しょうちゃんの繰り言


しがらみ

久し振りに例の口の悪い友人が訪ねてきた。彼は古稀を迎えてからこの二年間で脳梗塞・出血性胃潰瘍と立て続けに発症し、昨年(2013年)の終戦日には隠遁宣言までして少ない友人との交渉も絶っている。運動機能に後遺症が少し残りはしたものの、彼曰く「頭はまだ衰えてない」そうだ。現在は奥さんと二人だけの生活で、彼の言に依れば「パンを求めて生きている」らしく、質素そのものだと言う。「平たく言えば年金生活ということだ」、と彼は笑って続けた。自分の生き方に拘って世間との折り合いを無視した付けとも言えるが、現代で自分を貫いた彼は我々には真似の出来ない境地にあり、ある意味でその生き方は男として羨ましくもある。見せかけの権威を認めず、常に何か新しい発見を事ある度に私に教えてくれた。本人は相変わらず落ちこぼれを自称しているが、これは本人の照れであろう。「しがらみの無さが俺の気楽なとこだ」といつもの口調で辛辣な意見を述べる姿には未だに往年の迫力が衰えず残っている。

「人が他から影響を受け、その中で育つのは当然の事だが、昨今の国内世情から判断するに何を学んで来たのか分からんような連中が続出して、つい余計な事も言いたくなる」、かみさんが炒れたコーヒーを口にすると続けた。

「専門的には何も学ばなかった俺だが、魚は語れなくても旨いかどうかの判断はつく。同じ様に鮨屋のおやじと鮨論争をやる気もないが、出されたものが旨いかどうかは俺の判断だ。どんな発明でも世間が受け入れなければ意味が無い。経済や経営学を学び、知識を極めた連中がビジネスで成功するなら名の売れた教授連は引く手あまただろう。だが、事実は残念ながら世界的な経済学者でも理路整然と間違えた例の方が多いがね」、手にしたコーヒーカップをテーブルに戻すと、おもむろに煙草に火をつけてさらに続けた。

「どの分野でも自分の意見を述べるというのはかなり勇気が要ることで、中身次第ではすぐに化けの皮が剥がれる。交通事故の記事なら駆け出しの記者でも書けるが、世間(読者)を相手に論陣を張るにはそれなりの判断と見識が必要だ。中身以前に議論や論証とはどういうものかが分かっていなければ主張に説得力は生まれない。女性には悪いが性悪女の言い逃れの様な論理構成が未熟な内容では、インテリは騙せても大人は騙されない」と、何処に繋がるかまだ分からないが、舌鋒は相変わらず鋭い。

「子供の頃、いろはカルタに“無理が通れば道理引っ込む”というのがあって、今でも年配者なら覚えているだろう。専門的知識は無くてもある程度の判断は付くものだ。現地の人達も否定している力ずくの女性拉致や、居住者人口より多い人数の殺戮など考えなくてもあり得ない事が分かる。まして日本刀で100人を殺すなど二人の人間で成せる技ではない。国外の世情も国内と似たようなもので、あまりにも馬鹿げた根拠の無い主張は普通なら通用する筈は無いのだが、隣の国では史実として残され、それを後押ししている我が国のマスコミや政治家もいる。国連という名でお墨付きが出されても、その判断が妥当だという事にはならない。まして自分の票欲しさに靡く政治家なんてどの国でも居るし、日系だろうが土着だろうが道理をわきまえない人間に何を言っても無駄だろう。人としては未熟でも国会議員になれるのは日本でもアメリカでも同じだ。国連の委員が判断力を欠くのもあり得る事だと思うべきだね。新聞でも同じだ。背景の舞台が整っていれば人は信用しがちだが、そこにも間違いや意図したバイアスの掛ったプロパガンダなら幾らでもあり、相田みつを風に言えばそれも“人間だから”ということだろう。道理がいつも通るとは限らない」

言われてみれば道理が引っ込む事はどこにでも見られる。個人レヴェルでの発言のぶれは主に損得の判断から出ているが、国レヴェルでも同じ様に国益が基準になっている。そして、卓越した能力を持つ国は周辺国を警戒させ、いわれなく非難される事が多いようだ。それが我が国だと強調する気はないが。

「歴史を見れば明らかな様に人類は常に争ってきたし、今でも争っている。力(軍事力)や経済が支配し、先住民を蹂躙して出来た国はアメリカやオーストラリアだけではない。国境が数十年単位で変わっていたのが各国陸続きのヨーロッパだ。アジアでも同じことが起きていて、植民地は数百年前の歴史ではなく我々の父や祖父の時代まであった。日本が明治以降“富国強兵”を唱えて国造りに励んだのは欧米列強の支配から逃れる為だった。歴史は立場が変われば別の解釈が成り立つが、植民地に本国の予算で学校を含めた社会的インフラを建設した例は日本を除いて無いようだ。台湾では後藤新平が総督の時代、本国を凌ぐ上・下水道が敷設されている。医者である後藤が台湾の衛生状態改善の為行った事業だった。彼には関東大震災後の東京改造を含め、合理的な先見の明が常にある。

朝鮮半島や満州でも教育の普及はもとより、道路・鉄道を含めた近代国家への準備が基本的には日本の国家予算でなされている。侵略と略奪だけが目的なら欧米流で済ませればいい筈だが、日本はそうしなかった事実を自虐史観で簡単に纏める前に考えてみるべきだね。支配された民から見れば言い分は幾らでもあるだろう。ただ、彼らが非難・中傷するような事ばかりだったとすれば、台湾を含め他のアジアの国々からも同じ声が挙がってもおかしくない筈だ。二国を除けばアジアでの日本の評判は悪くないし、むしろ感謝の声さえ彼らから聞く事が出来る。日本が何故戦ったのかも今のうち良く検証しておいた方がいいだろう」

