しょうちゃんの繰り言


教 育

通常、子供は個人差が幾らかあっても、おおよそ三歳位で会話になる言葉を話し始める。私の二人の孫達は、たまたま英国で生まれ現地の幼稚園と小学校に通っているが、日本人の両親のもとで家では日本語を話し、地元の学校や友達の間では英語を話しているらしい。これは我が孫達に特殊な能力が備わっている訳でも、その親たちの努力で二ヶ国語会話が可能になった訳でもない。子供達はそこで使われている言葉を自然と学ぶ事が出来る。幼児の脳は誰でも普通その程度の能力は持っているそうだ。ヨーロッパの国では隣接した国の言葉を話すことは良くあることで、スイス人やベルギー人にはバイリンガルが多く、それを誰も特殊能力だとは思っていない。アメリカの「ウエブスター辞書」を作ったNoah Webster は子供の頃に、確か三ヶ国語が日常的に話されている家庭で育った、と何かの本で読んだ記憶がある。記憶に間違いなければ英語・ドイツ語それに北欧の言葉だったと憶えている。南北戦争前のアメリカでは移民の家族がそれぞれ出身の国の言葉を家で話すのはあり得るし、三ヶ国語使った可能性も充分あり得る。それでも幼児期のウエブスターはちゃんと使い分け、両親や祖父のそれぞれに違った言語を理解していたそうだ。

この結果判るのは、どんな幼児でも言葉は自然と覚え、その為わざわざ特殊な訓練所に行くことはないという極めて当たり前の結論だ。この言葉に関する乳幼児の学習能力は大人にはとても真似の出来ないことで、言葉を自然と覚えるのは幼児期の脳の偉大な特性だ。彼らは日常の周囲の会話から言葉を学ぶことが出来る。大人にも可能だが、歳をとるに従いこの能力は落ちるらしい。日本語だけで育った我々が英語を学んだ時苦労したのも頷ける。我々成人が全く未知の言語世界に置かれた時、幼児のように自然と数年と言う短期間で習得し理解することはまず不可能だろう。幼児の脳は我々の想像を絶する能力を持っていると認識すべきだ。

幼児期に頭に入った母国語を基本に、子供達は学校で国語を含め色々な科目を学ぶことになる。学校で話される言葉は、小学校に入学する6歳までに既に子供が自分で習得してきたものだ。この極めて一見当然とも思える現象から、言葉を含め子供が如何に周囲の事に関心を持っているかが推測出来るだろうし、大人以上の好奇心を持って生きているのが良く理解出来るだろう。そうでなければ生まれて6年の間に意味のある言語を話す事は無理だろう。

従って教育の原点は、こういった子供の脳の特性から子供の好奇心に応えることから始めれば、より彼らは学ぶことに興味を持つだろう。“何故?”という子供の質問はどんなことが対象であれ、生れ付き学ぼうとする本能を彼らは持って生まれてきていると解釈した方が合理的だ。“何故?”と言う質問に適切に答えることで彼らの知的好奇心をさらに刺激することが出来、その連鎖の延長線で、成長と共に蓄積される知恵が彼らの更なる学ぶという意欲を充実させることになると思う。その上で単に字を書くとか、英語の発音といった機械的な学習と同時に、幼い頃から基本的な善悪の判断、それに社会の規律やマナーを教えるべきだろう。人間にとって何が大事かも良く吟味して子供に身に付けさせて欲しい。子供に考えさせ、彼らに結論を出させるべきだ。私の経験からしても、そうやって身に付いたものは終生変らないものだ。

教育の方法論は色々論議されているが、基本は子供の持つ能力を引き出すことにあると信じている。一教師の先入観で子供の可能性を限定することは慎むべきで、親を超え、教師を超える子供を育てるのが親や教師の本来の目的であり、また教えること一般の醍醐味ではないだろうか。そのために親や教師は何をやればいいのか、もう一度洗い直してみる必要がある。小学校から塾に通わせ、少しでも所謂いい学校に子供を入れることが親の務めで、それが“まともな教育だ”と言えるのだろうか。名前の通った学校に一人でも多く生徒・学生を入学させることが教師の最終目的だろうか。国際化というのは子供の頃から英語を学ばせ、それを話すことが出来るようになれば達成出来るのだろうか。時間と金をつぎ込んだ結果出来たのが今の成人であり、その成果としてあるのが今の社会だとすれば、見方によっては日本式教育は失敗だったとも言える。我々は、小学校から始まる教育の過程のなかで、どこかに大事なものを忘れてきているのではないかという思いがしてならない。

日本で延々と伝統的に続いている、教えたものの正確な再現を評価する教育では決して自分で考え、方向性を見つける能力は養われない。正解のある問題にしか対応出来ない教育には限界がある事をもう知るべきだ。まして学ぶことの本質やその真の目的・価値が現在のように歪められている時、社会を担うリーダーの養成は到底無理だろう。入学試験問題に対する対処療法的にディテールを詰め込み、要求されたものに応えていく訓練では忍耐力の養成には幾らか効果があっても、ものの本質を見極める目や大局的な判断力が養われる事はないといっていい。足切りの為の、簡単かつ公正な手段が現在の試験制度と考えれば納得はいくが、残念ながらそうやって入った最高学府でも学内では同じパターンのペーパー・テストと言うハードルが待っている。そのハードルを越し、いい点を取りさえすれば優秀な学生として世間は認めている。つまり正解があって、それを短い時間により多く答える能力のテストは、そこでも繰り返えされている。こういった方法で人は学び、また選ぶ事も出来るが、これでは視野の狭い、予定調和の中でしか能力を発揮出来ない学生を生み出すだけだろう。若者はもっと可能性を持っている事に教える側も早く気が付いて欲しい。

