しょうちゃんの繰り言


私達が受けた英語教育
(英会話の下手な日本人)

戦後始まった6・3制の義務教育では中学から英語の授業が始まり、好奇心旺盛な子供達は初めて接する外国語に目を輝かせていた。私が英語を学び始めたのは昭和20年代後半のことである。

しかしその目の輝きも試験が重なる度に曇り、その内生徒達は英語を暗記科目として捉え期待した英語も他の暗記教科と何ら変らない退屈なものとなっていった。

日本人には馴染みの無い冠詞を付け忘れただけで点が貰えず、一箇所単語のスペルを間違えただけでもせっかく作った文章全体が点を貰えなかった。教師達はミスを探し、正解でないと絶対に評価してやらないという姿勢だった。この方法でそれなりの成果あったとしても、これでは子供の目の輝きが無くなるのも無理はない。

「傾向と対策」風に試験に対応するとすれば、教科書を丸暗記するしかなかった。初期の外国語学習過程では、そういった手法も必要であることは認識出来、許容出来るが、義務教育の英語学習は英文学者や英語の専門家を養成する目的で選ばれた科目では無い筈だ。

およそ日常からかけ離れた教科書の内容を一字一句暗記するというのは、子供にとって興味が湧くものではなく面白い事でもない。どんな科目であれ、生徒に興味を持たせることが教育の第一歩ではないだろうか。

まず日常的に目に触れるもの、食べるもの、動くもの等々を英語でなんと言うのかを子供自身に調べさせる事から始めれば子供は目の輝きを失くさなくて済んだと思うのだが。

いつも食べている物や遊んでいる物を自分で調べさせれば子供は興味を持って自分で学習するようになるだろう。友達同士新しく知ったことの情報交換も出来るし、自然と競い合って憶えるようにもなるだろう。台所にある物、通学途中にある数々の店、文房具等々の名前も好奇心を刺激して積極的に憶えようとするかもしれない。こうやって自分で積極的に憶えたものはなかなか忘れないものだ。

赤ちゃんは生まれた国で話されている言葉を自然に覚える。彼らは目に見え、触れるものから覚えてゆき、段々と観念的な事も理解するようになる。幼児期の脳は耳にする日常的なことからまず単語として覚え、それが組み合わされて自然と言葉として話すようになる。幼児期の脳の働きは大人の脳と違って言語を吸収し、自然と覚えられる仕組みになっている。成長と共にその機能は衰え、中学生ともなれば学習しないことには新しい言葉はなかなか憶えられない。ただ記憶力という脳の働きは若い時ほど圧倒的に優れている。若い時は新しいものを吸収する力が脳に自然に備わっている。

その若者達に外国語を教えるには、まず興味を持たせる事から始めた方が、効率がいいと思われるのだが。

歴史教育についても、訪ねた経験の無い土地での出来事より小学・中学レベルでは、まず自分の住んでいる地域の歴史を学ぶことから始めれば生徒の興味はより拡がると思う。

しかし教科書がある程度全国的に統一された教育制度の下では、試験に出る問題にあまり地域によって凹凸が出ないような配慮がなされているため、教師は独自の地方色を出せないのかもしれない。

義務教育は教育の最終過程を担っているのではない。どっちの方向へ進むかまだ決まってなくて、何を選べばいいのか分からない子供達に基本的なことを教える場所なのだ。

教え方によって学科に対する好き嫌いが出てきて、私の経験によれば勉強嫌いの子供は当時の学校が作り出していたように思える。

アプローチ次第では英語も歴史も面白く学べるし、子供の好奇心は常に何かを待ち構えている。現行ではどういう教え方をしているのか知らないが、私達の頃は残念ながら概ねどこでも無味乾燥かつ実用的でない英語の授業をやっていた。中学で3年間・高校で3年間、そして大学で2年間の都合8年間英語教育を受けていた人でも、海外のホテルやレストランでの簡単な用を足すことさえ叶わないのが現状だった。

実用に適応出来る英語を教える能力が英語教師に欠けていたのが大きな原因だろうが、それ以前に、あらゆる学科の修練度をペーパー・テストでチェックし、その結果を生徒の仕分け方式に矮小化していることが英語が出来ない根本原因だろう。

どういう教え方かは別として、教える側の理屈で一律に生徒を定められた方式で選別し、関門(試験)をくぐり抜けさえすれば次の段階(学校・会社)に進める制度は見直す時期に来ているのではないだろうか。

足の速さや体の敏捷さには生れ付きのものがある。歌の上手さも同じだろう。絵の上手さや字の上手さにも生まれ付いたものがありそうだ。

こういた事に係わる科目(体育・音楽・図工絵画・習字)は何も点数を付ける必要はない。我々の時代は強制配分方式で通信簿が作られていたが、こういった科目で子供に学校が駄目だしをする必要もない。駄目だしを受けた生徒がこういった教科に興味を失くするのは当たり前のことだ。情操教育に点数は必要ない。また、体育や習字は出来る生徒を褒めるだけでいい。出来ない子供に駄目だしするのは、絵や音楽の楽しさを永遠にその子供たちから奪うことになり兼ねない。

