しょうちゃんの繰り言


民主主義の申し子

終戦後、日本では占領軍であったアメリカ主導で民主主義を旗印に国の大改革が行われた。その根幹を成し、一般国民に広く知れ渡ったものが所謂「平和憲法」と「自由・平等・男女同権」の理念だった。簡単に纏めればそれは戦勝国アメリカの意向によるものだったが、その結果私たち子供の間にも“自由”という言葉が広く行き渡っていた。子供たちにとって決して本質を理解しての“自由”ではなかったと思う。ただ、この言葉が何か重大な意味を持つものだと単純に思っていた。それに“平等”と“男女同権”という言葉も何かにつけ強調され、“自由”と同じくらいの知名度があった。子供の頃まず言葉として知ったものが後になって意味を持つ概念として理解することになり、それぞれ独自の勝手な解釈で混乱を起こすことにもなった。これらの概念は定着するまでには時と人間の知恵が必要で、未だにこういった基本的な理念に共通する普遍性を我々日本人は創り上げたと思えないことがある。例えとして、自由には責任が伴うことを往々にして忘れている事からもこの主張は理解してもらえるだろう。

終戦直後の1945年(昭和20年)に女性にも選挙権が与えられ、翌1946年には新しい制度の下、戦後初の国政選挙で多数の女性国会議員が誕生して話題になった。当然ながら、私たち世代はこういった知識は時系列で発生と同時に認識したものではなく、後になって物の本で知ったことである。

後の評論家は“戦後強くなったのは女性と靴下”という流行語を作った。米国デュポン社の開発によるナイロンという化学繊維が、それまでの絹の靴下に代り丈夫で長持ちする女性用のストッキングを日本でも商品化したからだ。制度の改革で同じ様に女性の力も戦後強くなった。

世の常として、新しいものが台頭してくれば古いものが淘汰される。それが日常の実用的なものに限定されていれば、ただ生活が便利になったと喜んでいいのかもしれないが、こと伝統や習慣の半ば強制的とも言える変革となれば話は違ってくる。女性の参政権は時代の流れとして当然だとしても、日本が長い間培ってきたものが壊されると、そこにはもう伝統的な価値観が継続しない事になる。始まったばかりの6・3制義務教育で学んだ戦後民主主義の申し子である私達年代は、まさに新しい社会体制と価値観の変遷の中で育ったことになる。

例えば、両親や先生達が育った時代は当然、何世代かの同居家族が最小単位として社会を構成し、そこには祖父母も同居し、その老後を含めて通常家族で面倒を見ていた。家族内で人生が自己完結するシステムを長い歴史の上で作り上げ、当時養老院に入る高齢者は主に身寄りの無い人たちで数から言えば極めて少数だった。その様は時と共に大きく変っていくことになり、そして今では高齢者の養護・介護は国の大きな経済的負担となってきた。根底には核家族化という戦後の新しい国民の選択がある。結果として独り立ち出来ぬ高齢者夫婦所帯の増加があり、また配偶者を亡くした独り住まいも増えていて、いずれも社会問題化している。社会現象に制度が追いつかない典型的な例だろう。この場合に必要な人的バックアップと財政的援助双方とも現行では不備な状態にあり、高齢者に行き届いた年金・医療・介護を実施しようとすれば国は今後さらに巨額な出費を覚悟しなければならない。核家族化が進み、高齢者が増えれば増えるほどこの問題は大きくなる。平均寿命が延びた結果の高齢者人口増加と一方での少子化は、相互補完が出来ない社会である事を国民全体で認識し、高齢者の資産にその財源を求めない限り解決法は無いように私には見える。

今では殆んど死語となっている「聖職者」という称号は当時、学校の先生に対する世間の広く行き渡った認識だった。思い付くままに挙げても、「地震・雷・火事・親父」は怖いものの代名詞だった。「嫁にやるなら学士様」・「末は博士か大臣か」という表現は大学卒が貴重な時代に使われていた。また、「儒教精神」が行動規範の基本にあり、そこには「長幼の序」という確立された価値観があった。「先生」という尊称も教師と医者に対する限定的な使い方を国民はやっていた。

今ではこういった言葉やそれに属した規範を口にするだけで時代錯誤として白い目を向けられるかもしれない。1945年(昭和20年)以前はこういった価値観は大家族を含め当たり前だったのだろうが、私たちが義務教育を受け始めた頃から新しいものに向かって日本は大きく変ろうとしていた。時が経つに連れ義務教育から聖職者が居なくなり、家庭では怖い親父が居なくなった。良いか悪いかは別として、壊した価値観を新たにする場合はそれが定着し国民が慣れるまで長い時間が必要だろう。それがどうしても国民感情に馴染まなければ戦前のものだという理由だけで壊す必要は無く、日本独自であったとしても良き伝統として自信を持って残せばいい。

経済においてはグローバル・スタンダードという言葉が現在世界的に持て囃されている。その根底にあるのは経済を主流とした秩序で、簡単に言えば国を含めた人間社会の金による支配システムに結び付く。一方日本には先祖が築き上げたもっと奥深い教えや普遍の戒律となるものが存在していたと思う。武士が尊敬を受けていたのは損得の視線で自分を律しなかったからだろう。彼らは金勘定を超越したもっと形而上的な価値観に身を置き、食わなくても高楊枝を使う矜持を身に付けていた。この精神性の高さは金勘定の上手い人間には普通備わることはない。

