しょうちゃんの繰り言


二進法の世界

私達は数に関する事柄には日常の生活の中で10進法に馴染んでいて、それが基本になっている。そのことを普段疑問に思うことさえもない。金の計算や年齢も10進法で表し、何の不自由もない。ところが例外的に時計は何故だか60秒が1分で60分が1時間になっている。そして24時間が1日だ。鉛筆も何故だか1ダースと子供の頃から時計と同様12進法でその数を表現している。イギリスのかつての通貨の仕組みはもっと複雑で、12ペンスが1シリングで、20シリングが1ポンドだった。これは12進法と20進法、それに10進法の組み合わせだ。イギリス国民は日常の買い物の時、はなはだ厄介だっただろうと思われるが、何故彼らはこういう複雑な通貨の仕組みを考えたのだろう。

かつてのイギリス・ポンド通貨の隠された秘密を細かく見てみると:−
10進法は2と5の倍数に分解できる。(ポンド)
12進法は2,3,4,6の倍数に分解できる。(ペンス)
20進法は2、4、5、10の倍数に分解できる。(シリング)

以上のことからイギリスのポンド単位の通貨は2、3、4、5、6、10で割れた。多くの倍数に分解出来るのは数学的には非常に優れているが、10進法に慣れている人間には、とても分りづらかった。

だが、かつてロンドンで3人の悪童たちが道端で旧5ポンド札を拾っても彼らは平等に分けることが出来た。通貨の仕組みに3で割れる12進方が組み込まれていたから可能だったのだ。(5ポンド=100シリング=1200ペンスとなり、一人当たり400ペンスとなる。400ペンス=33シリング4ペンスとなり、それは1ポンド13シリング4ペンスとなる。計算は各自試してみて下さい)

10進法のドルや円では5の単位の通貨を3人で分けることは出来ない。つまり10進法ではそれは不可能なのだ。だが、旧5ポンドは3人以外に同じ様に4人でも6人でも平等に分けることが出来た。同様に先人が時間を計るのに12進法を採用したのも数学的特性が優れていたからだと理解出来る。

この数学的には優れたポンド通貨のシステムをイギリスは1971年に10進法に変えている。計算の複雑さと煩雑さにイギリス国民も音をあげたのだろう。若しくは国際間取引での他国の圧力だったかもしれない。今ではロンドンで5ポンド拾ってもイギリスの悪童たちは3人で平等に分けることが出来なくなった。

10進法が普及したのは人間の指の数に原因があるそうだ。世界中で数を所謂算用数字で表し、インド人がゼロ(0)の概念を考え付いたお陰で私達は簡単な表記で大きな数字を自由に操り、互いに素早く理解し計算出来るようになった。私は73歳だが、日本式には七十三歳と表す。この程度の数ならさほど問題ないが、和数字で桁の多い掛け算をし、国家予算を表せば大変な手間が掛かるだろう。元々イチ・ニイ・サン・シ・ゴという数の言葉と1・2・3・4・5という算用数字は日本語ではない。日本ではヒトツ(一)・フタツ(二)・ミッツ(三)・ヨッツ(四)・イツツ(五)と数え、このように和数字で表していた。10進法では0から9までの算用数字でどんな桁の数でも簡単に表記可能で、世界中の民族がこの認識を共有し、理解も出来る。

もし人間の指の数が12本だったら間違いなく12進法が基準になっていただろう。その方が10進法より数学的には優れているのだが、指の数の現実には12進法も勝てなかった。孫娘は最近簡単な足し算が出来るようになり、もっぱら計算に指を使っている。こうやって指は幼い子を10進法に自然に慣れさせ、それを定着させている。

パソコンは今では世界中で普及し、通信を含めたあらゆる分野で我々の生活に入り込んでいる。1964年に東京オリンピックが開催された頃、世界の通信手段は電話かテレックスだった。テレックスはキーボードで打ち込んだ文字が電気信号に変わり、それを打ち込んだテープで通信相手にメッセージを流していた。直接交信も出来たが、テレックスは専門のオペレーターがキーボードを操作していたため原稿を書いた本人が直接相手と交信することは普通なかった。今のパソコンと違いテレックスは個人で簡単に利用できる代物ではなかった。沈んだタイタニック号も船客の株取引のため、船内にテレックスが備えてあったという。

私が社会に出た頃の国際通信は電話とテレックスしか無く、双方とも通信するにはKDD(国際電信電話)経由で申し込み、時として長い順番を待たねばならなかった。それも今考えれば法外としか言えない高い値段だった。

パソコンは2進法が基本になって作られた計算機だ。Computerとはまさに直訳すれば計算する人、若しくは計算機となる。そこで利用される2進法とは0と1で出来ていて、パソコンの原理を分りやすく説明すれば、電気が点く(On)、消える(Off)という単純な電気物理現象を0と1にして入力しているらしい。

2進法で入力された電気信号を10進法の数字に変換して我々に伝えたり、音声や文字・絵として情報を提供したりするのが、今私たちが使っているパソコンだという。どんな使い方にせよ、その反応と計算スピードは速いが、入力した範囲の答えしか出てこない。考えてみれば当たり前のことで、所詮電気式機械能力には限界があり、人間を訓練するのとは訳が違う。門前に置いていても勝手に自分で習わぬお経を読むことはない。ただ教えてやれば(インプットすれば)いつ如何なる時でも正確に寸分違わず再現してくれる。

