しょうちゃんの繰り言
挑戦の壁 |
何か新しいものに挑戦する時、本人に素質があるかどうかは別として、初心者は普通不安な心理状態にあると推測される。“自分に出来るのだろうか?”という素朴な疑問は凡人の初心者には常に付き纏う。指導者が能力を発揮出来るのはこういった不安な初心者に向き合った時だろう。生れ付きに才能を持った例外的な人もたまには居るが、それでも最初から楽器を弾ける人はいない。語学の学習でもそうだろう。スポーツにおいても然りである。新たな挑戦はその時点に存在する壁を乗り越えることから全てが始まる。 ■ 私が大学時代、短い間であったが経験した洋弓の上達過程においても、その壁は存在していた。決められたそれぞれの距離に1点から10点までの同心円の的が描かれていて、各距離合計36本の矢を放ち点数を競う。当時、学内のシューティング・レンジには距離が30メーターしかなく、これからの話はこの距離がベースになっている。金的と呼ばれている中心の10点に全部の矢が納まると360点になり、これが満点の最高得点になる。 ■ 初心者には最初100点の壁が存在し、それを越すのに苦労した。同様に150・200・250と壁が続き、その壁は段々と高く難しくなった。ちなみに300点は当時夢の点数だった。弓や矢の素材、それに装具が極めて原始的だった50年以上前の話である。今の得点とは単純に比較は出来ないと思うが。 ■ 一緒に始めた同期が一人でもその壁を破ると、不思議に他の連中もすぐに追いついた。どの壁も先駆者が出さえすれば追いつけた。“あいつが出来るのなら”という競争心が基本にあることは充分理解出来る。今考えてみると、壁は自分が作っていることが多かった。自分には無理だと気持ちが消極的になり、途中まで上手く行っていても点数を意識すると最後に乱れ、壁を前に立ち止まることが何度もあった。皆に先んじて壁を越えた時の喜びは競技をやらない人でも想像は付くだろう。こういった切磋琢磨がチームとしての強さになった。専門の指導者が居なかった創設したばかりのクラブ活動は試行錯誤の連続だった。 ■ 上達してくると当初の壁が嘘みたいに思えるが、こういった行程を経なければ安定して高得点を出すことは出来ない。これはあらゆる分野に共通するだろう。洋弓は単に肉体の競技ではなく、ゴルフと同じ様にメンタルな部分が大きく影響を与える。的が小さく自分との戦いという意味ではゴルフ以上にメンタルな要素が大きいとも言える。 ■ ゴルフにも50の壁がビギナーには待ったおり、次には45の壁が厳然と聳えている。40の壁を越え30台を出すにはさらに厳しく、簡単に運や、つきの連続では出せないスコアーだ。私も50年近く前にゴルフを始めたが、当時アマチュアで45のスコアーで廻る人は珍しかった。用具の発達もあると思われるが、今では45くらいでは大きな顔は出来ないだろう。身近の誰かが壁を破ると不思議に周りから何人かそれに続く人が出てくる。もっともハーフで50を何年経っても切れない人には縁の無い話だろうが、そういった人達には“ゴルフは親睦と健康が目的”という立派な言い訳が用意されている。仲間から愛され鴨にされるのはゴルファーの大部分を占める彼らだ。 ■ 近代オリンピックでも当初の男子の記録は、100メーター短距離走を含め、今ではことごとく陸上・水泳を含め女子に破られている。古橋広之進が、戦後間も無く1500メーター自由形で出した18分19秒という記録は当時破られないだろうと言われていた。今では女子も簡単に出せる記録になった。オリンピック鉄棒で金メダルを取った小野選手の演技は、今では8点台だとある記事で読んだ記憶がある。この点数では日本代表にも現在では選ばれないだろう。偉大な先人の記録は破られる為にあると言う人さえいる。 ■ 元々人間は、自分自身の経験や親を含めた先人の教えから学び、危険や害のあるものから自分の身を遠ざけてきた。我々が今安心してキノコを食べられるのは、先人達の多くの試行錯誤の結果である。フグでもそうだろう。食べるものに関して、現代の我々がやる選択は味も含め正に先人の犠牲と知恵の集積の中からなのだ。この原則は全ての分野に及ぶ。未知のものに用心深いのは人間の培った知恵なのである。同様に自分の力量を自己判断するのも経験から来た知恵と言うしかない。従って無謀と思われる挑戦は普通の大人はあまりやらない。やってもあくまで趣味の世界に留めている。その証拠にサラリー・マンからプロ・ゴルフの第一人者になった人は居ないようだ。あらゆる分野でこの判断は大人の常識として身に付き、新しいことへのチャレンジに壁を作っているように思える。時として素人離れした技量を持つ人が色々な分野で出てくることがあるが、これはあくまで例外で、通常我々凡人は甲羅に合わせた穴で生活している。可能性の少ないことには大人は最初から手を出さないものだ。 ■ 己を知った抑制も大人の知恵として大事だが、この先入観による壁を感じない人たちが居る。それは子供達だ。子供は何の先入観も持たず自分の夢にチャレンジする。これが実は大事なのだ。挫折は大人になるまでに何度も経験し、それがその人に人生の厚みと深みを教えてくれる。単純で利便性の高いことしか選ばず、それを器用にこなせば道が開けるとなれば、苦労の多い他の選択はしなくなるだろう。