しょうちゃんの繰り言


原爆と原発

前にも何度か書いたが、私自身長崎での原爆被爆を体験している。被爆当時は現在あるような放射線検査器具は無く、それより住民には原爆とその放射線がもたらす影響に対する知識も無かった。最初は「ピカドン」(ピカと光ってドンと爆発する意)が原爆の代名詞で、すぐに「新型爆弾」と新聞は報道し、最後に「原子爆弾」と正確に言うようになった。この呼び名の変遷からも、専門家を除いて国民はその実態と真の恐ろしさを知らなかったことが伺えるだろう。放射線による二次災害の怖さは広島・長崎両市民共にかなり後に知ることになる。

たった一発の原爆がもたらす破壊力の凄まじさから広島・長崎の後、幸いにして人類は保有しても使用することは今までのところは無い。米・ソ冷戦時代は互いに核兵器の開発及び増産競争を続け、地球を何度も破壊尽くす程の原・水爆をたった米・ソ二国で所持するに至った。現在核兵器保有国は増え、最近では北朝鮮まで持つようになった。

原爆を二発まで落とされた国民として、我々はどういう姿勢で国家間の紛争に備えたらいいのだろうか。単純に相手国の戦力以上の軍隊を持つのも解決方法かも知れないが、これではいたちごっこの戦力増強を互いに競うだけで知恵の無い解決策としか言えない。まして平和憲法の基、非核三原則を守る我が国は隣国に対抗して原爆を持つことは出来ない。

国としての品格を保ち、それなりの自制心を具えている国なら対話によってこじれた問題も話し合いで解決する可能性は残っている。だが、歴史的事実さえ無視し自分達の国益の為なら何でも持ち出す国々が実際近隣に存在するため、我が国の善意に基づいた提案が拒否され、争いに発展することは充分にあり得ると覚悟しておいた方が良いだろう。

我々が生きている時代はそういう時代だと言う事を認識し、国家間の紛争は自国の願望のまま解決する訳でもなく、こちらの正当と思われる言い分が受け入れられるという期待はしない方が現実的だろう。ともすれば自分の単純な思い込みの善意と、絵に描いた正義を相手側や相手国に期待する幼稚な発言が国会議員レヴェルでも時折見受けられる。政権を担う可能性が無い党ほどその傾向が強い。歴史を見れば国家間の争いがその程度の理解と対策で解決する筈がないのは明らかだろう。前にも書いたが、国を守るということは大変コストが掛かり、また国民の自己犠牲が無ければそれは達成出来ない。安全の為の経費は止むを得ない出費だと腹を括る覚悟が必要だ。

日本人が憧れるスイスは国民皆兵の義務があり、女性さえその例外ではない。個人向け核シェルターが一番普及しているのもスイスだ。軍事訓練を受けた国民は自宅に銃を持ち、いざという時のために備えている。永世中立を軍隊・武器なしの無防備で唱えているわけではない。彼らとて巨大国に戦力で勝るとは思っていないだろうし、軍備が紛争の唯一の解決法だとも思っていない筈だ。自分の国を守る為、最低の現実的対応を取っていると解釈した方が正しいのだろう。普通に考えれば国民が銃を持って戦うという事は、国のためには死を覚悟しているという意味でもある。これがスイス国民の下した選択の結果で、何もしないで平和を唱えても安全が確保される訳ではない事を彼らは良く認識している。

