しょうちゃんの繰り言


友人の経済学

例の友人が家賃と生活費の安い場所を求めて移住すると伝えて来た。こうなった背景には色々な不条理な事情がある事を、私も彼から聞いて承知しているが、彼等夫婦とて、貯えが無い状態で年金が少ないからと言って、霞みを食って生きるという訳にもいかないだろう。ただ、どんなに困っても泰然としている彼が、私には羨ましくもあり、また一目置く理由でもある。彼の話すこれからの生活設計が面白かったので紹介してみよう。

生活する場所は、海に近い農村で、格安で家が借りられることが絶対条件だとのこと。出来たら老夫婦が食べる程度の野菜を季節に合わせて栽培する菜園も欲しいそうだが、これも金を使わないで生きるために必要な条件だと言う。

海も、小さくてもいいから食べられる魚が岸壁から釣れることを望んでいる。これも魚をただで手に入れるためだ。かつて釣りを趣味としていた彼の経験から出てきた発想で、私も昔随分お裾わけで美味しい魚を貰ったものだ。

彼が出来る金になる仕事としては、近所の包丁を研ぐくらいだという。代金は要らないから、野菜や魚で清算して貰えば一切文句は言わないそうだ。この技も、釣った魚を処理した時の経験らしい。その為、包丁も数多く揃えていて全て自分で研いで手入れしていた。彼によると、包丁が良く切れないと野菜や魚(出来た料理)が旨くないらしい。

また、英語を習いたい子供が居れば、同じような授業料の清算で教えたいとも言っている。支払いは魚が獲れた時や、野菜や果物を収穫した時でいいそうだ。それぞれの支払いの量に関しては、一切お任せで文句を言わないと笑っている。

「金を使わないで生活する方法を考えていたら、極めて単純な自給自足という結論になったという事だよ。通貨が出来る以前、人は交易を全て物々交換で清算していた。人類にとってはこの方式が貨幣経済より遥かに長い歴史があり、むしろより馴染み易いのではないかとさえ思っている。この歳では完全自給自足も叶わないが、出来る事だけ夫婦で挑戦するつもりでいる。彼女にはまだ同意は取って無いが」

どこまで本気か分からないが、「俺には他に選択肢が無いから」と付け加えた。世の中の評価が全て貨幣の量によって計られる現代では、彼の評価はゼロに近い。実際、金融機関なら間違いなく彼にそういう評価を下すだろう。しかし、私にとって彼は金では計れないほどの価値がある。

「現役で仕事をしていた頃、客筋への接待として飲み代、ゴルフ代は我々世話になっている業者の負担だった。従って接待されるサラリーマンにとって、銀座のクラブを含め高級飲食店やゴルフ等は全て無料だった。各企業が会社名義でゴルフの会員権を持つのもそのためだ。良し悪しは別としてこれは日本での長い慣習で、これを上手く捌けなければ“忠臣蔵”の悲劇に繋がる」

余談になるが、確かにこのドラマは世間知らずの田舎の殿様が、上司にあたる意地悪な吉良上野介に江戸城中で刀を抜いて切りかかることから始まる。事実はともあれ、接待の方法とその経済的バランスの悪さから、吉良上野介が浅野内匠頭を理不尽にいじめた事が発端だった。逆に捉えれば現金を含め、お世話になる上司(客)には武士社会でも日常的に贈答が慣行化されていた事が背景に無ければこのリヴェンジ劇は成立しない。ちなみに余談がさらに続くが、吉良上野介は地元の三河国では名君として未だに名声を保っている。ドラマは多くの演出が加えられていて史実を示すものではない。後の小説家が取り上げた明治維新の志士達も、人気の坂本龍馬を含めてあくまで書いた小説家の創り上げた像と考えた方がいいだろう。ドラマや小説は忠実な歴史の再現ではない事が多い。

「お世話になった方々へのお中元・お歳暮の贈答は我が国の伝統ある美風として未だに残っている。客筋に対する接待も、民間企業ではごく当然の習慣として今でも盛んに行われている。そこには当然節度という基準があり、心ある人たちは行き過ぎない様に注意している。ただ接待とは違うが、経済の流れでの気遣いが行き過ぎると宣伝・広告費を払っているスポンサーには遠慮してマスコミが批判的な記事や意見を言わなくなり、ジャーナリストとしての視点が無くなる事にもなりかねない。さる団体の新聞は、全国的に既存新聞社にその印刷を任せていることから、その団体は新聞ジャーナリズムに批判される事も無い。つまり、自由を謳い、権力への挑戦を使命とすべきジャーナリズムは、どの世界に生きていてもその言論活動の範囲は自分の属する組織の利害関係によって左右されている事が多い」

なるほど彼が指摘したかったのは、正に金の支配で雁字搦めになっている現代社会の閉塞性の実態なのだろう。教育は個人の自由な発想と不合理なものへの批判精神を育てる事になっているが、実社会の現実は互いに三すくみの原理が働いていて殆ど変わる事はない。一流と言われている新聞社さえも、内部の事情で自由に物が言えなかった実態が最近明らかになった。この社では強く打ち出された社の方向性を、内部の個人だけでは変える事が出来なかった。また、反省するにも第三者の力を借りて検証している。今まで主張していた事を含めて、とても高等教育を受けた知性ある集団と捉えるには多くの疑問符がこの社には付く。