大学の共通一次試験が日本で始めて実施された年、日本に駐在していたアメリカとイギリスのジャーナリストが英語に挑戦したが二人共発音の問題で間違えたという。

彼らにさえ判断のつかない問題を出している試験官は何を試そうとしているのだろうか。試験する側の意図は何だろうか。

通訳・ガイドの国家試験のあり方を東京都の猪瀬副知事がかつて問題にしたことがある。毎年、最初から合格する人数(定員)が決まっていて落とす為の試験になっていることに疑問を投げ掛けていた。私も大学時代受けたことがあるが、聞いたことも無い寺の名前や僧侶の名前が出てきて、途中で馬鹿らしくなり試験場を出てしまった経験がある。ここにも傾向と対策が必要で、過去の問題を丁寧に予習していなければ絶対受からないような仕組みになっていたそうだ。試験する側の都合で全てが仕切られていて、落とす為の試験で決して優秀な通訳・ガイドを求めている試験内容ではなかった。

20年程前読んだある本に出ていたが、イギリスの外交官試験で架空都市の地図を見せ、“あなたならその都市の何処に刑務所を建てますか?”という出題があったそうだ。勿論受験者は選んだ場所に関して自分の意見を書き、その主張した内容が採点の対象となる。皮相的なことを憶えさえすれば受かる日本の試験制度とは本質的に違うことを知り、驚いたものだった。

また、外交官試験は自分の専攻した専門の教科で受けることが可能で、哲学・歴史・神学と自由に選択出来たらしい。法律が必須科目でないことに著者が疑問を投げ掛けると“ここ(外務省)に来れば嫌でも毎日取り組み、学びます。大学で学んだ程度では対応出来ません”という答えがあったと、その本に出ていた。さすが大人の国である。

先日テレビのバラエティー番組で、日本語の達者なハーバード大学卒業という肩書きを持つアメリカ人が“日本では「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは何年か?」という問題が出るが、アメリカでは「コロンブスがアメリカ大陸を発見したのは良かったのだろうか?」という問題が出る”と試験のあり方の日米での本質的な違いを指摘していた。

英語教育を日本式語学と位置付けるから、英・米人のジャーナリストでさえ答えられない問題を出題するという、おかしなことが起きるのだろう。そんな問題は発音学を専攻した専門課程で出せばいいだけの話で、一般の大学受験生にそこまで難問を憶える負担を掛けさせるべきではない。

まして義務教育では“言葉”として教えるだけで充分で、さらに興味のある生徒が上の過程で学べばいいだけの話だ。

少々言い回しや発音に問題があっても私達はその外国人を何の問題も無く受け入れている。これだけ瑣末なことに拘ってテストを続けた結果、外国で簡単な日常的な事にも役にも立たず、発音のテストではいい点を取った筈なのにしゃべる事さえ出来ない“英語の出来る”人間を社会に送り出している。

発音の下手な高校時代の英語教師は“君達は通訳になる為英語を学んでいるのではない”と口癖のように、今では差別と捉えかねられない主張をしていた。お陰で外国のホテルやレストランで役に立つような生徒は育たなかった。彼の高い志(?)の通り確かに通訳になった同級生はいないが、そうかと言って全部が英文学者や英語の専門家になった訳でもない。それでも高校時代英語の成績の良い生徒は何人かいたが、ただそれだけのことで特別その方面で活躍したという話は聴いたことが無い。

ヨーロッパやイギリスでは神学やラテン語の科目がその日常的実用性の無さから廃止を検討されたことが何度かあるが、教養科目として必要だとの意見が勝って今でも残されている。実用性があり、必要だと思われたから戦後英語が日本の義務教育に組み入れられたのだろうが、何故か日本流に変質して役にも立たない“語学”の地位を長い間守って来た。

大学までに8年間も学べば就職して即戦力としてすぐに役立ってもいい筈なのに、アジア諸国の中でも日本人学生の英語力の評価は低い。教え方に問題があるのは当然として、学ぶ方も辻褄合わせに迎合した結果だと承知するべきだろう。今では教育方法が見直されているようではあるが。

国語の成績は良かったがちゃんとした文章を書けない人、英語の成績は良かったが聞くことも話すことも出来ない人が世間には沢山いる。それでも試験の成績さえ良ければ一流と言われている大学に進学し、一流と言われている企業に多く就職している。こういった身内(国内)だけで通用する価値観にはそろそろ見切りを付けるべきだろう。コロンブスがアメリカ大陸を発見した年代は幼稚園児でも憶え、それを正確に答えることが可能だが、“それが良かったのか”という問いにはそれなりの判断力が備わらなければ答えることは出来ない。根本が変らなければ、与えられたことの再現だけをチェックする方法では優秀な若者は育たないだろう。

そういう私は国語も英語も高校時代の成績は並だった。

平成24年10月22日

草野章二