しょうちゃんの繰り言
賢く見られるコツ |
官僚上がりの評論家堺屋太一さんが“賢く見られるためには、新規案件に反対すること”という主旨の発言をかつてしていたのを思い出した。 新規案件は成功が約束されている訳ではなくリスクも高い。従って積極的に勧めるより反対していれば見通しが当たる確率は高いという理由だった。これは彼が役人時代の体験から垣間見た官僚の知恵だという。失敗に終わった結果を見て“俺の言ったとおりだろう”と言うのが自分を賢く見せるコツだそうだ。リスクのあるものには最初から近寄らないのが、頭が良いとされている価値観の世界だ。官僚は何より失敗を恐れる生き物で、失敗の可能性があるようなら最初から手を出さないのが彼らの正しい判断となる。経済産業省出身のジヤーナリスト古賀茂明氏もその著書「日本中枢の崩壊」でリスクを恐れる官僚の実態を克明に述べていた。勉強が出来るため優秀だと思われていた官僚が、視野が狭く実力社会の民間では役に立たないこともその著書では炙り出されている。 売り上げや経済整合性とは全く縁の無い世界に生息する彼らは、リスクのある新しいことに対して本能的に避けようとする習性が身についているらしい。考えてみれば学生時代の序列がそのまま引き継がれている世界に身を任せ、実社会のことなど肌身で感ずることは終生ない。そこだけで通用する知恵を身に付ければ充分で、如何に自分を賢く見せるかが彼らにとっては何より大事なのだろう。失敗が何より怖い人種なのだ。そういう彼らには責任を取るという習慣も無ければ、その発想さえ最初から無い。自らの改革なんて何年待っても有り得ないだろう。 ■ 上昇志向の強い人や、負けず嫌いは人が何人か集まれば何処でも自然発生的に出てくるものだ。人間が進歩を前提として生きていく限りこの心掛けはむしろ歓迎するべきことだろう。スポーツ競技の面白さは正にそういった人達に支えられていると言ってもいい。飽くなき挑戦が陸上競技・水泳等の記録更新に結び付き、特に国の代表が活躍する度に国民を巻き込んで熱い応援が繰り広げられる。 ■ 肉体は使わないが、頭を使う場面でも人は互いに競うものだ。頭の使い方の方向性やその判断の基準はその際どうでもよくなっている。まして達成すれば資格が取れるとなると、さらに視野は狭まる。学ぶのは何のためかという一番大事な目的を誰も気にしない。強いて言えばより偏差値の高い大学へ進む為だろう。間抜けな法曹関係者や、常識を弁えない医者たちはこうやって世に出てくる。官僚の世界も同じことが言えそうだ。もっと言えば一流と言われている企業にも成績優秀な一流大学出身の無能な人間が多数採用されている。そこで採用されたのは彼らがそれぞれの難関を突破して来たからだ。その難関にどういう意味が有るのか企業を含めあまり問う人はいなかった。 ■ 真面目で几帳面な日本人が築いた人材育成の教育システムは、究極の完成モデルとして自分さえ良ければいいという人間を各界に送り出しているように私には見える。今のシステムで本当に優秀な人材が育っているのかじっくり考えて見たらどうだろうか。 定型化したペーパーテストを達成し、それぞれの段階で垣根(試験)を越えてくれば優秀と見なされ、その成績に応じて大事な役目が振り分けられている。官僚は正にその典型だろう。官僚にも普通に言う優秀な人は多分大勢いることと思うが、その生き様を見ているとどう贔屓目に見ても秀でている人達とは思えないことが多い。目的に合わない復興予算の分捕り合戦などその典型的な例だろう。また、いつまでも高給での天下りを当然の権利くらいに思っている性根も見苦しい。 ■ 退官後その能力を活かし適切な年俸で新しい仕事を引き受けている限り国民も反対しないと思う。優秀であれば、その能力を社会の役に立てた方がお互いに幸せだ。だが、個室・秘書・車・現役時代を下回らない給料、それに多額の退職金を所謂天下り先で当たり前のように要求するのであれば、つい“何様か”と言いたくなるのも、払う側としては自然な反応だろう。