しょうちゃんの繰り言


幼い日の判断

子供はその成長過程で自我に目覚め、やがて自分なりの判断力を持ち始める。心理学者の専門的解説は別として、自分自身の経験則や子供達の成長を見ていて、段々と自己中心の行動から他への気配りが増えていく。兄弟がいれば、お菓子を独占出来ない事は繰り返される親の子供達への平等な配分から彼らは学び、やがて他の兄弟の分け前には手を出さなくなる。子供の都合で食べる時間に差があっても、ある年齢に達すると他の兄弟が食べる時全く関心を示さなくなる。それまでは自分の分け前を食べ終わっていても欲しそうな顔をし、時には手を出すことがあったが、自然とそれも治まる。

こうやって子供達は一番関心のある食べ物のみならず、あらゆる分野での判断の基準を確立していく。これを我々は成長と呼んでいるが、年と共に進化する判断力そのものの原型は、元々人に備わった特性か、後天的に人が教育(躾)で学ばなければ身に付かないことか専門家に聞いてみたい。常識的にはこういった判断力の成長は教育の成果だと結論を出してしまいそうだが、窮地に陥った種の違う生き物への配慮は、後天的な教育だけでは説明出来ない事があるような気がする。ゴリラの檻の中へ落ちた人間の子供を心配そうに抱き上げたゴリラは、子供を救おうとはしても決して危害を加えようとはしなかった。昔インドで狼に育てられた女の子が話題になったこともある。異種動物の赤ちゃんを育てる犬や猫が話題になることもある。こういった現象にはどういった説明が付くのだろう。これらの例は生まれたばかりの鳥類の赤ちゃんが、最初に目にした、動くものに付いて行く刷り込み行動とは異なり、いずれも成長した親によって異種動物の子供に対して行われていることだ。

人類が類人猿から発達した種であることは定説となっているが、その類人猿であるゴリラに人間の子供を救おうとした行為が見られたことは、人類にも同じ様に弱者へのいたわりの本能を持って生まれていると考えた方が合理的だろう。少数の例から結論を出しているのではなく、単体で生き延びることが難しい場合、必然的に互いに助け合い共存への回帰本能を持っていた方が種の保存はより円滑にいくだろうという推論だ。本来、人は分け合う、助け合うという習性を持って生まれているとの結論の方に合理的整合性がありそうな気がする。人間はもしかしたら生れ付き他を配慮する本能を持っているのかもしれない。後の訓練は現状に合わせた微調整に過ぎないのではないだろうか。元来は穏やかな人間という生物が必要に迫られ、それぞれの方法で自分の身を守るようになった結果、おかしなことが多発するのではないだろうか。そう思った方が納得することが多い。

日本社会でのあらゆる発想・決め事は性善説を前提としていることが多く、それでは善意の人にとって不都合なことが出てくる、という考えから性悪説を基本にする考えが拡がっている。政治家や医師、弁護士といった集団の規制の中には、元々罰則に対する規定が無かったそうだ。前提として選良である彼らが悪いことはしないという暗黙の了解があったからだという。昨今では彼らが期待された信頼を裏切る事が多くなり、やむを得ず罰則規定が追加されるようになった。本来持っている使命感が何かの理由で維持出来なくなった時、人は全体の利益という本来の目的から逸脱して利己のためだけの利益を求め反社会的行動を取るのではないだろうか。社会正義の実現を標榜する弁護士でなくとも依頼主からの預かり金の横領は犯罪である事くらい誰でも知っている。それでもこの分かり易い弁護士による不祥事が跡を絶たない。彼らも社会正義の何たるかは良く分かってはいるが、預かり金に手を出さざるを得ない理由が背景にあったと推測される。多くの場合その原因は過度の、遊興費や不労所得への投資等が挙げられる。株・不動産が主な対象だが、他にもあらゆる儲け話への投資がある。社会の指導的な立場にあり、一般から一目置かれていた人達が簡単に誘惑に負け、儲け話に乗るところに問題があるようだ。世間の殆どの不祥事に共通するのが「金儲け」という分かり易いキー・ワードだ。中央銀行の総裁を務めた御仁が、儲かるだけが目的の投資(投機?)ファンドに2,000万円からの金を預けていた事実があったが、この件が明るみに出なければその総裁は口を拭っていただろう(拙文「指導者の資質」参照)。犯罪とまでは言わないが、総裁にしてこの程度かという失望感を心ある日本国民は味わった。

本来、人として持っている特性が後天的な個人、若しくはその属する団体の利害という罠にはまり、動きが取れなくなっていることが現在のあらゆる分野において感じる閉塞感の要因ではないだろうか。これは何にも犯罪に関わる様な事でなくても、今の社会で皆が許容していることにも遠因があるように思える。

現在、参議院議員選挙の真っ最中で、各政党はあらゆる分野での改革を掲げ国民にその必要性を訴えている。表面的にはどの主張もなるほどと思えるが、良く考えるとおかしなものもある。原子力発電に対する見解などはその典型的例だろう。福島での事故とその与えている影響を考えれば、即時撤廃は一番分かり易い主張だろう。だが、それでいいのか検証してみよう。

