しょうちゃんの繰り言


納得の仕方

人には十人十色の考え方があり、なかなか一つの考えの下に纏まることは難しい。政界では“三人集まれば派閥が出来る”という笑い話や、さらに巷では“三人で旅行するな”という警句までもある。人の和の難しさを表した言葉で、人は自分なりに学んだ人生経験から自分なりの価値判断をし、それが他人に無理なく通用することが希な事を先人は我々に教えてくれている。

日常的に接する事柄で大人の常識として判断出来る問題は別だが、専門分野の領域には素人が出る幕は殆んど無いことが多い。例えば我々がガンと診断された時、一番分り易い対応は専門病院で診断してもらい、その指示に従うことだろう。それでも現代では他の治療方法がテレビ・書籍・インターネット等で紹介され、素人にはどれがベストか判断に困る。最後の砦は権威あるとされている有名な病院で、高名な医者に診て貰うことだ。それでも治らなかったら“最高の病院で、最高の医者がベストを尽くしてくれたから本望だ”と自分とその周りを納得させるしかない。

知人の外科医は日本で最高の権威と自他共に認められている医大の教授が、必ずしも手術が上手でない事を教えてくれた。(拙文「天皇の執刀医」参照)

そこの外科教授は手術の腕より論文の出来で評価されることから、手術の下手な教授が患者を手術することもあり得るという。その上、正式には確認されてないが噂では、かなりの謝礼をはずむのが社会常識とされていた。それでも患者は権威という看板に殺到した。これに似た話なら世間には幾らでもある。

かつてのソヴィエト連邦で、国家権力トップの書記長になったニキタ・フルシチョフが母親をクレムリン宮殿に案内した時、母親が“ニキタ、赤軍が来る前に早くここから逃げよう”と叫んだアネクドートは立場による価値観の違いを良く表している。

自分の息子が赤軍のトップにいることを母親は理解せず、こんなところに居ると赤軍に殺されると思い込んでいる可笑しさを表したものだ。良く考えればフルシチョフの母親を笑ってもおれない。この笑い話を深読みすれば、息子がその任に無い事を母親は分っていて“次はお前が殺される”という母親の判断かもしれない。フルシチョフはその後失脚した。皇帝と赤軍のトップという権威が、いずれも彼の国では長くは続かなかった。

私達が権威だと思っているものでも必ずしもそれに相応しくないことは多々ある。どんな時代でも政治は国民の幸せを実現する為に機能すべきだが、洋の東西を問わず暗黒の時代は何度もあった。科学の世界でも同じである。

キリスト教の権威がガリレオに、裁判の後で“それでも地球は動く”と本音を呟かせた。この有名な言葉は裁判で負けたガリレオが呟いたことになっているが、どうも後世に作られた逸話のようだ。ただ、ガリレオが裁判の結果に納得してなかったことだけは確かだ。

この異端裁判の本質は宗教と科学の対立で、形而上的価値を求める宗教に対し科学の視点を入れてガリレオが地動説を唱えたことから問題になっただけだ。17世紀初頭の天文学は今のように観測機器は発達しておらず、当然その当時の観測技術や科学的推論から成り立っていて、地動説の正当性を実証するのにも苦労した時代だと想定される。

神の存在する地球は宇宙の中心になければならない宗教にとっては、ガリレオは当時単なる異端者にしか過ぎなかった。今となれば偉大な科学者が社会的に葬られた暗黒の歴史と言えるが、その時代彼を擁護する人は多くなかった。天才が時代に受け入れられない、いい例だろう。

イギリスの誇る名探偵シャーロック・ホームズも天動説を信じている逸話がその小説の中に出てくる。暇な時は高等数学を解いて時間を潰す聡明な名探偵を、そういうキャラクターに創り上げた作者・コナン・ドイルの英国流ジョークを感じる。

