あらゆる時に評価を受けている。横柄な彼は会社では優秀だと言われていたが、どこかで基準が狂ったのだろう。一過性の利益や成功で慢心する人間なら幾らでも居る。思慮の浅い人間の陥り易い罠とも言えよう。普遍的な評価とは縁のない人達は、そういう生き方しか出来なかったとしか言いようがない。いずれ消えていく人達だ。

日本には“恥の文化”というものが社会生活の根底にあって、心ある人間は常に自分の行動を自制していた。似ているようだが隣国の“面子”とは多いに意味が違うように思う。特にこの理念は指導的立場の人には求められる基本的な要素ではないだろうか。誰にも恥ずかしくない行動を取ることが常に求められ、大事な行動規範だったが現在はどうだろう。

銀行の評価なら資産の多寡で決まっても、人間の評価は違った尺度が必要だろう。英語にも“恥を知る”という表現があり、最近アメリカの大統領オバマ氏も提出した銃規正法案が議会で否決された時に使っていた。銃による事件・事故が多発していてそれでも銃規制に立ち上がらない議会にいらだった為だろう。アメリカの建国の歴史が“自分の事は自分で守る”という自立の精神を国民に植え付けたのだろうが、21世紀の今、国民は銃武装までして自己防衛をしなければいけないのだろうか、とういう疑問は国民の間からも出てきている。根底にライフル協会からの政治家に対する寄付があるとすれば、オバマ氏の苛立ちも納得がいく。

それぞれの個人の主張や選択には充分な理由があるに違いない。必ずしも同じ方向に進む必要もないだろう。ただその基準に万人を納得させるものがないと共感は得られるまい。少数意見でも時として目を見張るものがある。それは背景に存在するものに多数が気づかなかった事を指摘している場合だ。目先の損得で物事を決めてもいずれその整合性は破綻を来たすだろう。磐石の哲学があった時、人もやがて気がつき認めてくれる。

たかが野球でこれだけの感動と共感を国民に与えられる事を国民栄誉賞のお二人は証明してくれた。自分の道で全力を尽くせば人は素直に評価する。不労所得で稼いでも、医者や弁護士の評価は上がらない。天下りの数や、退職金の総額で官吏の評価も上がるわけではない。長嶋氏はサッカーJリーグが始まった頃、ライバルの地に自ら赴き盛り上げに一役買っている。そこで「サッカーも野球も共に繁栄しよう」というメッセージを残している。観客の奪い合いで危機感を持ったプロ野球界でライバルにエールを送ったのは長嶋氏一人だった。ここに彼の偉大さがある。

何をやっても他人の評価は直接の打撃にはならない。むしろそれなりの立場に立つと軽視し無視する傾向がある。特に自分の背景に後ろ盾になる何かがあると人は不遜になり易い。しかし自分の選択の仕方で方向性は幾らでも変えられる。後ろ盾には色々なものがある。天下りの場合、官・民を問わず自分の出身母体が大きな盾になってくれる。人によっては出身学校も意味を持つだろう。個人資産は金融機関を相手にする時効果がある。難しいといわれている国家資格を取るとそれも無条件に後ろ盾になってくれる。我々がそんな基準で動かされ、社会がその程度の基準でヒエラルキーを築き上げたのなら、更なる発展は難しい。

プロ野球という実力の世界で生き、自分の力だけが頼りで生きた二人には何か人を魅了するものがあったのだろう。肩書や社会に有効な証明書をお持ちの皆さんも考えてみてはどうだろう。いつまでも学生時代には長嶋や松井より俺の方が成績優秀だったと主張しても誰も耳を貸さない。人の評価は別の所にある。

平成25年5月7日

草野章二