もし日本国憲法第9条をありのままに解釈し、平和憲法を守ると言うのであれば、例え他国に侵略され日本国民が殺戮されても武器を取らないという強い決意が無ければ何の意味もないし、世界に対するメッセージにもなり得ない。そこまで我々一人一人の国民に腹を括る覚悟があれば、平和憲法も大変な意味を持ち世界にも誇れるだろう。その覚悟も無くいたずらに平和を唱えるだけで、自国の武力の廃棄を叫んでも、それは単なる幼稚で無責任なきれい事としか言えないだろう。自衛隊と呼ぼうが軍隊と呼ぼうが、そこに属しその使命を全うするとすれば当然人的被害の発生、つまり死ぬことも想定される。だからどの国でも国民は軍人には敬意を払い、それなりの処遇をしている。“税金泥棒”とかつて自衛隊を侮蔑していた政治団体や市民運動家も居たが彼らは大いなる勘違いをしていて、むしろそういった発言で人心を惑わす有害な連中だとも言えるだろう。備えを無くし、平和を唱えていれば平和になるのではない。目先の現象だけに捉われその背景にあるものを考えようともしない彼らの習性はどこで養われたのだろうか。

原爆被災国である日本でも外敵からの備えに色々な意見が出ている。現憲法を含め国を守るために不都合があれば、それは当然修正されるべきでいつまでも他国を当てにする生き方を続けるべきではない。よその国のために犠牲を厭わない軍隊なんてある筈がない。色々な意見があったとしても、独立国としての誇りと民族としての尊厳は自らの手で守り、保たなければならない。

戦後間もない1946年にアメリカでABCC(Atomic Bomb Casualty Commission―原爆傷害調査委員会)が設立され翌年から広島、次いで長崎に出先調査機関が進出して来ている。この組織の主な目的は原子爆弾に拠る長期間の被害調査で、被爆傷害者の治療・治癒を目的としていない。

ここで蓄積された資料には当然放射線に拠る二次被害の詳細も含まれている筈だが、それが日米で共有されているかどうかは定かでない。ただ、長崎大学医学部は原爆による直接・間接に被害を受けた患者を長年にわたり診察し、治癒に当たった歴史を持ちそれは現在でも続けられている。広島でも同様な医療機関があるに違いない。アメリカのABCCが集めたデーターの真意はともかく、放射線に拠る被害の短・長期に渡る膨大な資料は現存するし、その中から放射線被爆に対する医療行為の方向性を見つけることも当然可能だと思える。また、何度も繰り返された原爆・水爆の地上・洋上実験の結果、世界各地に振りまかれた放射性物質の大気汚染濃度も日本を含めた各国が持っていることだろう。

また、チェルノブイリの事故からも多くの被爆データーが蓄積されているだろう。長崎大学の医学部もその経験を活かし医療援護に駆けつけている。

素人には放射線の種類もその影響も、またそれぞれに違う半減期もすぐに分かることではない。広島・長崎・チェルノブイリの放射線量もそれぞれどう比較すれば良いのか分からない。我々が知りたいのは出来るだけ医学的に正確かつ公平な指針であって、政治的配慮や諸々の事情でバイアスの掛かったものは必要としない。

福島の原発事故が原因で原発そのものの存続を含め色々な意見が出され、前の衆・参国政選挙でも国民の判断基準とされた。危険なものは即廃止という明快極まりない意見を始め、各党・各人がそれぞれの持論を展開している。

福島原発で起きた原子炉の爆発はそもそも何が原因であったのかさえ、今日現在まだ正式見解は出てないと理解しているが私の認識の間違いだろうか。地震国日本での原子力発電は、その存続を含め議論する時、福島事故での根本原因を特定することが肝心だろう。素人の私達は新聞・テレビ等の報道でその原因を類推するしかなく、その結果原子炉に冷却水が循環しなかった為のメルト・ダウンだと解釈している。

現実に起きた地震と津波は、それぞれの立地条件の違う場所に建つ原子炉にどういう影響を与えたか記録に残っただろうが、実際爆発を起したのは福島第一発電所だけだった。各原子炉もその設計や建設は時期によって違いがあり、当然新しいものほど改良がなされていると考えた方が自然だろう。福島第一原発では津波に拠る電源喪失が冷却水の供給を不可能にし、メルト・ダウンに繋がった。津波で発電機が冠水し、致命的な結果になる前にやれることがあったのかどうか今後解明されるだろうが、一番の問題は今日の結果を招いたのは天災か人災かという点だろう。非常事態の時まず何が真っ先になされるべきか門外漢の人間が口を挟むまでも無いとしても、適切な対応で爆発事故を防げたかどうかは徹底的に調べてもらいたい。