浅い歴史しか無い国の進駐軍の目ではなく、歴史ある日本人の大人の目で峻別することも試みてみてはどうだろう。欧米では「聖職者」は宗教関係の指導者を意味する言葉だが、日本では教師に対しても使っていた。「長幼の序」も日本の伝統的美風であることに気が付いて欲しい。教師を意味する「聖職者」、「長幼の序」、「惻隠の情」、そして豊かな「敬語の数々」はそれらが形骸化されて意味がなくならない限り私たちは自信を持って世界に誇れる日本の文化だと胸を張っていればいい。

相手を慮る習慣の無い国は自分の都合だけで居丈高にものを言い、自国の利益のためには事実関係の整合性さえ全く気にしない。それでは幾ら経済力が付き、軍事力が強化されても自国民の中からさえ恥ずかしい思いをする人間が出てくるかもしれない。そういった兆候が僅かながら見えてきた国もある。個人レヴェルでは人としての尊厳は金や腕力でない事を私達は知っているつもりだが国にも同じことが言えるだろう。

自由と人権に守られて育った子供たちが起こしている「学級崩壊」・「仲間が自殺するような陰湿ないじめ」・「引きこもり」といった問題は我々の時代には皆無だった事を教育関係者は考えてみてはどうだろう。

原爆が落ち、住民の半分以上が亡くなっても長崎市民は暴動も起こさなかったし、略奪もしなかった。所有者不明になった土地も多く出てきたと想定されるが、所有権を巡り大きな問題になったのを聞いたことも無い。細部においては様々な社会規範に反することがあったかもしれないが、概ね落ち着いていた。前回「幼き日の想い出」にも書いたが、これは私達の先祖が受けた教育や躾の結果だろう。極限状態の社会にあっても、人は単に自分の損得だけで秩序を乱す行動を取らなかった。私たちが大いに誇りにすべきことだろう。

小さな町の互いに看視が行き届いた環境故に守れた秩序ではなく、10万人を超す日本の地方都市で実際にあった事実だ。父たちの世代は生き方にも筋金が通っていた。少なくとも立ち振る舞いに卑しさがなく、“ただ酒を飲むな”というのが父の口癖だった。人によって解釈が違うだろうが父の言った意味は“人にたかるな”ということだった。

この毅然とした生き方は日本人の文化であり、我が国の民が西欧の賞賛を浴びた理由がそこにある。人が不労所得を臆面も無く求めるようになった時、経済は活性化しても人の品性は確実に下がってきた。富と名誉は男が挑戦する一番分りやすい目標だが、手段を間違えると富は得られても名誉は確実に失墜する。富の代わりに誇りを持ってくれば話は大分違ってくると思うが。

長崎が貧しく社会環境が一番悲惨な時に学び始め、新しい風を受けた私達だが、根底には父親や恩師の教えがまだ残っていた。貧しくはあっても卑屈ではなかった。今では金に困らぬ人達でさえ卑屈になる人が多く見られる。それは商売の世界だけではなく、時として政治の世界にも見られる。土台にしっかりした基礎がない故の現象だろう。

何の判断力も備わってない子供が、旧き社会秩序から新しい制度への変換を遂げる時期に良し悪しの基準を持っているわけでもなく、彼らが影響を受けるのは家庭からであり、学校の教師からだった。この歳になり冷静に考えてみても、親の教えや教師の教えには何の疑問点も無く、むしろ三つ子の魂を人間としてあるべきものに鍛えて貰ったと感謝している。逆にどのような家庭環境が、もっと言えば社会環境や教育が、現在問題とされている「学級崩壊・いじめ・引きこもり」を生み出すのか興味がある。今は、ものは確かに豊かになり私達の時代と違って生活にも困らなくなった。子供の教育にも学校以外に毎月父親の小遣い以上の金をかけている。仲間同士遊ぶ時間は無くなったが、塾と称する勉強の場に今の子供は小学生時代から通っている。この現実を見ると私達世代より遥かに賢く判断力を備えた子供が出来上っている筈だが、実態はどうなのだろう。圧倒的に多くなった勉強の時間が少なくとも私たち世代より、より賢い子供を生まないのはどこかに問題を抱えているように私には思える。

今の教育は何を教え、何を試そうとしているのだろうか。生きる根本にあるものを旧いからという理由で軽視もしくは否定し、皮相的な判断だけで子供を教え、選別しても歴史の重みに耐えられる理念は育たないだろう。

前にも書いたように、チャーチルは決して優秀な学生ではなかった。学生時代は落ちこぼれだった彼がナチス・ドイツから英国を救ったため、今や英国のみならず世界でも偉大な政治家という評価を得ている。勉強の出来なかった彼が1953年にノーベル文学賞を貰っている。平和賞ではない。彼の生涯は日本の教育者の興味ある研究対象ではないだろうか。

自分の選択でもなく、まして自分の判断でもなく、私達は歴史の流れの中で戦後の新しい教育制度で学ぶ世代のほぼ第一弾として学校に通い始めた。制度は代っても教える側は一夜にして全てに対応出来る筈はない。正確には戦前の道徳観・価値観で教えられ、育ったと思っている。家庭の躾も同じ様なものだった。

聖職者に教えられ、明治の気骨ある父親に躾けられた事に今は感謝している。こういったことが判断出来るようになるには人生という長い時間が必要だ。

残り少ない歳になり、子供時代の食べ物を始めあらゆるものが不自由し、破壊つくされた故郷で育ち学んだ事を、むしろいい経験だったと何の衒いも無く振り返ることが出来る。小学校時代の恩師がいつも言っていた“艱難汝を玉にする”という言葉が懐かしい。

玉にはなれなかったが、必要に迫られ高楊枝は今でも使っている。

平成25年10月24日
草野章二