しょうちゃんの繰り言


原子力発電への意見

何事に関しても言える事だが、もし主張をするなら論旨としてある程度の整合性がその中に含まれていなければ、まともに聞く必要はないだろう。政府のやる事には全て反対というのも一つの意見には違いないが、反対の根拠を明らかにしない限り説得力は無い。困ったことに事実を曲げてまで反対する勢力が21世紀の時代でも国の内外で見られる。さらに、現実世界では有り得ない基準を持ち出して反対する者まで居る。些細な事ならそういった声を無視するのも見識だが、国のあり方の基本にかかわる事ならそうも言っておられない。

  原子力発電の是非について反対する立場の意見を要約してみると:−
   事故が起きた場合、放射性物質による人体・自然環境への影響が大きい
   絶対安全が保証出来ない限り危険なものは排除する
   地震・津波の多発地帯である日本では本来建設するべきではない
   放射性廃棄物の最終処理場が決まってない現在、原発は廃止するべきである
   原発が全面的に停止している現在でも、電力は充分供給されている

述べられたどの意見を採り上げても、まともで反対なんか出来そうにない。まして放射線の怖さはその半減期の長さにあり、人のDNAに長期間に亘ってダメージを与える事から「即廃止」は一見説得力がある。

しかし、考えてみればこういった原子力発電の負の要素は建設する前から分かっていた事で、それでも原子力発電に踏み切ったのが日本の判断ではなかったのか。その前提には電力の安定供給の必要性があり、決して「たかが電気」と言って済まされない事情があった筈だ。

1955年に政治主導で本格的に始まった原子力発電推進の動きはその年、原子力基本法が成立している。ノーベル賞物理学者の湯川秀樹博士は、初期の段階に請われて原子力委員として参加しているが、1年余で辞任している。原子力発電の推進を検討するという同じ方向を目指していても、内部で生じた学者の立場と政治家の立場の軋轢が原因とされている。エネルギー源を原子力に求めたのは天然資源の無い国の究極の選択だったが、当事者以外の国民が全ての事情を熟知した上で賛成したわけでもないだろう。さらに、このプロジェクトは当時一電力会社の決定で出来るものではなかった。これは明らかに国の方針であり、もっと言えばアメリカの意向があったと考えた方が納得がいく。万が一、今回のような重大事故が発生した時、一民間企業が自己完結する方法で処理出来るものでもない。万全を期す学者と、現実的対応を迫られる政治家の葛藤はいつの時代にも見られ、結果としての成功や失敗が後に国民に評価されるだけだ。

我々が文明の利器を求める場合、何らかのマイナス要因はその代償として常に付き纏う。典型的な例が自動車だ。今でも日本だけで年間5,000人近くの犠牲者(死者)が出ている。この数字は毎年漸減してはいるものの、ゼロにする事は不可能だろう。さらに、交通事故で怪我した人数は犠牲者の数倍、数十倍にも上っている筈だ。飛行機も毎年世界のどこかで落ちている。鉄道事故も同じように毎年起きている。

家庭で利用するガスもどこかで爆発や中毒死の事故を起していた。ドイツでは集合住宅でのガス利用を原則禁止していてアパートに住む場合、調理・給湯は電気に頼らざるを得ない。また、灯油を使った暖房機も火災の原因になる事がある。それでも車や飛行機の無かった江戸時代に戻ろうと主張する人はいない。

もし我々がゼロ・リスクをベースに何かを主張するなら、これらの利用を全て禁止しなければならない。しかし、現実にはリスクと利便性のバランスで我々は選択している。ゼロ・リスクは目標として掲げる事はあっても、常時あらゆる分野で実現可能だと判断力のある大人なら思っていないだろう。

ただ、日本の新幹線は開業以来50年を経っていても乗客の死亡事故はゼロで、これは科学技術のハードと運行のソフトが見事に結集した結果だ。設計・建設の段階から徹底した安全への配慮がなされ(道路と平面上で交差しない設計)、毎日の保守・点検が事故を未然に防いでいる。設計の段階から安全思想を徹底すれば、新幹線並みの結果は得られる。つまり科学技術と安全の相関関係を検証する時、この取り組みは大いに参考になる筈だ。スピードだけなら新幹線は充分に余力を持っているが、徒に速さを売りにしてはいない。基本はあくまで安全運行にある。やり方ではリスクは限りなくゼロに近づくことがある、いいサンプルだ。性質が違うものを同一線上で論じれば少々違和感があるとしても、新幹線への関係者の取組みは原子力発電でも大いに参考になる筈だ。

飛行機の一番の弱点は推進力が無くなった時、飛び続ける事が出来ないことだ。上空での推進機関のトラブルは致命的である。自動車は宿命的に同一平面上で無防備な人間と常に接し、また交差する事で人身事故が多発している。何処に弱点があるのかを知る事によって、それぞれが対策を考えることが出来る。それでもゼロ・リスクは有り得ないと大人なら分かるだろう。

原子力発電の場合、炉への冷却水の遮断が致命的トラブルを起す事実を今回の事故で我々素人は初めて知らされた。それは、たった6時間という短い断水時間が原子炉の生命線を握っていて、どういう理由があれこの時間を過ぎて冷却水が供給されない場合、炉心はメルト・ダウンを起すということだった。1000年に一度という想定を超えた地震や津波にも原子炉そのものは耐えたが、冷却水の供給システムは耐えられなかった。緊急補助動力源が津波で冠水し、発電出来なくなった事が原因だった。この弱点に二重・三重の備えがあれば今回の事故は或いは避けられたかもしれない。少なくとも予備電力の動力源を原子炉本体と同じ場所に設置していたのは我々素人にも驚きだった。少し想像力の働く大人なら、高台や少なくとも本体と離れたところに緊急の予備発電施設は設置する位の知恵は働くだろう。その経費は今回の事故処理費と比べれば問題にならないほど安い筈だ。ただ、この意見は今まで報道された事実から、あくまで冷却水が供給されなかった事を原因としているから、正式見解として他の原因でメルト・ダウンが起きたのなら話は別だ。