日本ではあまり問題にならないが、キリスト教の影響下にある16世紀・17世紀のヨーロッパの科学者は、宗教の権威とも折り合いを付けなければならなかった。翻って現代を俯瞰した時、日本の医学も権威との折り合いを科学者として付ける時期に来ているのではないだろうか。もし、医学が自然科学の一部だと関係者が自認するのであれば。

権威の象徴はいつの時代でも金と力(権力)に尽きる。分りやすく誰でも納得出来るからだ。逆に金も力も無ければ世間からは見向きもされない。いずれに本当の価値があるかを人はあまり詮索しない。

自分の属する組織や社会では、正論で異を唱えるより協調した方が住み易いからそういう選択をする人が出てもおかしくない。もっと言えば今の教育ではまともな判断力の育成も、ままならないのかもしれない。閉塞感も矛盾も感じないままに過ごす人生も個人としては悪くはないし、そういう人は多いことだろう。価値の多様化を金科玉条にして、損をしないという単純な生き方を選択する方法もあり得るだろう。だが、これでは人間はパンのみに生きているに過ぎない。高等教育を受け、それなりの社会的地位に就いていても問題意識が欠如したままでは社会は停滞し、淀んでいずれは根元から腐っていくだろう。流れに身を任せる生き方が長い目では決して良くない事を知るべきだ。組織に所属する人達の中途半端な納得は、結局閉塞感を増長するだけだ。

今ほど人権が確立されてなかった時代には明らかな階級制度・身分制度があらゆる国に存在していた。今でもそれを引きずっているような国が存在する。その権力が国民にとって耐え難いものとなった時、変革は弱者である国民の手によってなされた。革命・変革の歴史には似たような背景が必ず存在する。日本での“生かさず、殺さず”という表現は、当時の権力者の知恵とでも言うしかない。人はぎりぎりまで追い詰められないと立ち上がらないものだろうか。

一見、開かれて自由が保障されている様に見える今日(こんにち)の我が国では、はたしてその実態はどうなのだろうか。

心理学者に依れば、人の不満は社会(他人)が自分を正当に評価してないというのが主な理由らしい。そう言われると納得する人は多いに違いない。また、自分の意見が通らなかったり、無視されたりすることも不満の理由になるだろう。だから、人によっては民主主義の基本である多数決も不満の種かもしれない。少数野党がいつも時の政府に楯突くのはその現れとも言えるだろう。多数決が最善の解決法だとは思わないまでも、他に方法が無いから民主主義の基本になっている。その原則さえ人は忘れることが多い。

“悪法も法なり”と死刑判決を受け止め、逃げる画策もせず自ら命を絶ったソクラテスの覚悟を今の人間に求めるのは無理だろう。彼は決まり事に愚鈍なまでに従った。そうでなければ彼の発言も正当性を失くすからだ。意見の違いがあっても一旦決まればそれに従うのが知性ある人間の行動だと納得していたのだろう。言葉と思考は状況によってその都度変わるものでなく、あらゆる考察の末に出てきた個人の結論であり、それが一定の方向に纏まれば例え個人的に反対だったとしても決定に従うのは当たり前だ。ソクラテスの姿勢に関しては専門家によっては違う解釈もあるだろう。言いたいのは基本的・永続的な個人の判断は慎重になされるべきで、結果を含めて参加当事者にはすべからく賛否の責任があるということだ。そうでなければ健全な民主主義は成り立たない。真実・事実のみを追究する自然科学の分野は別だが。

自らの考えを多くの人に説き、その信念に生きたソクラテスは学ぶ題材としては今日でも色褪せてないが、その実践は現代人には理解出来ないのかもしれない。現代では何と言っても自分の、若しくは自分の属する組織の経済的成果が一番大事だと思っているからだ。形而上的価値より、経済的価値が判断の基準となっているのがその原因だろう。金融界で言うグローバル・スタンダードがこれにあたる。ソクラテスが今生きていれば、何の価値も生み出さない利潤の追求には“なぜ、君達はそんなものを求めるのか”と問うことだろう。