1000年に一度と言われている東日本大地震で福島第一原子力発電所はメルト・ダウンを起こし爆発した。地震に拠る津波で発電機が冠水し原子炉に送る冷却水のモーターが動かなくなった事が原因だと報道されていた。冷却水が6時間ストップすれば原子炉がメルト・ダウンを起こす事をわれわれ素人はその時初めて聞かされた。原子炉爆発の原因がそこに集約されるという前提で話を進めてみる(拙文「ゼロ・リスクの追求」参照)。

あれだけの地震と津波にも関わらず、福島第一以外の原子力発電所の被害は報道されていない。福島には第二原子力発電所もあるがそこを含め52基あった原子力発電施設は福島第一以外全て無傷だったと理解している。

原子力発電によって出る核汚染物質の処理も決まってないことを今回国民は広く知らされた。放射性物質のため、その処理には厳格な規定があるらしい。ただ、それを引き受ける自治体が住民の反対の為、今のところ無いそうだ。

原子炉は通常40年間稼動可能で、その延長を含め現在厳しい査定がなされているらしい。発電所内の活断層の有無や、その危険性も歴史的背景から新たに検証されている。

現在50基の稼動可能な原発があり、その内稼動中の原発は2基で他は新たな審査の結果待ちの状況にあるらしい。

現在、為替(円安)や火力発電用の燃料費の増加で既に電気代は値上がりしている。

こういった状況下で各党はそれぞれの持論を展開している。

原発即時停止から、期限付きでの廃止の方向と各党特色を出している。

極端な意見は現在でも「電気は余っている。」というのがあった。また、「放射性汚染物質の処理費を含めれば原子力発電は安くない。」という意見もある。

風力や太陽光を利用した発電に重点を置くべきだ、という意見もある。

原発停止後、新たに稼動されているのは予備として休止中だった火力発電機で、そこで使用される燃料費の高騰はすぐに電気料金の値上がりに結び付く。それに、これら古い施設がいつダウンするか予断を許さない。発電施設は需要を上回る数字で用意されていて、予定されている定期点検及び緊急のトラブルに備えてある。日本で停電が無いのはこういったセーフティ・ネットのお陰である。従って電力が現在足りているから発電施設は充分だという単純な結論にはなり得ない。
また、核廃棄物の処理問題が見えないからという理由で原発を廃止しても、それらのコストがゼロになる訳でもない。今止めても将来止めても同じ様に手間と処理コストはかかってくる。
現存するそれぞれの原発は新旧あったとしても耐用年数はまだ充分にある筈で、動かせばすぐにでも発電出来るものばかりだ。現実問題として、これらの稼動が一番安くて済む。

まだ他に考えなければならない関連する問題があったとしても、直接的には上に掲げた事が判断の重要な要素になるだろう。この際、問題を起こした東電の体質を取り上げても本質的な解決策にはならない。それは今後、修正していけばいいだけの話だ。

こういった組み合わせの中から各党は国民に自分達の主張を示し、原発に対する指針を出す義務がある。国民はその中から選べばいい。

幼い判断は、年を経て知恵が増すと共にその軌道が修正され、大人になればその出来上がった判断力で人の真価は問われることになる。今、国民に問われているのはその出来上がった判断力だ。かつての何処かの党首ではないが“駄目なものは駄目。”といういのも一つの考えではあるが、これでは政治家としてはあまり幼稚過ぎて何の意見にも方針にもなり得ない。政治は断じて神学論争ではない。何時でも通用する普遍的理念と現実的対応のバランスが必要だ。神学論争なら“たかが電気”で切り捨ててもよいが、そう言った本人は毎日エレベーターを利用する高層のアパートに住んでいるらしい。政治の判断は今直面している現実的問題をどの方向へ導くかを決めることだ。方針を提示する各党とそれを選択する国民にその真価が問われることになる。

幼き日の選択や判断に未熟な点が多々あるのは当たり前で、我々は長い時間を掛けて見る目や判断基準をより高度なものにしてきたと思いたい。本来はそうあるべきだろうが、残念ながら身内にしか通用しないルールが随所で見られるようになっている。前にも書いた事だが、官僚出身の評論家・堺屋太一氏が“自分たちの仲間内でしか通用しない言葉を話し始めた時”という表現で問題のある組織を総括していた(拙文「組織論についての雑感」参照)。世間に通用しないことが組織内で見られることがあれば、彼が指摘しているようにそこは確実に劣化していると言える。

子供の頃、濁らない目で見て納得した判断や価値観が人の天性のものか教育に拠るものか分からないが、長じるに及びそれが歪んで行くことはどう考えても間違っている。参議院議員選挙を機会に初心に戻って、子供に教えたとおりの判断をしてみてはどうだろう。

身内でしか通用しない言葉では子供に碌な判断力は教えられないし、改革など所詮無理だ。

平成25年7月15日

草野章二