電源装置の設置場所、電源喪失の場合の代替電源等々今後問題点が鮮明にされるだろうが、こういった点も含めて今後の原子力発電の存続はどうあるべきかを検討すべきだ。さらに言えば、人間がやることに完全なことは期待できないため、考え得る事故の可能性を出来るだけ加味し、失敗した時の対策も当然考えておくべきだろう。原子力安全委員会では「発電用軽水炉型原子炉施設に関する安全設計審査指針」の指針27で、「電源喪失に対する設計上の考慮の中で、長期にわたる全交流電源喪失は送電線の復旧又は非常用電源設備の修復が期待出来るので考慮する必要はない」と謳っていた。今回事故当時の安全委員長はこの指針27の存在を知らなかった。そしてこの指針27に示される基本認識が福島の事故を招いた人災だとも言えるだろう。

事が起きた後の評論は後だしジャンケンにも例えられ品の良いものではない。しかし核分裂のエネルギーを利用している限り常に危険は付き纏い人類はまだ完全にコントロール出来る英知を備えていないと知るべきだろう。だからこそ考えられる想定は全てチェックする必要がある。事故が起きた時の備えに関しても、安全を売り物にしていた手前、周辺住民参加の避難訓練さえ行われていなかったようだ。あらゆる科学技術の産物はリスクを内包していると思うべきで、飛行機は落ちるし、車は事故を起す。薬には副作用があるし、農薬は人体に有害だ。我々は文明の利器を選択の中でしか使えない。背後にある危険を承知の上で我々は科学技術の産物を受け入れている事を直視すべきだ。従って絶対安全なる物は存在しないしそれを期待も出来ない。

国民が思い込んでいる放射線の安全基準である1ミリシーベルトは、たった一度のCT検査でその10倍の線量を受けるらしい。飛行機のパイロットや乗務員も自然の放射線をこの基準以上に常時浴びているそうだ。詳しく検証すれば我々はレントゲン検査も受けられない。がん患者の放射線療法も危険だ。この安全基準では広島・長崎で被爆した住民は今生きていることが奇跡としか思えない。

“熱ものに懲りてなますを吹く”という言葉が我が国にはあるが、その延長で国の安全は武力を持たないことだと頑なに信じている人達がいる。同じ様に大して根拠の無い安全基準を金科玉条の如く振りかざす人達も居る。彼らを満足させ、挙句国民が幸せに生きる方法があるのだろうか。鎖国の時代に戻り日本だけで自己完結させれば電気も車もいらなくてすむ。その代わり人口を当時と同じ3000万人程度に押さえ、大多数は農業を含めた一次産業に従事しなければ国民は食べていけない。現実的な判断では我々はその時代には戻れない。つまり、主張が現実的ではないことが多々ある事を言っている本人達も知るべきだ。

科学技術の進歩は我々を飢えや疫病から救ってくれた。一方、乗り物の事故を無くすには乗り物を否定するしかない。日本から車を無くすことで今後年間5000人あまりの命を毎年救え、大気も汚染されないで済む。大きな意味では原子力発電もこの選択の物差しの上にある。国の安全に関わる軍事力も同じだ。ゼロ・リスクを唱え、本質を見ようとしない姿勢では結論の出る問題ではない。全ての科学技術の挑戦はリスクを内包していて、そこでゼロ・リスクを基準に置けば電気・飛行機・自動車・鉄道・船舶等々あらゆる人類の成果を捨てなければならない。

広島・長崎・チェルノブイリ・ABCCでのデーターの集積は今こそ福島に活かし、現実的な対応を取るべきではないだろうか。福島を神学論争の種にし、ゼロ・リスクの観点から解決法を探っても答えは出ないだろう。大人の知恵が試されている問題だ。

平成25年11月11日

草野章二