しょうちゃんの繰り言
建築家の選択と役人の辻褄合わせ
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社会に出て間もない頃、若気の至りで右足を複雑骨折し田園調布中央病院に長期入院した経験がある。同室に三十台と思しき建築家も入院していた。後で分かったことだが、毎日男の子を連れて見舞いに来る奥さんも一級建築士だったそうだ。その、まだ幼い小学校低学年の子供が病室にあった漫画本を手にすると、親は「ダメ」と言って漫画本を読むのを禁止していた。家では漫画を読ませないようにしているという話だった。左翼系の月刊誌が建築家の愛読書だったらしく、いつも枕元に置いてあった。 彼の見舞客もそれなりの教育を受けたであろう人達で、その中の一人の女性は音楽家らしく世界的に著名な日本人指揮者の「紫色の音色」という指示にいたく立腹していた。芸術家は言うことも違うと感心したが、彼女の憤りの方が私にはより興味深かった。確かに「紫色の音を出せ」と指揮者に言われた時、演奏者は対応に戸惑うだろう。「あいつはインチキよ!」と憤慨していた彼女に同情したくもなる。指揮者の指摘はオーケストラの演奏者に適切に伝わらなければ反感を買うだけだ。ただ、普通の指示では世界的指揮者にはなれないのかもしれない。音楽家同士でも意を通じ合うことは難しいらしいことが分かった。 その建築家との会話で病院の近くにある奇抜なデザインの家を話題にしたら、「あれは私の作品です」と苦笑しながら応えた。私の話し方には明らかに否定の本音が含まれていたため、苦笑気味で対応したのだろう。それ以来、入院中一切建築の話は彼としなかった。 1957年、東京都は丸の内第一庁舎として著名な建築家の設計による8階建てのビルを建てたが、そのビルは30年程で取り壊されている。素晴らしいデザインだと建設当時話題になったのは覚えているが、同時にその後使い勝手の悪さも都の職員から噴出していた。同じ設計士によって新たに1990年に完工した新宿の庁舎も、既に雨漏りがしていると聞いたことがある。デザイン優先のためメンテナンスの費用や空調の問題も深刻だという。また、複雑な構造ゆえ生じる巨額の修繕費も、いずれ都民の負担となって新たな問題になる可能性が既に出てきているそうだ。 ヨーロッパでは立派な歴史的建造物が市庁舎になっているケースがあり、使い勝手はいざ知らず存在感のある風情を漂わせている。30年程度で壊す首都の庁舎は寡聞にして聞いたことが無い。 この世界的に有名な日本を代表する建築家の偉業に水を差すものではないが、建物の設計は利用目的に叶うことが最大の条件で、建築寿命やメンテナンを含めたコストはもっと冷静に判断されるべきだろう。特に国民の税金で賄われている場合、利便性と建築・維持コストは何よりも優先されるべきだ。断じて実用性から遊離した芸術性やデザインが主役ではない。 その観点から見れば、今回の新国立競技場建設はスタートからして方向性を失くしているとしか思えない。昔から役人は辻褄が合うように計算して採算性の妥当性を演出することには長けている。役人が絡んだ数々の建造物(厚生省の宿泊施設・労働省の仕事館等々)が悉く失敗した歴史は枚挙に遑が無い。特に京都の「私のしごと館」は500億円以上の予算をつぎ込み、2003年にオープンしたが2010年には閉館している。役人が頭を絞って創り上げた企画書は僅か7年で破綻をきたした。労働省と雖もそのトップは所謂キャリアー組で、勿論偏差値ではダントツに優秀だった人達だろう。そんな勲章は何の当にもならない良いサンプルだ。 今回はデザイン重視の選択結果、予算が膨らみ当初の見積り1,300億円の倍額でも新国立競技場は仕上がりそうにもなくなった。安倍総理の英断で計画は白紙に戻されたが、それまで事業主体として取り仕切きっていた日本スポーツ振興センター(JSO)は既に60億円近くの契約料をデザイン事務所等に払っているそうだ。この不手際の責任を追及する声が挙がっているが、JSOを所管する文部科学省でもその責任の所在ははっきりしない。元々適性の無い人達に任せるからおかしなことが起きるのは当たり前だ。 友人の言葉を借りれば「責任を取るという発想は役人の世界には無いし、無能ゆえの失敗では彼等を首にさえ出来ない。馬鹿でも務まる所以はそこにある」となる。発言は過激だが言い得て妙だ。 民間の投資物件であれば、採算性は厳しく査定され、万が一失敗した場合には当たり前だが担当役員は責任を取らされる。こういった文化の無いところに巨額の資金を任せて建設するのは所詮無理な話だ。スタートから躓くのも当然な気がしてくる。皮肉な見方をすれば、「予定通りのゴタゴタ」とも言える。 過去、巨額な資金の動くとこには、必ず利権の匂いがしていた。自民党が国民に見放されたのもそれが原因だった。