しょうちゃんの繰り言
共産主義? |
「若い頃、左翼思想に興味を示さない者は知的レベルが低い」といった主旨の発言をした、自民党の元幹部がいた。外務官僚上がりで知的レベルが高いと自分で思っている彼は、今は議員を引退して地盤を娘に継がせ、幸い今度の衆議院選挙にこの若い娘は通った。彼女が選んだ党は左翼政党ではなく父と同じ自民党だった。彼の法則で判断すれば、余計なことながらこの若い娘の知的レベルは大丈夫だろうか、という疑問に当然辿りつく。もっとも議員になるには知的レベルはあまり関係ないようだが。 ■ 左でも右でも行き過ぎたものや、明らかに間違ったものはいずれ修正される。マスコミの雄を誇り、かつ自認していた新聞社がジャーナリズムとして、所謂「従軍慰安婦問題」で初歩的な間違いを犯し、それを察知していて修正しないまま、30年の長きに亘り放置していた。出鱈目な著作を自分達の主張に都合よく利用したのが真相だろう。この程度に日本のインテリと自認する読者が多数盲従するのも不思議だが、現実は小説より奇だった。だが、ここでも変化の兆しがやっと今になって見られるようだ。 ■ 極めて早い時点から件の信憑性の無い著作に疑問を持ち、「従軍慰安婦問題」で捏造された記事に正論で迫り、地道に検証して自説を曲げなかった新聞社があった。彼等は右だと決めつけられ、世間の多くも彼らを正当に評価しようとしなかった。そして今分かった事は、彼らこそ少数と雖もジャーナリズムの王道を歩いていたという事実だ。この二つの対照的な新聞社を巡る今までの論争は、多くの日本人の知的レベルとその判断力に疑問を持たざるを得ないような展開だった。リベラルと称する政治家・マスコミ、それに人権派と称する弁護士達に、この弱小新聞社は長年目の敵にされていたが、今となっては間違ったのはどちらか言うまでもないだろう。 ■ 新聞社がどういう見解を持とうと勝手だが、事実誤認の放置と捏造だけはジャーナリズムとしては絶対にやってはいけない事だ。ただ、今回この新聞社に関して明らかになったのは全てが自分達の自虐史観に利用する為の確信犯的な報道だったことだ。これは分かる人には30年前から分かっていた。事実誤認程度の単純な問題ではなく、非常に質の悪い意図が元々隠されているのを国民は知るべきだ。近隣の社会主義国と知的論理の通じない国への応援を日本国民の購読料でこの新聞社は賄っていた。彼等は社会の木鐸でもなかったし、そこは高等教育を受けた知性の集団でも決してなかった。それにしてもここには偏向した報道が多すぎる。 ■ 私が就職して働き始めた1960年代の英国商社では、給料は入社同期全員同じで、差が付くのは余分に働いた残業代だけだった。また、ボーナスも全員一律で、会社に対する貢献度は何ら考慮されなかった。ただ、輸入事務機械部門は販売実績に応じた歩合制で、ここのセールスマンだけは別の給与システムを採用していた。戦前から日本に根を下ろしていたこの会社は、日本の会社とほぼ同じ給与制度を採用していたので、多分どの会社・職種のサラリーマンも日本では当時似たようなものだったのだろう。 ■ ただ、働いて2年目以降は勤務評定で僅かだが同期と差が出来始め、それが将来のポジション(地位)に大いに関係してくると聞かされた事がある。しかし定年まで働いても同僚と2倍〜3倍と差の付くような違いでは無かった。だが、狭い将来の役員への道は、この僅かな違いの評価で決まる事になっていた。そこに5年弱勤務した経験では、実績に係わらず先輩は給料やボーナスの額では決して追い越せない存在だった。 ■ 今年も野球選手の年俸交渉が時折新聞に出てくるが、彼らの年俸差は同僚と2倍〜3倍の違いではない。これはあらゆるプロ・スポーツに見られる現象で、一寸した実績の差が億単位の違いになる事もあるようだ。 ■ 一方サラリーマンの世界では、どんな優秀な社員でも給料にその結果が顕著に現れることはなかった。1970年代当時、かなりの期間は社長さえ、その年収は初任給の20倍というのが巷で広く知れ渡っていた給与所得レベルだった。 ■ これは正に左翼集団が唱える社会主義の理想的な利益分配制度で、日本のサラリーマン社会は隣の建前共産主義の国よりもっと公平かつ平等な、眞の共産主義を実践していたとも言える。考えてみれば今でもこの給料の基本原則は変わってないのではないだろうか。世界の給与すう勢を不明にして知らないが、他の国でも日本と同じような制度だろうか。 ■ 年収10億円を得ている自動車メーカーの社長は、「欧米ではこのレベルは決して高くない。ある程度の給料を払わないと優秀な人材は集まらない」とご高説を垂れ、一方では彼の部下の役員がことごとく彼の元を離れていった事実も最近報道されている。多分この会社は彼が言うように優秀な役員を引きとめるには報酬が少なかったのだろう。ただ、一般社員の給料は社長の給料に見合うものは払われてないようだ。前にも書いたが往年の日本の20倍ルールに従うと、社長の年俸が10億円なら、初任給の年俸は5,000万円でなければならない。これだったら優秀な人材は彼の言うように集まるだろう。自分の給料をもっと上げる前に、従業員の給料をこの程度まで上げれば彼が言うように優秀な社員が集められ、会社はより発展するのではないだろうか。これで会社が成り立てば、の話だが。 ■ 現在、頻繁に報道されている隣国の共産党幹部が手にした賄賂(?)は、10億円程度の数字ではない。さすが4000年の歴史を誇る国はスケールも大きく、一人に渡った額は数百億円に留まらず、数千億、中には数兆という数字も報道されていた。これらは不正蓄財として告発されているので、この国でも異常な犯罪として扱われているのだろう。資本主義下での正当な対価も、共産主義下での不正な蓄財も人間の金銭に対する欲には主義主張は関係無い事がこれを見ても良く分かる。ただ、その賄賂の根はこの国で深く蔓延している様で、今後も似たようなケースが幾つも告発されるだろう。 ■ 戦後の日本の復興を支えた我々の親世代や我々自身も、給料に対しては安いと思いながら不満が爆発するレベルではなかった。優秀な人材も今考えれば安い給料で集まったし、一億総中流の穏やかな社会を創っていた。あの時代は自民党政権下でも、利益配分に関して日本は正に理想的な「共産主義」の社会ではなかったのだろうか。金に拘らない歴史や伝統が、バランスのとれた社会や国を支えていたと思われる。 ■ 日本では、1980年代から過剰流動性の、投資や投機への参入が活発になった。この動きに依る土地・株の急速な値上がりが短期間での不労所得を可能にし、額に汗して働くより効率良く儲かるこの方法に国民は殺到した。バブルと言われた時代だ。ここで我々は一過性の利益のため伝統と品を一気に失くし、挙句バブル破滅後には国民の税金で不始末の尻拭いをさせられた。 ■ 残念ながらその時の教訓は、もう忘れられようとしている。社会の発展の為には金融の役目は大事で、あらゆる有意義な投資案件はリスクを負っても将来に備え挑戦する必要がある。ただ、投資(Investment)と投機(Speculation)は厳然と分けるべきで、金融機関はその判別をきちんとやって貰いたい。投資と単なる金儲けの投機とは意味も性質も全く違うものだ。経済の細かな約束事は分からなくても、「金の有用な使い道」と理解すれば分かり易い。投資で生じた利益は決して「不労所得」とは言わない。ただ、日単位、週単位での株の頻繁な売買は誰がどう考えても投資とは看做さないだろう。こういうのを普通日本語では「ギャンブル」とも言う。 ■ 人の習性として、或いは人間の業として個人や企業が利益追求に走る姿勢を否定する訳にはいかない。非常に節度の働きにくい分野だが、それでも教育や伝統の力でバランスを取ることは出来るだろう。1980年代まで日本人が当たり前に実践していた事で、金融の暴走が無ければまだ穏やかな社会は維持出来ていたかもしれない。 ■ 国の制度がどうであれ、一部の人間が富を独占する姿を我々は昨今世界中で見せつけられている。例えそこに隣国のように犯罪が絡まなくても、美しいものではない。結婚し、家庭を持てばそれなりの経費はかかるが、少なくとも子供を育て、かつ教育が出来る程度の収入が誰にでも確保されなければ社会は安定しないだろう。今の日本の国力・経済力を考えれば、せめて個人の基礎となる生活費を確保した上で、成功した人が富を得る分には誰も反対しない。我々が1970年代まで当たり前に実践していた事を復活させれば少しは世の中が落ち着くことと思われる。まさに、ここに政治の出番があるのではないだろうか。 ■ 左翼思想に富の公平な分配や、軍部の台頭を抑える意図があったとしても、わが国の場合運動家のやり方は必ずしも一般国民に馴染むものではない。どんな理由があれ、祖国を貶めることはやるべきではない。まして事実を曲げるような手段は絶対採るべきではない。 ■ 件の新聞社を初め、彼等がサポートする隣国の実態を見れば、とてもではないが共産主義の理念を謳う資格はその国に無い。それが空しい絵空事である事は彼らの実態を見れば誰にも分かるだろう。共産主義で比較的上手く収まっている国は、指導者に私欲の無いキューバ位だろう。何といっても国民が明るく、貧しくても現制度に満足している姿が見られる。いずこも大事なのは指導者の裏表ない理念だろう。 ■ 自由経済の我が国は、分配に対しては極めて社会主義的な方法を取り続けていた。この国を元気にするには経済的弱者を創ってはいけない。社会を経済だけの尺度で見て弱者を切り捨てている大国は、ホームレスを含め多くの社会問題を抱えている。一握りの成功者をアメリカン・ドリームと称えても、不安定な社会では安心して夢も見られない事になる。 ■ 歴史と伝統のある我が国は、成金の真似をする必要は全くない。今こそ我が国独自の生き方を模索し、大量消費文明に対抗出来る日本モデルを創る時だろう。底の浅いものは内部から壊れる例なら隣国を見ればすぐ分かる。 ■ 来年は、右も左も一緒になって21世紀の新しい国家像を創ってみては如何だろう。少なくとも遣り甲斐があることは間違いないし、間違った報道で後に恥をかくよりよっぽどいい。国を変えるなら小手先での誤魔化しではなく、腹の据わった方法を取るべきだ。右も左も国を本当に良くしようという共通認識があれば、やって出来ないことはない。少なくとも今までの姑息な手段より国民にも分かり易く、賛同も得られるだろう。 老人の初夢としよう。 平成26年12月26日 草野章二
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