しょうちゃんの繰り言


自信の背景

子供は親から常に保護されていて、その盤石な背景があるため彼らは成長するに従い未知なものへ向けても自由な挑戦が出来る。親が自分を守ってくれているという精神上の安心感が子供の新しいものへの不安を少なくしてくれている。子供が理論的に判断したわけでなく、動物として本能的に保護者と共感出来る感覚とでも表現するしかない。こうして子供は未知の社会へ旅立ち、新しい事への挑戦を始める。その自信を後押しているのは背後で見守る保護者(親)だ。

国情が不安定で孤児が多発するような社会では、親の愛に恵まれない収容された孤児達には笑顔が見られないという。守ってくれる保護者のいない子供が如何に不安な日々を送っているかこの事実からも推測出来る。彼らは積極的に社会に溶け込む術を知らず、ただ受け身の姿勢で自分から何かに働きかける事は少ないという。背景に確たるサポートがあれば、未熟な子供でも外に向かって歩み始める事が出来る。

どんな社会でも孤児の存在は避けられないが、いたずらに孤児と言うだけで先入観を持ち偏見の眼差しで見る必要はない。親の代わりになる人が居て、常に彼らに関心を持つ人が周りに居れば、本当の親でなくても子供の情操は健全に発達するらしい。幼児は親身になる保護者が自分の近くに常時居る事で精神的な不安を避ける事が出来るという。子供の健全な成長には背後に保護者の愛情が不可欠と言う結論は出ているらしい。

一方、独り立ちした大人の世界でも世間に向かって何か行動する時、心理的には幼児と似たような現象が見られるが、その精神的支柱はもう親の関心や愛ではなく世間に通用する肩書だ。肩書のため人は他人から認められ、それなりの扱いを受ける事が出来る。

人が生きていて一番精神的に耐えられないのは、自分に対する他人の無関心だという。これといった肩書も無く、資産も無い人間には銀行を含め誰も関心を持ってくれない。社会の判断の基準は多くの場合肩書とそれに伴う経済の尺度のようだ。つまり、我々は通常金融機関の貸付係みたいな尺度で人を判断している。人格や品格に少々の難があっても、肩書かそれに代わる経済力があれば他人は認めてくれる。何も無ければ若者の場合は就職の不安や、年配者の場合は生活の不安が常に付きまとい、彼らは安定した生活は営めない。ワーキング・プアが増え、生活保護を受けている人が増えているのも背景にはこういった厳しい社会の掟(現実)があるからだろう。

著名な大学、超一流の企業、社会に広く認知された肩書(資格)等は普通誰もがその価値を認めてくれていて、そこに属する人達は少なくとも何の経歴も肩書も無い人達より高く評価されている。一方、選挙で国民に選ばれれば、次の選挙までは一人前以上として認められ、不必要な敬意まで時として払って貰える。運が良ければその過去や実績はともあれ知事や大臣にもなれる。

他方、安い給料で甘んじている人達は自分の責任が幾らかその背景にあったとしてもひたすら耐えるしかない。そうなった社会的原因は本人以外誰も関心が無く、多くの場合彼らは世間の落ちこぼれと看做されている。こういった現象は多分いつの世でもあり得る事だろう。人がどれだけの知性と判断力を持っていても、後ろ盾が無く経済的にも恵まれない場合それ程評価される事はまず無い。また、知性の制御が効かないところでは経済活動が利益追求だけに終わり、人のやる事は品を無くし個人や企業のエゴがとことん発揮されている事が多い。

最近の一流と言われている新聞社の迷走は正に勘違いした自信がもたらした成果ではないだろうか。世間が認め、それが不必要に強調されると人は不遜になりがちだ。謙虚さが薄れ、思い上がった行動に出ることもある。根拠のない優越感を持ち、社会的基盤の弱い人達を下に見る傾向が強くなる。その自信の背景にあるのは一流大学出身・一流新聞社所属という経歴から来る世間の評価で、決してその評価に相応しい事をやっているかどうかではない。誤った親の過保護な愛情は時として子供をスポイルするのと同じだ。その場合、社会性の無い非常識な子供が出てくる可能性が高い。子供にも大人にも考える事を停止したような環境では同じような現象が見られる。

機会あるごとに主張しているが、教育の目的は考える人間を育てる事ではないのだろうか。他から指摘されながら、32年間も間違いを正さないのは何かが根本的に間違えていると思うのが普通の発想だが、この優秀とされている集団には未だに普通の発想が通用しないようだ。若しくは確信犯として、自分達の偏ったメッセージを送り続けているのだろう。

国民に奉仕することが第一の官僚達も、彼等にあるのは自分達の権益を守ることが第一で、国家財政難の折いくら非難を浴びても無意味な天下りを自制しようとはしない。現在の固定化した天下りに正当性があるなら堂々と主張するべきなのに、誰一人として身分を明かして国民に説明した者は過去いない。こういった逃げる姿勢を世間では後ろめたさの証拠とみなしている。高学歴な割には物事に対する判断力や、人として肝心な志というものを彼等に見る事が出来ない。

エリートと看做されている一流新聞社の記者や官僚は、確かに今の日本の基準で厳密に選別されてきた人材だと言えないこともない。東京都知事の言葉を借りれば「日本で優秀な学生がXX大学に集まり、そこで一番出来るのが大蔵省に入る。馬鹿にやらせるわけにいきませんから」となる。この発言は20年以上前、某テレビ局の「朝まで生テレビ」で発言した言葉だ。他の出席者からこの発言に何の反論も出なかったことから、これは広く認知されている日本人の価値観のひとつだろう。その彼も身内や過去の妻達から都知事選出馬の際かなり非難されていたようだ。東京オリンピックにも当初反対していたが、知事候補となった後の政見放送では満面笑顔で「皆さん、東京オリンピックを成功させましょう」と前言を翻して有権者に訴えていた。