だが一方、今回分かった事実は、福島第一原子力発電所を除き他の原発は福島第二原子力発電所を含め全て無事だったことだ。これは逆に地震国での原子力発電の可能性に光明を見た事にもなる。それに原子炉は当然の事だが時代と共に改良が加えられているそうだ。この貴重な実体験から、現在の既存施設でも対策さえしっかりしていれば地震や津波にも対応出来ると考える方が合理的だ。

素人が見てもこれ位のことは分かる。何もヒステリックに騒いで反対すべきものとは原爆被爆者でもある私には思えない。他に方法があるならその選択をすればいいだけの話だが、感覚的にクリーン・無害という枕言葉で飛びつき、それで解決する問題でもなさそうだ。「熱物に懲りて膾を吹く」の気持で原発を全面否定するのは必ずしも最善の方法ではないように思える。

発電に関してもそれぞれの方法に一長一短があり、これぞという決め手になるものがない。太陽光発電や風力発電はコスト・安定供給に大きな問題を抱えている。石炭・石油・天然ガスを燃料とした火力発電は円高と原料の値上げで発電コストは高くなっているし、さらに二酸化炭素排出の問題も抱えている。そして天然資源は有限であることも知っておくべきだ。

日本の約30%の発電量を担っていた原子力発電は現在まだ停止したままだ。現在、緊急の予備発電機をフル稼働して穴を埋めているが、供給電力の予備は3%と先日新聞で報道されていた。万が一のため常時10%以上の予備を確保するのが日本電力界の慣行らしいが、夏場に向けてこの数字は危機的な綱渡り状態と言えるらしい。原子力発電無しでも供給には現在問題がないというのは皮相的な意見で、専門家にも大人にも通用しない。

戦後間もない頃はよく停電があり、石油ランプとローソクは当時の生活必需品だった。子供の頃ランプのホヤを磨いた覚えもある。現在ではコンピューターがあらゆる産業で普及し、各家庭にも入り込んでいる。列車は観光用を除き殆んど電気で運行されている。ビルのエレベーターも電気で動いている。病院の重篤な患者も電気でコントロールされた医療機器を使用している。さらに、手術中の停電は致命的でもある。米は電気が無ければ炊けない家庭が殆どだろう。こういった現実を考えると今日では停電は我々の生活全般に亘って多大な支障を与える事になる。それだけ現代の我々は電気に頼っているとも言える。さらに、電動機械・機器で生産される国内の工業製品は、高い電気代では国際競争力を失くしてしまう。

社会の大きな仕組みの中に取り入れられたものを突然廃止すると、その余波は必ず出て、それが大きな割合を占めていた場合、感情的な判断で後始末が出来る代物ではない。国民が大きな犠牲を払い、終戦後耐えたような生活を繰り返す覚悟が出来ていれば原発全廃の意見も説得力を持つだろう。或いは、全ての分野で30%の節電が可能なら原発即全廃も意味ある主張になる。ただ、その代償として産業は停滞し輸出競争力も弱まるだろう。その結果生じた経済の沈滞、失業者の増加を考えてみても原発全廃で多数の国民が納得する社会にすんなり移行出来るとは到底思えない。

あらゆる事が複雑かつ有機的に結び付いている現在、重要な役目を担っているものをすぐに取り除くという選択は現実的ではない。普通の大人なら少し位は連想ゲームも出来るだろうし、因果関係の理解も出来るだろう。作家として、或いは政治家として、或いは評論家として少々名前が売れていても、原子力発電に反対する彼らが適切な判断力を備えているとは限らない。

現存する原子力発電装置はすべて運転可能で、安全にさえ目処が付けばこの既存の発電所を利用するのが一番経済的には安上がりだ。過剰に反応することで自縛状態になっているのが今の日本ではないだろうか。その結果として国力が著しく低下している事も憂慮すべきだろう。核廃棄物の処理は今でも将来でもコストにそんな大きな差は生じない。さらに放射性廃棄物の総量は現在2万トンにも満たないと想定しているが、この量は他の一般廃棄物と比べれば微々たる数字にしか過ぎない。また、核燃料は他の化石燃料と違い再処理の仕方で極めて長期に利用出来る資源とも考えられている。その為には克服すべき課題はあるが、日本ではその方面の研究・技術も進んでいると聞いている(核燃料サイクル)。ある意味夢の燃料と捉える事も出来、今後の進展に期待したい。

先日テレビで、平和憲法(第9条)を守れと主張する経済評論家が、「外国から攻められたら戦わないで死ねばいいではないですか」と述べていたのには感心した。彼は政治評論家の故三宅久之氏から「ポン助」と呼ばれていたが、それだけの覚悟で憲法9条を死守するのなら筋は通っている。問題は平和憲法を守れと主張する国民にその覚悟が出来ているかどうかだろう。「ポン助」評論家の主張は現実的な判断として問題はあるが、彼にその覚悟があるのなら少なくとも完結した意見として認めざるを得ない。

原発即全廃を声高に主張する人達に「ポン助」評論家ほどの腹が座っているのか聞いてみたい。

辻褄の合わないきれい事は普通小学校で卒業するものだが。

平成26年7月7日

草野章二