しょうちゃんの繰り言


権威の背景

世間では、人生一度も賞を貰った事の無い人の方が圧倒的多数だろう。賞と言っても色々あり、「ミス練馬」や「ミス蜜柑」とか「ミス大根」みたいなものもある。背景が大きいほど権威があり、有難味が増すようだ。私も中学時代皆勤賞を貰った。学校を休まなければ誰でも貰えたが、意外とその確率は低かった。考えてみれば全員に出す賞はあまりないようだ。例えあっても誰も喜ばないだろう。希少価値が一番の決め手で、またその対象範囲が広いほど世間の注目を集め賞賛を浴びる。それが世界レヴェルだと一番価値がある事になる。

今年もノーベル賞が発表される時期となり、日本からも物理学賞に3人が選ばれた。素直に国民としては嬉しい事で、かつ他人事ながら晴れがましい。敗戦後の明るいニュースに湯川秀樹博士のノーベル賞受賞があった。ノーベル賞が何の事か小学生だった私はそれまで知らなかったが、担任の先生は子供にも分かるような説明でその偉大さを教えてくれた。賞金が大変な額だということも同時に教えて貰った覚えがある。

日本でも皇居で天皇陛下から直接拝領する文化勲章という権威ある賞があるが、中には叙勲を辞退した人もいれば、天皇制を過去に批判していながら貰った人もいる。確かノーベル賞は貰ったが、文化勲章は辞退した人もいたようだ。人、様々で賞に縁のない人間から見れば彼らのパーフォーマンスに対してはどうしてもトーンは落ちるし、醒めた感想になるのは致し方ない。子供の頃ビール瓶のキャップを胸に付け、「勲章だ」と言って遊んだ記憶がある。これは全国区の子供の遊びだったのだろうかと、今にして思えば確かめたくなった。子供は自分で勲章を作り、自分で胸に付けた。男の子なら当時誰もがやっていたが。

人が社会に貢献し表彰されるのはいい事だとしても、少し世間を知った後の眼で見ればノーベル賞と雖もその物差しに時として疑問を持つ事がある。文学賞で言えば当然言葉の問題があり、審査員に分かる言語で書かれた方が有利だろう。平和賞は政治がらみだと問題になる事も時としてある。人の主張には二面があることを大人なら分かるだろうが、そこには誰もが納得する尺度は少ない。我々の正義は別の国の正義になり得ない事も多々ある。人がやる事には常に限界があり、時として判断を誤る事もある。また、時代によって価値が変わるものもある。賞を与える側の審査員も大変な思いをしている事が想像出来る。

ただ言えることは極めて少数の例外を除いて、人は賞を喜び、時には欲しがり、そして当たり前だが権威があればある程世間の話題になる。また別の面から眺めれば、貰う側にも色々ありそうだ。それでも功績と表彰が誰の眼にもバランスが取れているのが一番いいのだろう。

科学分野の業績に対する表彰には人格の審査は無いようだ。一般的な人の基準に収まらないから偉大な事を成しえたとも言える例が沢山ある。いずれも凡人の発想や並みの努力で手に出来る賞ではないようだ。

ノーベル賞には無い分野だが、数学の世界では聞くところに依ると、一般から見れば奇人・変人の類が多く、中には精神に異常を来たした例もあるそうだ。数学の世界では類まれな才能を持った人が自分の限界に挑み、それでも新しい証明に生涯で成功する例は少ないという。幾何学では、簡単に思える任意の角の三等分が出来ない。誰にでも出来そうな問題だが、これが出来ないと言い切る事も我々並みの頭では難しい。有名なユークリッド幾何の三大不能問題の一つで、素人から見てもこれだけの話で興味が湧いてくる。一生の間に一つでも功績が上げられれば良しとする世界らしい。ただ、数学の世界は我々凡人にはあまり向かないのは確かだ。

社会に貢献した人を評価して表彰するのは理に叶っているし、人間社会の仕組みとしてはどこでも見られ、万国共通のセレモニーとなっている。国境を越えた世界的な規模で評価されるのがノーベル賞で、現在最も権威ある賞とされている。自然科学の世界は評価が極めて明確で部外者にも納得がいく。画期的な発明や発見があってもそれが定着し、学界や万人が認めるまでには時間が掛り、ノーベル賞が与えられるのはそれからになる。実はここに権威を保つ平凡なルールがある。カソリックの世界でも聖人として認められるのは現実世界の時間単位ではない。100年、200年は当たり前の単位で、異教徒から見ても精神世界の奥行きを感じる。

一方、現代に生きる我々は何事にも早い対応が求められ、それが時として一番肝心な事もある。自然であれ人工的であれ、災害に対する対応は迅速でなければ意味がない。ただ、スピードを求める現代では全ての面で拙速に過ぎる事象が時として見られる。特に利益を求める場合その傾向が強いようだ。

普通、人が集まる組織では経済活動を目的とし、そこに属する各個人は生計を得るために自分の能力を発揮する。政治・司法・行政の世界では経済活動を目的としなくても働く人は生計をそこで得ている。どこで生計を立てようと、人は自分で選択し普通なら生涯そこで勤め上げる。人はそれぞれに遣り甲斐を求め、自分なりに納得した人生を送る事になる。だが、社会にとっても個人にとっても遣り甲斐を含めて適した選択だったかどうかは分からない事の方が多いのではないだろうか。もし目先の利益に走る人生だったら、残念ながら本人を含め万人が納得する美学が無い。