子供にとって勉強の出来る事が全てとすれば、スポーツも遊びも知らない未熟な人間が形成されるだけであろう。これは子供の選択ではなく、大人の皮相的な価値観の押し付けにしか過ぎない。無駄と思える挑戦でも学ぶことは沢山ある。その挑戦の中から先人の記録を破る人材も育ってくる。これは何もフィジカル(肉体的な)部分での強化に終わらない。メンタル面でも学べることは幾らでもある。何かに挑戦する事は人間として成長していく過程での大事な総合的トレーニングと言える。若さは将来に対する無敵の武器だ。 ■ 成人には自己規制というブレーキが働くが、それは己の可能性の限界を知ったからだろう。多くの場合、特に組織に組み入れられた人たちは新しいものに挑戦しようとしない。彼らは組織内での軋轢を最初に考えるからだ。摩擦や抵抗の大きいものを避けようとする。こういった互いに物分りの良い社会では、組織内で出来上がったものに対する挑戦より、自分の安住の場所を見つけようとする。組織自体が極めて活性化していて、常に新しいものへの挑戦を続けている場合、誰にもチャンスは与えられているだろうが、残念ながらこういった組織はあまり無い。あるとしても個人のインセンティヴが約束されているセールスや金融の、利益追求を至上とする世界だろう。普通、公共のサービス機関は新しいことへの挑戦はやりたがらない。老成した組織や人間は本質的に変化を好まないものだ。 ■ ただ、生産効率の上昇を求めて各メーカーは色々な試みをやってきた。これはあくまで人間を生産手段と見なし、単位時間当りの生産量の増加が目的で、そこで必要とされているのは単純作業のスキルの上達だけだ。チャップリンが風刺した世界とあまり変わっていない。変わっているのは機械にその大部分を任せるようになっただけだ。人間が根源的に持っているチャレンジへの意欲をそそるものではない。 ■ 考えてみると、人間が人間らしく生きることは、現代では非常に難しくなっている。価値は生まないが金を儲かる仕組みを資本主義社会は合法的なものとして作り出した。秒単位の株や為替の取引はどう贔屓目に見ても博打にしか見えない。そこで巨万の富を得た人達が英雄視され、それに追随する人や企業が後を絶たない。経済のダイナミズムという言い訳がちゃんと用意されていて、日本でもこの不労所得に群がる人や、それを推奨する経済評論家と称する人達までいる。我々は「金の縛り」から超越出来ないのだろうか。 ■ 個人が人生で挑戦出来るものはそんなに多くはない。気が付かない内にその挑戦の機会さえ持てないで人生を終わっていく人も数多く居る事だろう。過日、リーマン・ショックを期にウォール街から足を洗い、漁師の道を選んだアメリカ人のテレビ・ドキュメンタリーを見た。彼は自分の歩んだ金融の道を全否定し、二度とウォール街に戻らないと明るい顔で述べていた。皆で同一方向に走っている時は誰も違和感を持たないで済む。気が付いた時にはヒットラーが独裁的な強権を持ち、日本がバブルで膨らんでいた。リーマン・ショック以前も警告を発する人は限られていた。この愚かな過ちを人間は何度も繰り返さなければいけないのだろうか。 ■ 若き日に挑戦したのは何だったのかを考えると、我々には単一の価値観で計れないものがあることに気が付くだろう。法はあくまで最低のラインを明示しているにすぎない。社会の慣行も小市民的な生活を乱さない暗黙のルールにしかすぎない。法は犯していなくても、人間として許されないものもある。 ■ これだけ教育が普及し飢え死が無くなった社会で、少なくない数の人たちが不満を抱えて生活している。精神の満足が無ければ人の心は空虚な儘で満たされることは無い。家族間のトラブルは貧乏な人達より、資産を持った人達に多く発生しているように見える。戦後、焦土から立ち上がった日本人は経済の発展を成し遂げたが、家族の一体感や生き甲斐は貧しかった頃より充実しているのだろうか。友人の言う“小商人(こあきんど)”の発想と判断基準で生きれば、私欲と小銭が全てを支配することになる。 ■ 誰しも試みたであろう若き日の挑戦は、少なくとも心躍るものがあった。社会や組織の仕組みが分かり、言っても無駄だという心境になった時、我々は大人になったとも言えるし、進歩が無くなったとも言える。変化を好まなくなれば充分に老成したと言えるだろう。誰かがやってくれるだろうという期待は何の意味も無い事を知るべきだ。より良いものへの挑戦は幾つになっても出来る。教育は利便性と個人の栄達の為だけにあるのではない。少なくとも自分で考え判断する基盤を養うべきだ。6・3・3・4と、大学まで出ると人は16年間も学ぶ時間がある。これだけの時間があれば人間にとって大事な事を教える時間は充分にある。小賢しい断片的な知識をいくら詰め込んでもたいした人材は育たない。今日の日本を見れば明らかだろう。 ■ 何が大事か経済学者より哲学者に教えて貰った方がいい。底の浅い成績優秀な人間や、出たがりの人間が何も残せなかったのは福島原発の事故対応からも良く見えた。松下さんは壁の存在とそれを越すことの意義を塾生にちゃんと教えたのだろうか。偏差値最高の学校は学生に学ぶことの意義をちゃんと教えているのだろうか。 ■ 世間ではこういう意見を“出てない奴のひがみ”と言うらしい。やれやれ、壁は依然として高い。 平成25年6月25日 草野章二 |