一貫性の無い主張を平気で出来る政治家、自己矛盾の発言に気が付かない評論家、普遍のスタンスを持たないジャーナリスト等々、目に付きやすいところでも知性と理念の欠如は度々見られる。政治家を多数輩出している政経塾の出身者が果たして創立者の精神を受け継ぎ、政治家になるだけの理念と知性を具えているのだろうか。市民運動家あがりの政治家や、名門・高学歴を誇る政治家が首相の時、何が出来たのだろう。上昇志向満々のお歴々が政界で成し得た事は何だろう。他にも国民の期待と負託に応えられた政治家は果たして何人居たのだろう。政界の実力者として豪腕を振るったとされる政治家の主張に理念や一貫性があったのだろうか。

ここ数年日本は随所で破綻が見られた。東日本大震災でも時の政府は適切な手が打てなかった。その最大の原因は単に治世者に能力が無かったと結果を見れば断定出来る。政治は上昇志向や個人の野望だけで活性化するものではない。これだけの高学歴者を毎年生み出している日本なのに、いつまでも、あらゆる分野で馬鹿なことが繰り返されている。元東京都知事が言うように“劣化している”という表現が一番適切ではないだろうか。適性の無い人間を選んだ責任は当然国民にもある。その事を含めての“劣化”という彼の表現だろう。心ある人はそう思っているに違いない。

官庁や、一流と言われる企業内でも高等教育の成果は表れていないことが多過ぎる。たぶんこれは日本だけの現象ではないのかもしれない。経済最優先の物差しが物事の判断を狂わせ、その結果として儲ける為なら法律に違反しない限り何でも許されるという風潮が人間を下品にさせたのだろう。何のための高等教育だったのか誰も気にしなくなり、人生の成功者は溜め込んだ資産の額で評価されるようになったのではないか。この程度の判断ならいつもの友人が言うように金融機関の貸付係りに任せておけばいい。

我々日本人は古くから然るべき立場の人には然るべき敬意を払い、彼らには「先生」という尊称で報いていた。かつてその対象だった学校の教師や医者のみならず、随分前から代議士を呼ぶときにも用いているようだ。弁護士も仲間同士で「先生」と互いに呼び合うことを何度か耳にした。ついでに言うと盛り場でピアノやギターを弾く芸人も「先生」と呼ばれている。芸能界でもそう呼ばれている人達がいる。日本式慣習に従えば「先生」と呼ばれる一群の彼らはやはり敬意を払うべき人達なのだろう。だとしたら、然るべき立ち振る舞いで「先生」の尊称に値する事を、国会議員を始めとした彼らは我々庶民に示さなければならない。どうも無知な我々は他の先生方にはいざ知らず、楽器を弾ける人には既に無条件に敬意をはらっているようだが。

アメリカでの9・11事件は、その背景に過激イスラム一派の「反アメリカ」という政治的動機があったとしても、宗教・国を超えて一般的には国際社会ではなかなか受け入れられない出来事だった。ただ、あの事件に攻撃側として参加した人達は、自分の生命を賭けて事を成し遂げるという覚悟に、彼らなりに完結出来る信条があったのだろう。その確信的信条は宗教を含めた教育に根がある。攻撃を受けた側や、第三者から見れば狂気の沙汰としか言い様がなく、当時の大統領をして“これは戦争だ”と国民に言わしめていたが、自爆で死んだテロリストは彼らなりに死を覚悟で挑む信条とそれを教え込んだ教育が背景にあった。人間は21世紀の時代でも教育次第ではこのような不条理と思える事を平気でやれるようになる怖さを持っている。

国境も宗教も越えて互いに持てる共通の価値観があると思うのだが、歴史を見るとそれが簡単にいかないことが良く分かる。特に宗教は、根は同じでも常に身内でさえ争いごとの種には不自由していない。国が違い、そこに国家レヴェルの利害が絡むと我が平和を愛する日本国民でさえそのトラブルに巻き込まれる。そこには「平和的な話し合い」などという人間の理論は通用しなくなっている。ありもしない事を事実として捏造し、声高に国際社会で喚き散らす様は、哀れと吐き気を催すくらい不快なことだが、それでもそれに組する連中がマスコミを含めて日本にも居る。

子供のいじめが気に入らぬ存在の疎外であれば、これは大人社会でも通用する方式だ。トラブルの根を抱える集団は排他的な性向に原因があり、それは国別のトラブルでも見られる。意見・信条の違いくらい普通に認められる人間を教育は生み出せないのだろうか。他の宗教を邪宗教と決め付ける姿勢など正に子供のいじめそのものだ。本来なら寛大であるべき宗教の世界でもこういった傾向が見られる。

未熟な子供の判断はまだ成長過程の試行錯誤と認めることも出来るが、少なくとも教育を受けた人間や、組織や国を代表する人達には子供並の判断では困る。奥行きのある格調高い判断であって欲しい。

教えたことの再現ではなかなか品格まで手が届かない。知人の哲学教授が言っていた“考えるという事を考える。学ぶという事を学ぶ。”という言葉は禅問答のようだが、今の教育のあり方に一石を投じているように思える。根底に何故考えるのか、何故学ぶのかという基本的な問題が提起されているからだ。その基本姿勢が出来ていれば少しは恥ずかしくない判断が出来そうだ。

断片的な知識の集積も無駄とは言わないが、“何故人は学ぶのか”という命題に真剣に取り組めば、前都知事に“劣化している”と言われない人間が出来る可能性はある。

教育を今一度皆で考えてみたらどうだろう。答えはそこにありそうだ。

平成25年6月5日

草野章二