もし今回、痛くもない腹を探られたくないのなら、全て開示して堂々と進めればいい。オリンピックを開催するからには日本の国力に相応しい競技場で世界の選手たちを迎えれば良いだけの話だ。国民が納得する予算と設備の接点はそんなに難しい話だとは思えない。30年で取り壊すような芸術品は国民の資産として創る必要ない。個人が自分の金と趣味で選ぶのには予算を含め誰も文句は言わないが。 英国籍女性がデザインした奇抜な建物は、元々建設に当たって高度な建築技術が要求されていたが、日本の技術力なら可能だろうという見通しだったらしい。予定工事費の積算を重ねると当初の倍の予算金額でも収まらないことが判明し、今回の首相の決断となった。 日本の国立競技場なら、周りの自然に順応した日本調のデザインも可能だったと思うのは素人だからだろうか。特別の愛国者でもなければ国粋主義者でもないが、単にデザイン先行で周りにマッチしない建築費の掛るものをわざわざ外国人建築家から選ぶ必然性はない。日本にも有能な建築家は幾らでもいる筈だ。専門家と言われる人達に過大な期待を抱いて任せたのが良くなかったようだ。建物はデザイン以上に利便性と実用性が要求される。特に公のものであれば、予算にも限りがあるのは分かり切っている。こういった大人の判断が出来なければその任に当たらせるべきではない。 絶大な権力を持った王国では権威の象徴として豪華な宮殿を競って建てていた歴史がある。現在残る立派な建造物にはその延長で建てられたものが多い。歴史の浅い民主国家アメリカにはそういった建物は見られないが、大学の施設などは充実している。我々は21世紀に住んでいて、あらゆる公的建築物の支出に関して経済的整合性が常に求められている。個人の趣味での選択でないことは最初から分かっていて、デザイン性や芸術性を優先しても自ずと経済的限界はある。こういった基本的な了解が関係者各位に徹底していれば、今回のような無様なことにはならなかっただろう。懐の痛まない出費だという認識が関係者にあったとすれば、そういった連中は全てこのプロジェクトから外すべきだ。 官主導のプロジェクトでは責任の所在を当初からはっきりしておかないと、今回のような失敗をし、60億にもなる無駄金を払う羽目にもなる。事情によってはこれだけでは済まないことにもなりそうだという。腹立たしいが、役人の伝統は一朝にして変えることは不可能だ。いずれの国家規模のプロジェクトにも民間の優秀な人材をつぎ込む必要がある。本来なら、これは政治家の役目でもあるのだが。 いじましいほど細かいことに拘る役人が、大きいプロジェクトになると殆ど役に立たないどころか、むしろ有害であることが多かった。採算を気にしなくていい風土で育てば人はみんなそうなるのだろう。残念ながらこれが人間の限界と心得て政治家は彼等を指導すべきだ。 オリンピック開催には確か当初反対していたお方が、ひょんなことから都知事になられ今では見識の高い意見でオリンピックの準備を牽引しておられるのは都民としても心強い限りだ。彼はかつて「日本中から一番優秀な学生が東大に入り、その中で一番出来る奴が大蔵省に行く。馬鹿にやらせる訳にはいきませんから」とご高説を「朝までテレビ」でのたまわれた張本人だ。多分、一番優秀で一番出来る方を集めて東京オリンピックを成功させてくれるだろう。我々馬鹿な凡人は黙って従うしか方法は無い。 現都知事の基準では、東大を出るほど優秀でなかった元石原都知事は、先日のテレビでオリンピック委員の堕落を嘆いていた。最近暴露されたFIFA役員の腐敗は酷いものだったが、オリンピック委員の金権体質も過去何度か取り上げられている。オリンピックそのものにもメスを入れる時が来ているのかもしれない。 国際的なスポーツ大会はやり方次第では素晴らしい祭典になる可能性があり、人に感動も与えてくれるだろう。勝ち負けを超えたところで国と国の絆が育まれれば、政治よりよっぽど大事な役目を果たすことが出来るだろう。 出来ることなら、そんなオリンピック大会を目指して関係者には頑張って貰いたい。オリンピックを利用して富や名誉を求める下品なことは断じてやって貰いたくない。既にその兆候が私には見られるから余計なことを言っているまでだ。オリンピックはあくまで参加する選手のものであって、周りは全て縁の下で顔を出来るだけ出さない方がいい。 日本には奥床しさを尊ぶ伝統があった。「お・も・て・な・し」と共にその良き伝統を復活させれば、役人を含め少しは変わる可能性があるかもしれない。 いまからでも遅くないから関係者は名誉挽回で取り組んで欲しい。私の歳では2020年の東京オリンピックは見ることが出来ないかもしれないが、これを契機に少しでも変わってくれれば、それが一番何よりだ。 平成27年7月24日 草野章二 ■ |