今の日本では希望者が多いとこでは様々な方法で選別している。宝くじは買った人全てが一等に当たるのではなく、抽選で決めている。そこには単に運・不運があるだけだ。学校や職場・公的資格は少数の例外を除き希望者が多い場合、試験と言う方法で選別している。門が狭いほど価値が認められ、難しさ故にそこには権威さえ生まれることもある。普通、誰にでもチャンスは平等に与えられているから、この仕組みに文句を付ける人はあまりいない。言っても変わる事は無いだろう。入りたければ試験に受かりさえすればいい。

だが、数学のフィールズ賞や又ノーベル賞は、日本式のきめ細かな能力選別でさえ対応する事が難しいようだ。日本でのノーベル賞受賞者の経歴を見ただけでもそれは理解出来るだろう。普通我々日本人は勉強が出来るほど優秀とし、今風の基準で言えば偏差値が高いほど頭がいいと信じている。多分概ねそういう図式だというのは分かるが、ノーベル賞は日本の偏差値トップ大学が独占していない。この日本の物差しは残念ながらあくまで世界から見ればローカルなもののようだ。

その卑近な例を、つい最近有名な一流と言われている新聞社が示してくれた。彼らは確かに日本式基準では、文句の付けようがないエリートだという見方もあるだろう。誰もが一目置き、彼等もまた今まで他を睥睨していた節がある。つまり一ジャーナリズムがその社の歴史や構成員の経歴の為権威になっていた。だが一皮むけば自分達の不始末に対して論理的な説明さえ出来ない組織だということが満天下に晒された。「知性に裏付けられた正しい言論」である筈の彼らの無謬神話が崩壊した瞬間だった。その危うさはかつて何度も指摘されていたが、異を唱えるジャーナリズムに対して彼らは不遜に構えていただけだった。なぜなら彼らは自分達より他の同業者を下位にあると決め付けていて、世間でもそれに同調する人が多かったためだろう。権威の拠り所を間違えるとこういった現象はどこでも見られるし、既に各分野の随所で綻びを見せている。その新聞社には時間を掛けて丁寧に検証した跡は見られず、むしろ偽りの権威を保とうとして不都合な事から単純に逃げ回った醜態しか見る事が出来なかった。

知性とは学歴がその習得を保証出来るものではない。学ぶ事で試験に受かったり物識にはなれても、知性豊かな言論人になれるとは限らない。本来であればジャーナリストは一切の権威を疑う視点がなければ本質を探る事も、そして語る事も出来ないだろう。会社の方針や権威に盲従するのであれば、それは単に「見てきたようなウソをつく講釈師」で充分済まされる。彼らは問題になった件に関しては正に講釈師レヴェルの話で、読者にニュースと論説記事を提供していたに過ぎなかった。この社の記事が原因で国際問題に発展しても彼らはその因果関係を認識する能力さえもなさそうだ。彼らの弁明は残念ながら知性とは縁遠いとこにある集団だと自ら認めたようなものだった。

出た学校やそこでの成績、或いは入社試験で人の知性やジャーナリストとしての適性を判断する事は難しい。正解のある問題を解く事にひたすら従ってきた若者集団が、突然知的判断力を発揮するのは、これも又かなり難しいだろう。どんな環境でも、どんな経歴でも抜きん出てくる才能は少数だが確かにある。ただ、内向きの姿勢で与えられたものを勤勉に消化する能力だけで育まれた大多数の秀才には限界があると思うべきだ。

異能と言われる人は通常枠にはまらない故にそう呼ばれている。突出した能力はもともと世間の尺度には合ってない事が多い。会社での意思決定を会議で民主的に行えば、陳腐な物しか残らない。努力と勤勉を称えるあまり、凡庸な教育制度を未だに続けていては一流新聞社や役所に入る程度の秀才を多く輩出出来ても、判断力のある知識人を育てる事は難しいだろう。

最終的には経済の原則があったとしても、言論機関は単なる金儲けの為に存在しているのではない筈だ。人が安きに流れるのを啓蒙する役目も、もしかしたら彼らは担っているのかもしれない。残念ながら社会の大多数は自分の利益の為には手段を選ばない事がある。これは人の持つ極めて分かりやすい本性で、これを克服しないと秩序ある社会の建設は難しいだろう。「我々はどうあるべきか」という問題に対する確たる答えをまだ持っていない。もしかしたらその答えは無いのかもしれない。あっても誰も選択しないかもしれない。エリートだと自負している人達が「人間なんてそんなものだよ」と高を括っていたのでは不遜の誹りは免れないだろう。金儲けを目的とした組織にも経営理念や指針を頑なに守っているとこもある。本来なら言論機関こそ率先してその理念を示すべきだろう。成績の良かった秀才達が狭い料簡で仕切るから時を超えた価値(権威)を築く事が出来ない。一流新聞社のジャーナリストが良い給料と世間の皮相的な羨望で満足するから、天下り先で秘書・個室・車、それに現役当時の収入を要求する官僚と、みすぼらしく同じひな壇に並ぶ事になる。トップを走る彼らエリートに日本の精神生活の基盤を支える自負があるなら、良いと言われている頭を少しその方へ向けてくれないだろうか。

人は鍛え方で幾らでも変わる事が出来る。少しばかりの知識とプリミティヴな本性で満足するから時の評価に耐えられる物が生まれて来ない。知識人なら、この程度では恥ずかしいという謙虚さが根底にあれば、説得力はますだろう。成功者は資産を増やすことではなく、結果として賞賛に結びつかなければ単なる小商人に過ぎないだろう。預金の多寡より志の高さの方に価値があると思うのは、貧乏人故に選んだ権威なのだろうか。

先の短い古稀の老人にはどうでもいいが、今から長く生きる若者には是非考えて欲しい。

平成26年10月13日

草野章二