教えたことに忠実に反応し、しかも完璧に早く作業をやってくれるが、教えてないことには何の適応も出来ない。コンピューターは自分で考えることは出来ないからだ。ますます何かに似てきた。これは若しかしたら日本の教育が求めている(?)理想の姿ではないだろうか。ただ、この機械は通信分野だけを見ても、国内はもとより国際間の対応も迅速・簡便にしてくれ、その経費は桁違いに安くなっている。

コンピューターによって通信は便利になり、計算の精度とスピードは確実に上がった。今や、あらゆる産業・商業分野でコンピューター無しでは円滑な工場・会社運営は出来ないだろう。だが、コンピューターは、ある原則に則った作業を人間の能力の数倍・数十倍・数百倍のスピードで処理するだけの機械(計算機)に過ぎない。如何にメモリー(記憶)装置や演算速度に桁外れの能力を持っていても、自分で判断する能力は無い。判断は人間が与えた条件の下でしか出来ない。つまりどう進化してもその本質は道具だという事を我々は忘れてはならない。その利便性は多としてもその活用には最終的に人の知恵が必要になる。道具はどう使いこなすかが一番肝心なポイントだ。

人は上に出した例のように用途に応じて数を10進法、12進法、20進法で数え、他にも必要に応じて幾らでも対応出来る。又、人は2進法を電気の特性からコンピューターの基本原理に利用した。だが、人間そのものは1と0若しくはプラスとマイナスといった選択法で物事を処理している訳ではない。現象的に同じ結論が出ても、そのプロセスは何通りもある。人の数だけあるといった方が正しいだろう。数学・物理の世界では綺麗な単純化された式で答えが描けても、人間の感性や情念は一定の公式に当てはめる事さえ難しい。この融合は未来永劫に不可能だろう。例えば“人は何故(なにゆえ)に人たり得るか?”という設問には各自が答えを出すしかない。我々が価値と呼んでいるのは、求め続けている中に普遍的に残る“何か”ではないだろうか。その何かは宗教によって違うだろうし、民族の文化によっても違うだろう。哲学が全てを解決してくれるとも思えない。人類共通の目標として“何か”があれば幸いだが、生きている限り永遠のテーマーとして我々に圧しかかってくるだろう。

人はその時代までに得られた知識や知恵を生まれながらに獲得して世に出てくる訳ではない。一方、時代によって進化した0と1だけの信号の組み合わせで命を吹き込まれたコンピューターという電気式機械は21世紀の世界に革命的な変化をもたらした。その利便性は否定出来ないが決して万能の計算機ではない。今後もコンピューターを含め科学文明は飛躍的に進歩するだろう。何代繰り返してもゼロから始まる人間は教育という手法で短時間に科学技術の進歩に追いつかなければならない。人間との本質的なギャップはこれからますます増大するだろう。

この文明の利器は秒単位の株や為替の取引も可能にした。しかしそこで動く金は単なる利益を生み出すかもしれないが、同じ確率で逆になることもあり得る。言えることは価値を生み出してないということだ。そこで幾ら財を成してもただそれだけのことである。これは人間だけに許された判断だ。

ともすれば人間世界は単純な物差しで価値を計ろうとする。金融機関や多くの世間の人達が年収の多寡や資産で人を計るのも現実的な方法として認めざるを得ない。もしそれが全てだとすれば、多くの人達は少数の経済的成功者のために奉仕しているに過ぎない。年収10億円の社長を、正社員や給料の安い契約社員で支えなければならない。非正規社員の問題を追及しているテレビ局も、番組を制作している下請け会社ではそこの社員がテレビ局の半分以下の給料で働いている事実も伝えるべきであろう。多数を占める経済的弱者は決して落ちこぼれでもなく、人間不適格者でもない。銀行が相手にしない人たちの中にも素晴らしい人は、私の周りだけでもたくさんいる。

我々はあらゆる分野で科学文明の恩恵を受けている。そして何かを得れば、その対価として何かを失くしている。便利さの代償は必ず求められる。人がコンピューターに支配され、2進法で出された指針に従うのは決して賢い方法ではない。2進法が21世紀にもたらした文明の利器は、道具としては際立った能力を見せてくれるが、人間の感性や大事な価値判断には常に人間の制御が必要だ。

人の生き方が経済に重点を置き、あまりにも単純化され価値観が一元化されれば、人生の膨らみや揺らぎは不要なものとして葬られるだろう。私にはその兆候が気になって仕方がない。

21世紀には新しい哲学が必要に思えてきた。

平成25年12月4日

草野章二


編集人注 これはかつての6ペンス銀貨だ。引き出しの中に3枚あった。1ポンド=240ペンスというのは、1ポンド(重量)の銀から240枚の1ペニー銀貨が作られたことに起因する。

筆者も書いている通り、イギリスの通貨単位は1971年2月に1ポンド=100ペンスと改訂された。その理由は「計算が面倒だから」である。章ちゃんの言う「5ポンドを3人で分けられる便利さ」は葬り去られたのである。

頭のいい人が考える「利便性」と、頭の悪い人の考える「利便性」とは大体相反することになる。 面白いもんだ。