折り合いさえ付けば揉めないで活かせる道はあるのに残念だと思うのは私だけではないだろう。 ■ 但し、ここで悪し様に彼らを非難するのが本意ではない。勉強が出来るということは何か、優秀ということは何か、リーダーや官僚の真の役目は何か、ということを考え直す時が来ていると思うからお節介なことを暇に任せて述べてみているだけだ。 ■ 何人かの人が集まれば、そしてそこで教えたことに対してテストを行えば序列をつけることは出来る。しかしそれは一つの目安にしか過ぎない。しかも日本のテストの内容は教えた事の再現にしか過ぎない。100人居ても、10,000人居てもテストで序列をつければそれは可能で、またそれは単なるその時点でのそのテストの序列にしか過ぎない。そこで培ったスキルがどの位役に立つのかも分からない。今の教育システムでもある程度の適応力と潜在能力の開発には当然貢献しているだろう。しかしそこでのテストの結果を全てに当てはめて若者の仕分けをするところに問題がある。 ■ 賢く見える人間を幾ら作り上げても何の解決にもならないし、“俺は一番だった”という勲章に拘って生きるような人達に何かを期待しても無理だろう。ましてそんな通行証が一生付いて廻る組織は通常の感覚で言えば異常と言うしかない。 予定調和の中だけしか通用しない能力に幾ら期待しても新しい問題の解決は難しい。一番に拘って生きるところに組織としての弱点があることを大人は分かっていると思う。 ■ マラソンも10キロ時点での順位は関係ない。フルに走って初めて結果が出て評価される。20代前半の評価がいつまでも通用し、その序列が生涯守られるところに限界が見える。 極東の国での評価は必ずしも国際的に通用する物差しではない。あらゆる分野で綻びが見える今、物差しをグローバル・スタンダードに変えるのも一案かもしれない。 ■ 学ぶということは、少しは先の見える人間を育てる事であり、何より学を究める真摯な姿勢と謙虚な取組みが要求されるであろう。学校で首席だったとか、働く場所で利口そうに見られることが価値判断の基準ではない。それを売り物にするのは大局観を持たない視野の狭い人間の陥りやすい落とし穴だ。上から目線で話したがる人達に共通する臭みだが、その本質は心ある人には見抜かれていると思った方が良い。本物の人物はそんなことには拘らないもので、歳に関係なく何より佇まいに自ずと風格が見えてくるものだ。 ■ 先日野党の党首になった人物が、記者会見の席で自作の漢詩を披露していた。得意満面の表情には国民の賞賛を期待しているような様子も伺えた。故事来歴から引用するのなら兎も角、何故に自作の漢詩で自分の思いを日本国民に訴える必要があるのか理解出来なかった。それをやるなら英語でもフランス語でもドイツ語でも韓国語でもやるべきで、そうでなければ中国寄りと非難が出ても仕様がないだろう。やるなら、その前に日本国民には日本語の詩で心情を披露するべきではないだろうか。 案の定、後日産経新聞の一面で専門家からその漢詩の用語の間違いと出来の悪さが遠慮なく指摘されていた。賢く見せるつもりだったのに大恥をかいた典型的な例だ。ちなみに日中国交回復がなった際、時の首相田中角栄が漢詩を披露したが、それは中国で行ったことであり上手・下手は別としてその時その場所でそれなりの意義があったと認められよう。 ■ 何故に人は他人から賢く見られたがるのか。これは万人が持つ性向で、かつ万人が嫌う性向でもあるだろう。つまり、自分がやっても人がやるのは許せない類のよくある矛盾する命題だ。それが分かっているから少し気配りのある人なら、明け透けの馬鹿な真似はしないだろう。賢く見せたがるのは理念や主張よりパーフォーマンスで生きている男たちの真骨頂とも言える。 ■ その裏に自信の無さを垣間見るのは私だけだろうか。 平成25年2月6日 草野章二 |
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