「古稀まで生きて分かった事は、残念ながら大きな流れには逆らっても流されるという事実だけだ。そういう意味では“情に竿させば流される”と言った“草枕”での漱石の発言は名言としてこれからも残るだろう。但し、この次に続く彼の言葉は“とかくこの世は住みにくい”となっている。特にこの“情”に関わった金の多寡で判断さられる場合、知性や理性の出番は殆ど無くなるだろう」

この作品が書かれたのはおおよそ100年以上前(正確には109年)だが、この程度の時間の経過では人間社会の本質は何も変わらないのだろう。だとすれば、友人の究極の選択である金の力が及ばない物々交換の世界は試みるには価値があると思えて来た。経済学者や経済評論家と称する人達が、日本のバブルも、リーマン・ショックも事前に読めなかった事で友人の彼等に対する評価は極めて低い。彼等の言う事より、友人の言う事の方が私には説得力がある。

「大きな社会とか国単位では貨幣経済が必要な事くらい分かっているが、俺達夫婦二人ならどうでもいいことだ。金や資産が無いからと悲観しても始まらないし、やれることをやるしかない。だが、物は考えようで多くの人達が物々交換の習慣を取り入れれば、新しい社会と新しい価値観が出現するのではないか。下手に金に換えるから税務署も煩いが、物々交換で上手くゆけば税金もそんなに要らないかもしれない。元々貨幣自体には金貨でも無い限り紙幣では何の価値もない。この印刷された紙きれで“物が買えます”という人間社会の約束事が根底にあり、この約束事が守られなければ貨幣経済は成り立たない。また、インフレになれば価値が下がる事も皆知っている。終戦後はそれまで溜めていた戦前の預金の価値が落ち、役に立たなくなった事を俺達の年代ならまだ知っているだろう。少なくとも金が金を生む現象は物々交換の世界ではあり得ない」

確かに彼の言う通りだ。私達は社会の一員として社会や国のルールに準じて生きている。貨幣経済を否定していたのでは仕事も出来ない。ただ、極めて限定された環境では彼の理屈も成立つ。互いに無いものを補えばこの交換方式は上手くいくかもしれない。

「最近の新しい論調として、富の分配が内外で話題になっている。富の偏りから来る反省だろうが、俺に言わせれば専門家によるこの提言は遅すぎる。人間は誰でも欲深く、自分さえ良ければあまり人の事は考えない。俺なんかその典型で、気が弱いから強引な手法を取らなかっただけだ。俺の周りにも飲み代・食い代を殆ど払わなかった金持ちや、払うのを避ける奴なら幾らでも居た。どこにでも見られる人間模様だろうが、結局そういった人間の周りには誰も居なくなっている。人間の本性は変わらなくても、それを抑えるのが教育であり、知性だろう。だが、知性の及ぼす影響は経験から言えば微々たるものだ。だとすれば税金と言う再分配機能を利用するしか方法は無い」

経済の流れから見れば、金を払わないで済まされる人達が居るのは事実だ。発注側の横暴に泣かされている中小・零細企業があるのも又事実だ。言論の府さえ金の流れに支配されているのなら、何を言っても始まらないだろう。古稀にして結論を出した友人の心境は良く分かる。まして金が金を生み、その方が経済効率が良ければ誰も額に汗して働こうとはしなくなるだろう。経済の発展を人の持つ業にも等しい“欲”に頼っていたのでは限界がある。どんな経済理論でもこの“欲”を考慮に入れておかないと読み間違えるだろう。それを制限出来ないとすれば、分配で強制的に流れを調整するしかない。つまり彼の言う税金と言う“再分配機能”だ。過分に保護されている国民全体で創り上げた資産はいずれ国民に還元されるべきで、一部の土地所有者に富を独占させる必要はない。経済の法則に従って社会を変えるのであれば、その富の形成に誰が貢献したかを考えれば結論は簡単に出る。自宅として所有する30坪・50坪単位の土地を問題にしているのではない。

「どんな制度を採用しても必ず不満は出てくる。共産主義を採用して富の平等化を謳っている隣国では、党の幹部が莫大な蓄財をしていた事実が暴露されている。半端な金額ではなく、又不正蓄財に手を出した幹部はこれからも摘発されるだろう。これは制度の問題ではなく、権力を握った人間のモラルの問題だが、ジャーナリズムが健全に働かない閉鎖社会や、民度の低い国ではこういった問題は無くならない。我が国ではこれ程酷くなくても、経済の法則が全てに優先すると、不明朗な事は今後幾らでも出てくるだろう。大人の判断としてスポンサー筋に物を言わなくなれば、各界の閉鎖性さえ問題に出来なくなる。人生の引退を間近に控えて、問題提起は出来るが自分で先導して変える事はもう出来ない。今では、全てから解放されるためにも自給自足をベースとした物々交換の人生を歩もうと思っている。所詮俺は金勘定には向かなかったが、良き友に恵まれて極めて有意義な時を過ごせた。何と言っても好き放題に生きて来られた事は何事にも代えがたい。かみさんには迷惑を掛けたがね」

言うだけ言うと、静かに立ち去る彼の姿を私はしばし見とれていた。

彼ならきっとどこでも誇り高く、逞しく生きるだろう。

平成27年2月17日

草野章二