天皇制を批判した学者が天皇から文化勲章を貰った例もあるから、現都知事のレベルはこれと比べれば可愛いものかもしれない。要領のいい、機を見るに敏な輩の例は世間に掃いて捨てるほどあり、ジャーナリズムも小数を除き話題にさえしない。ただ、人間性はこれだけで分かる人にはよく分かる。

高等教育を受けて来た人間に往々にして何かが欠落しているような人が出てくる事がある。最高学府出身と言っても必ずしも全員バランスのとれた優秀な人間が育っていた訳ではない。かつて一流商社の総務に勤めていた女性から聞いた話だが、そこの会社では使い物にならない社員を閉じ込めておく部屋が総務部に用意されていたという。総務部所属だが仕事の無い彼らは出社すると新聞や本を読んで一日を過ごすだけだという話だった。会社の意図は彼らの自発的退職だろうが、平然と居座る例が多かったそうだ。これに似たような話は他でも聞いた事がある。超一流大学卒業という肩書と成績優秀で入社(入省)という実績にも関わらず、仕事が出来ず人間関係が上手くいかないといった例は良く見られる事らしい。私の経験でも人格に問題がある、系列会社へ天下りで来ていた高学歴成績優秀者が居た。それも一人や二人ではない。入社までの経歴は優秀だが、無能な人間ならまだ他に沢山居た。それでも彼らのプライドは高く、一流大学卒業と一流企業への入社がそのプライドの背景だった。もっと言えば、そこに拘って生きるしか彼らの存在理由は見付けられなかったのかもしれない。ただ、雇った企業(省庁)は役に立たなくても彼らを首には出来なかった。

いつも言っている事だが、学校の成績と一流企業(省庁)の入社(入省)試験に受かった事実は本人の能力を保証するものではない。新聞社も前に述べている様にその例外ではなく、真摯な取り組みが無ければ間違いはいくらでも起こす事になる。底の浅い人間ほど学歴や会社(省庁)の背景を嵩に上から目線で他を決め付ける事が多い。そして自分達は間違いが無く無謬だと嘯く。どこからその自信が出てくるのか不明だが、問題は多くの場合それで通用する社会になっていることだ。

制度として確立され、そこに権威が与えられるとそれを変える事は至難の業だ。特に学ぶ事が画一化されるとその傾向はますます強くなるだろう。算盤で才能を発揮し日本一に輝いても、一流の数学者になれる保証はない。算盤は一種の反射神経の働きで、だれでも訓練である程度には到達出来る。ペーパーテストはその性質上考える事より反射神経を鍛えた方が受かる確率は高い。英語の実力を試したければ試験の日の英字新聞の論説を訳させればいい。英和・和英の辞書持ち込みを許し、和文英訳もその日の新聞から出題すればいい。会話や発音の能力を試すなら、英国人・米国人と話をさせればどの程度の能力かすぐに判断が出来る。もし大学がその権威に拘るなら、役にも立たない枝葉末節のチェックをするのではなく、この位の本格的な取り組みを試してみては如何だろう。学生の実力はこの方法だとすぐに分かる。一日や二日のペーパーテストで人生を左右しかねない試練を若者に与え、しかもその中身は「傾向と対策」で訓練した反復練習で評価するような不合理を改める大学があってもいいと思うのだが。学ぶ事が形骸化し、小手先の対策で済めば人はそれに合わせようとする。いつまでたっても「その程度」が各分野で多く見られるのは教育とその評価の在り方に問題があると思うべきだろう。

日本の社会的風潮としては努力する事に最大の評価を与えている。神戸製鋼所のラグビーチームが全盛期の頃、彼らの練習時間は他と比べ短かったと聞いている。長い時間の練習や、長い時間の努力を過大に評価する馬鹿らしさをそろそろ止める時期ではないだろうか。

予算委員会で総理に対し、野党の議員が憲法論議を戦わしていたが、質問の幼稚さに思わず笑ってしまった。

「総理、これは憲法第何条に出ていますか?」

「総理、憲法第何条を言ってみて下さい」

「総理は知らなかったと記録に残して下さい」

「この程度は法律を学ぶ大学生なら誰でも知っています」

等々間抜けな質問を延々と続けていた。

官僚上がりのこの野党議員の誇らしげな態度の裏には「この程度のことも知らない総理」という印象を国民に植え付けるのが目的だろう。その裏には官僚の世界の価値観が良く窺われる。

「厚生行政なら誰にも負けぬ」と言っていた総理がいたが、総理に判断して貰いたいのはそういう枝葉ではない。日本人の几帳面さは認めるとしても、教える方も教わる方もそこで終わるから辻褄合わせが主流となり、肝心な判断力が養われない。正解のある類型的問題しか出ないなら、挑戦する方はそれに合わせるだろう。そんな問題にいくら正解しても限界はある。正解のない問題が社会ではいくらでもあるが、そこを乗り越えるのが真のリーダーの役目ではないだろうか。

自信の背景は自分の中では大事でも見る人が見れば、ばかばかしい事が多い。日本式教育ではテレビのクイズ番組では評価されても、学生時代成績では大して見るべきものが無かったケネディーやチャーチルを超せるリーダーは出ないだろう。

自信の背景の色どりを、そろそろ変えてみたらどうだろうか。

平成26年9月20日
草野章二