歴史が定着するまでには時間が必要だと言われている。時として史実に無い事も入り込んでくる可能性さえある。彼がいつも問題にしているのは大きな時代の流れの中で、日本がアジアで示した欧米列強国に対する日本の姿勢だった。どれが正しくてどれが間違っていたのか日本人である我々が冷静に検証するべきで、中途半端な政治的妥協で済ませるから間違った事実が世界に流布されることにもなる。歴史はその場しのぎで曲げてはならないというのが彼の一貫した主張だ。間違っていたらそれこそ謝るべきだが、“史実に反する事まで我々が受け入れる必要はない”というのも彼の基本的な姿勢だった。誰が考えても納得のいくまともな判断だ。それが出来ないでいる日本に彼は苛立ちを見せているだけだ。

「自国の権益を侵す国にはどの国も容赦がない。資源の無い日本が大国になるのを好まなかった当時の先進国がどういう手段で日本を抑え込もうとしたか、これも良く検証するべきだろう。そこから見えてくるものは正義の連合国と諸悪の根源である日本帝国という簡単に割り切れる図式ではない筈だ。戦争に負けたため戦勝国主導で行われた極東裁判での判決を日本政府は受け入れたが、裁判そのものの正当性を我々は受け入れたものではない。極東の資源も無い小国が列強国を相手にあれだけの戦いをしたのは白人社会にとっては脅威だった。武器も軍隊も放棄した憲法は独立国としてはあり得ない事だが、平和憲法を押し付けた彼らの主旨は日本国の弱体化だった。戦争に負けた我々はその憲法を平和への願いとして受け入れ、結果として戦後瞬く間に復活し、壊滅的焦土から経済力世界第二の国にまで40年足らずで発展した」

そこまで話すと家内にコーヒーのお代わりを要求して続けた。

「正に我々世代がビジネスで体験したのは戦後日本の経済発展そのものだった。アメリカとの軍事同盟で守られた日本は幸いにして戦火にも見舞われず、経済の発展だけに専念していれば良かった。同時に、戦後どこの国の政治家か学者か分からないような主張をする集団も日本の国力を削ぐ意味では戦勝国に受け入れられた。ジャーナリズムの一部もそれに追随し、それをリベラルな良識派だと国民の一部は今でも思っている節がある。

“しがらみ”とは“水の流れをせくために、くいを打ちならべて、これに竹・木を横たえたもの”という説明が広辞林にあるが、場合によっては“しがらみ”が国の正常な歴史の流れを阻害している事もある。世間に対して大きい声で話せる立場の政治家やジャーナリズムはその声の大きさと同じ責任が伴う事を忘れて貰っては困る。史実や事実を曲げてまでしがらみを作る必要はない。もし政治家やジャーナリストに教育を受けた知性ある人間としての自負があるのなら、もう一度自分のスタンスを考えてみて欲しいものだ」

何時もの彼らしい口調でさらに続けた。

「“よどみ”や“しがらみ”は人間社会のどこでも見られる。互いにお里の知れた仲間内なら目くじら立てないのも大人の判断だろう。だが公の問題、特に国が絡んだ事象には毅然とした対応が必要だ。自己主張だけではなく、負の遺産も直視する事から国際的な信頼も増すだろう。近隣の主張が捏造された事実に世界は気が付き始めている。我々がやるべきことは相手より大きな声を出すことではない。事実は事実として認め、根拠の無いものには毅然として拒否する普通の対応が今必要だろう。それが出来ない新聞社や政治家は我々の手で葬るだけだ。民主主義とは国民の意思と総意で運営されなければ何の意味も無い」

彼の発言は私から見れば過激でも何でもないが、往々にして右のレッテルを張られる事がある。当たり前の事が当たり前として通用しない方が怖いことで、それが出来なければ現状に甘んじるしか選択肢はない。ただ、我々が考えるべき事は日本の発展やその結果の国力の充実を望む国ばかりとは言えない事だ。天皇の執刀医である天野教授は「出た杭は叩かれるが、出過ぎた杭は叩かれない」と言っていた。物質面での杭は叩かれる可能性が高いだろう。もしそこに理念という精神性を込めれば叩かれない可能性はある。人や他国がどういう姿勢で挑もうと、精神性の高さはいずれ理解され尊敬される可能性さえある。

「人や国はどうしても目先の利害に惑わされる傾向がある。もし我々日本人に盤石の哲学があれば、それこそ平和憲法に頼らなくても名誉と尊厳を貫く事は可能だろう。そのためには施政者やオピニオン・リーダーは良く考えて行動して欲しい。本来教育とはそういった判断の出来る人材を育てるのが目的だと思うが、昨今のゴタゴタを見ていると教養ある人間の技とは思えない事が多過ぎる。日本の良さが失われている気がしてならない」

しがらみの無い人生はあり得ないのかもしれない。それでも彼みたいな選択をして生きているのを実際に見ると不可能だとも思えない。欲を捨てることは人にとって一番難しい事かもしれないが、“俺の生き方が子供に残す財産だ”と公言している彼を見ていると自分にも可能だと最近思えるようになってきた。

私の場合、単に残す財産が無いせいかもしれないが。

平成26年11月6日

草野章二