例の口の悪い友人は“プレイボーイは居るが、哲学者は居ない”とアメリカの事を笑っていた。現代ではどこの国でも哲学者は居てもその影響力が無いのかもしれない。

我々が経済活動を生計の基盤にしているのは止むを得ないとしても、そのあり方は我々自身で決めることは出来る。権力を持つ者、富を持つ者の影響力は必然的に大きい。だからこそ、彼らにはどんな時でも通用する規範を持って貰いたい。また、それを支える人達にもそれなりの価値観を確立して欲しい。社会で自分がどの分野の役目を担おうとも、その目的には普遍的整合性が無ければ長続きはしない。自分のやることにどれだけの意味があるのかを問えば答えは見つかるだろう。

特に社会に対して影響力の大きい新聞・テレビ・銀行はその影響力の反作用として同じ大きさの責任が伴うことを肝に銘ずるべきだろう。特に新聞記者は“無冠の帝王”と昔から称され、経済力は無くとも社会からは金持ち以上に認められていた。彼らジャーナリストに必要なのは金勘定でのバランス感覚ではなく、社会の木鐸としてあらゆるタブーを排して警鐘を鳴らし続けることである。“第三の権力”として社会に認められるのはその役割を果した時だろう。断じて羽織を着たヤクザでは困るし、金持ちや時の権力者の太鼓持ちでも困る。

生き方に拘るが故に人間としての価値がある事を考えてみてはどうだろう。中学・高校の同窓会なら医師や弁護士といった、社会的に単に座りのいい人間をその会長に選んでも何ら問題はない。だが、世の中を色々な分野で実質動かす中心には、それなりの人が居てくれなくては困る。我々が求めなければいけないのは、それなりの見識を持った指導者だ。金と力で他を屈服させるのはアメリカのギャング映画の世界だけで十分だ。

あらゆる分野で効率化が進み、経済的理由とその法則から社会は大きく変ってきた。その過程で我々は大事なものを随分無くしたように思われる。人と人の信頼に依る結びつきより、損得の物差しがあらゆるところで跋扈している。気が付くと経済、簡単に言えば金が支配している世の中に変ってしまったようだ。ヒエラルキーのトップに単に経済(金)が来ると分かり易い代わりに、味も素っ気も無くなる。生き甲斐のある仕事や人生は遠くになったような気がする。これが私達日本人が求めていたものだろうか。

従順な宮仕えや長いものに巻かれる生き方は、リーダーがしっかりしている内は破綻も少ないだろう。教育が行き渡らなかった時代にはそういう選択も生きる知恵として容認出来る。ただ、これだけ選択肢が増え、国民が高等教育を受けるようになった現代で次元の低い納得の仕方は社会にとっても良くないと思うべきだ。

考えるが故に自分がある事を哲学者はキリスト以前から教えてくれている。現代では科学技術の進歩が経済の活性化と二人三脚で持て囃されているが、それ以前に我々の原点を見つめ直すことの方がよっぽど大事ではないだろうか。先人達は沢山のヒントを残してくれている。精神面での強靭さを持ち得た時、もっと見えることが出てくる。ソクラテスは貧しいままに人生を過ごしたが、彼の輝きには何の支障も無い。ただ、奥さんが悪妻という汚名を着せられたのは、彼女がソクラテスの偉大さを理解出来なかったからだという説が今や定着している。

我が家内の私に対する態度が改まらないのは、私がソクラテスではないからだと言う。それでも友人の間では私より断トツに家内の方が評判が良い。

人の納得の仕方は様々だと、この歳でつくづく思うようになった。気が付けば家内が言うようにソクラテスにはなり得ず、ただ彼と同じ経済状態で古稀の歳は過ぎている。

残念なことに家内は良妻のまま私に接し続けるのだろう。これでは私はソクラテスにも漱石にも、どう頑張ってもなり様が無い。


平成25年12月27日

草野章二